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江戸を守れ!「江川英龍と台場」をゆく

前回、東京湾を守る軍事施設として「東京湾第二海堡」をご紹介させていただきました。
https://note.com/nishiok2/n/ne0a4d0192eda
海堡は明治時代のものですが、外国船から東京湾(江戸湾)を守る考え方は、江戸時代末期にもありました。
その海防の考え方を幕府に示したのが、伊豆韮山代官の「江川英龍(ひでたつ)
今回は江川英龍と横須賀、さらに江戸湾の台場についてご紹介いたします。

日本の危機!黒船来航

ペリー①

1853年(嘉永六年)、ペリー率いるアメリカ艦隊が大統領の親書をもって横須賀にやってきます。
外国船はその前から日本に姿を見せていたこともあり、江川英龍は防衛策として江戸湾に台場建設を幕府に提言していました。
すぐには受け入れられなかったのですが、アメリカ艦隊「黒船」の来航に危機を感じた幕府は、江川英龍に台場建設を命じます。

江川英龍って・・・

韮山反射炉②

江戸時代末期の伊豆韮山代官。
沿岸防備の手法に関心を抱き、西洋砲術を学び普及させます。
日本の危機をいち早く察知し、江戸湾の入り口にあたる神奈川県側の観音崎と千葉県側の富津岬を結ぶ線を防御線とし、観音崎や走水、富津岬に台場を建設することを提案しました。
幕府からも海防を命じられ、品川台場の建設や世界遺産に登録された「韮山反射炉(明治日本の産業革命遺産の構成資産)」の建設にも携わります。

品川台場建設へ

品川台場③

観音崎など江戸湾入り口の台場建設は、一年後のペリー再来訪までに間に合わないと判断し、最奥部の品川沖に優先して台場を建設しました。
現在の「お台場」です。
台場とは「砲台」のこと。江戸時代の「東京湾要塞」ですね。
お台場を正しく漢字表記すると「御台場」となります。幕府を守るために作られたものなので、敬意を払い「」が使われました。

品川台場④

品川台場②

第3台場。こちらは台場内を散策できます。砲台などはレプリカです。

品川台場⑦

レインボーブリッジ横にあるのは第6台場。こちらは眺めるだけです。
品川台場は当初全部で11基~12基を作る予定でしたが、予算や工期などの都合上、数基しか完成しませんでした。
結局品川台場が未完成のまま、ペリーが再来日し日米和親条約が締結。日本は開国の道へと進みます。
ただ、アメリカ艦隊は一部完成した品川台場を見て、品川沖から引き返し横浜での締結となったようです。未完成ながら日本の建築技術を見せる効果はあったようですね。
また、韮山反射炉は跡を継いだ息子の江川英敏(ひでとし)の代になって完成します。

観音崎砲台②

観音崎砲台①

観音崎砲台③

東京湾の海防施設は明治政府により引き継がれ、「東京湾要塞」の建設へと繋がります。横須賀の観音崎砲台も明治時代になってから作られました。
もし江戸幕府に予算があれば、品川台場以前から提案していた観音崎や走水、さらには城ヶ島でも、「江川英龍」による台場建設が行われていたかもしれませんね。

本立寺②

最後は静岡県韮山市にある江川家が眠る菩提寺「本立寺」の江川英龍。
横須賀ではあまり知られていない歴史上の人物ですが、今回は江戸湾(東京湾)を守ることに力を注いだ江川英龍を中心に、江戸時代の海防についてご紹介させていただきました。
ではまた次の旅でお会いしましょう。

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