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くるりと変わる風景:日常が宝になる瞬間





1.  「スピードスターのくるり」  との思い出

先日、ロックバンド「くるり」が26年間所属していたビクター・スピードスターレコーズを離れるというニュースを、岸田さんのX(旧Twitter)の投稿で知りました。その瞬間、「こんなにも時が流れたのか」としみじみ感じました。実は、私がキャリアをスタートした90年代半ば、最初に関わったレコード会社がスピードスターで、初めて撮影したアーティストが UAさんでした。スピードスターは私に新しい世界への扉を開いてくれた特別な存在で、深い思い入れがあります。そんなわけで今回の節目にあたり、「スピードスターのくるり」との思い出を振り返ってみようと思います。

くるりと出会って早22年。その間に音楽業界は大きく変貌を遂げ、CDの時代から配信が主流の時代へと移り変わりました。また、私自身も地方での活動を始めるなど、良くも悪くも激動の日々を過ごしてきました。スピードスターからくるりが旅立つことは、私にとって20世紀の音楽シーンが一つの幕を閉じたように感じます。さらに言えば、音楽業界はもちろん、文化全般が新しい時代へと移り変わったことを実感しています。
 
今考えるとスピードスターは、他とは異なる独自の雰囲気を持っていました。それは単なるレコード会社の枠を超え、クリエイティブな価値を共に築き上げる場でもあったのです。彼らは、仕事を始めたばかりでまだ経験の浅い私に、自由にアイデアを出させ、やりたいことを思う存分やらせてくれました。通常なら、デザイナーの絵コンテに従って撮影を進めますが、スピードスターでは、ミュージシャンと直接対話し一緒にイメージを作り上げていくという、他ではなかなか得られない「特別な仕事」をさせてもらいました。このクリエイティブな協働作業の経験を通じて、アーティストとの絆が深まり、現在、地方活動の大きな力になっています。
 


そもそも私にとって写真とは、ただの記録ではなく、「石ころをダイヤに変える」行為です。物そのものには手を加えず、視点を変えることで、隠れていた価値を引き出す。人々が見過ごしていた事物に新たな光を当て、見えていなかった美しさや可能性を映し出す。それが私にとっての写真であり、この視点の転換は私にとってまさに「コペルニクス的転回」を体現するものです。
 


ところで90年代の音楽業界、とりわけJ-pop のシーンは主に海外、特にニューヨークやロンドンに向いていました。「渋谷系」という独自のムーブメントがあったものの、基本的には洋楽が土台となっていように思います。例えば、小室哲哉さんが新人アーティストをプロデュースする際は、徹底的に海外のトレンドを研究し、それをもとにアーティストを売り出すのが常でした。レコードジャケットの制作も同じで、まずはレコード年鑑(レコードジャケットの歴史が一覧できるカタログ)や写真集やファッション雑誌を広げ、そのイメージを参考にする(時にはそのまま模倣する)という手法が主流でした。もちろん最初のうちはそれが新鮮で面白いと感じていましたが、次第に「なぜ常に何かの枠に当てはめ、ミュージシャンそのものを見ようとしないのだろう?」「この状況で、本当の日本の音楽が生まれるのだろうか?」という、もやもやを抱えるようになりました。
 
そんな時に出会ったのが、京都から来た「くるり」です。彼らが他のバンドと決定的に違っていたのは、バンドのイメージを海外のどこかの都市ではなく、自らの地元「京都」を選んだことでした。もちろん、彼らのファーストシングルは「東京」でしたし、最初は特に(京都を)意識していなかったかもしれませんが、時間の流れとともに自然にそのイメージへと移行していった印象があります。また、当時の京都はのんびりとしていて、他の地方都市とそれほど変わらない存在でした。ロックをやるなら「上京」するのが常識だった時代に、くるりはあえて「京都」をバンドの基盤に据えたのです(実際の拠点は東京でしたが)。



 

2.  『TOWER OF MUSIC LOVER』〜音楽が変えた風景

最も象徴的だったのが、私がジャケット撮影を担当した2006年の彼らのベストアルバム『ベスト オブ くるり / TOWER OF MUSIC LOVER』における、夜の京都タワーの撮影です。当時の京都タワーは地元の人々から「トンデモ建築」として蔑まれ、テナントもガラガラで、観光地としてほとんど市民権を得ていませんでした。そんな京都タワーを撮影してほしいという岸田さんからのオーダーがあり、それが後に大きな転機となったのです。

やがて、アルバム『ベスト オブ くるり 〜』の発売をきっかけに、くるりのファンが京都タワーの「聖地巡礼」を始めました 。それを機に、かつて評価の低かったこの建物が新たな価値を見出され、多くの人々に愛される存在へと変わっていったのです。 音楽を通じて、古ぼけた印象だった京都タワーがある時を境に若返り、街全体の雰囲気までをも一新し、最終的に誰からも愛される観光地へと格上げされました。

このように、くすんでいた京都のフィルターが磨き上げられ、ピカピカに輝いて新しく見えるようになった瞬間こそ、私にとっての「コペルニクス的転回」だったと言えるでしょう。



 
また、くるりがバンドのイメージを日本のローカルに据えたことは、当時、海外志向が強かった J-pop のスタンダードをゆるやかに変えていきました。彼らは、「日本の地方ではかっこいいことができない」という固定観念を打ち破ったのです。このように、みんなが「しょうもない」「つまらない」と思っていた、一見無価値に見えるもの(日本や地方といった自らのローカル、京都タワーなど)を、くるりはつぎつぎと宝に変えていきました。彼らは音楽を超えて、文化そのものに影響をもたらすようになったのです。
 
メガヒットを飛ばすミュージシャンは数多くいますが、人々の価値観や社会のあり方を変えることができるミュージシャンはほんの一握りです。くるりはその中のひとつであり、単なるバンドを超えた存在、「現象」として捉えられるようになりました。つまり音楽だけに留まらず、文化全般を包摂する広がりを持つようになったのです。それも単に、岸田さんの視野の広さや知性、そして教養の深さが大きく影響したのだと思います。
 
この成功体験は、次のステップへとつながりました。数年後、私は東京から地方へと軸足を移し、香川県の小豆島や神奈川県の真鶴町といった過疎地で「ローカルフォト」というプロジェクトを始めました。ローカルフォトとは、写真を通じて地域の「石ころ」に光を当て、人々が見過ごしていた美しさを引き出していく。この視点は、くるりを初めとする写真の仕事を通じて学んだものであり、その後の活動や人生に深く根付いています。
 
のちに、私が撮影を担当した佐賀県の公式観光ガイド『さがごこち』(2020年)の帯のコピーを、岸田さんに手がけていただいたことをきっかけに、嬉野市の温泉旅館「大村屋」さんとのコラボレーションも生まれました。時が流れ、「音楽と地方」や「音楽と温泉」といった、かつて繋がりのなかった分野が互いに結びつき、その土地独自のカルチャーが生まれつつあります。



 


3.  日常の風景が非日常となるとき

『ベスト オブ くるり / TOWER OF MUSIC LOVER』のジャケット撮影からもう一つ生まれたものがあります。それが、現在私がローカルフォトとともに、地方で展開している「暮らし観光」という活動です。
 
撮影はメンバーは参加せず私一人で現地に赴き、当時の担当だった鈴木さんが同行してくれました。当初は京都タワーのみを撮影する予定だったのですが、「せっかく京都まで来たのだし、他の素材も撮影しよう」ということになり、岸田さんに「思い出の場所」を直接ポイントしてもらった地図を持って歩きました(この頃はガラケーで、Googleマップもデスクトップ版のみ)。彼が印をつけたのは、友達と遊んだ川辺や遊技場、ファミレス、叡電の駅など、いわゆる観光名所とは程遠い日常風景でした。

予備的に撮影した京都の日常の写真群は、結果的にとても素敵なパッケージとブックレットに仕上がりました。驚いたのは、アルバム発売後にファンがそのブックレットを手に、京都タワーを皮切りに「聖地巡礼ツアー」を始めたことです。地元の京都はもちろん、東京をはじめ全国各地からファンが訪れ、何気ない京都の日常や暮らしが、まるで観光地のように注目される瞬間を目の当たりにしたのです。
 
ここで私が気づいたのは、地元民にとってなんてことのない日常が、よそ者にとってはとっておきの非日常になるということ。誰かにとって思い入れのある場所であれば、そこは観光地となり得ます。まち歩きが楽しければ、どんな場所でも観光地になるのです。この気づきが後の「暮らし観光」というコンセプトへとつながり、現在では岡崎市や嬉野市、真鶴町など、さまざまな場所で実践しています。




 

4.  石ころをダイヤへ 次の転回

ところで、コロナ禍の間ずっと聴いていたのが、アルバム『ソングライン』に収められた『その線は水平線』でした。さらに、noteに掲載されたそのメイキング記事も読みました。くるりが全身で時代を乗り越えようとする姿は、私に大きな勇気を与えてくれる。
 
人は、あまりにも幸せな経験をするとつい、「もうこれ以上の幸せは来ないかもしれない」と思ってしまいます。また、そんな過去を愛おしむあまり、前に進めなくなることもあります。しかし、それもまた幻想に過ぎません。「その時代に咲く花」は、その時代にしか咲かないのです。だからこそ、私たちは「この時代に咲く花」をしっかりと咲かせるのです。
 
「今って、つまらない?面白くない?」そんなことを感じることもあるかもしれません。しかし、その視点を「くるり」と変えれば、石ころにしか見えなかったものがダイヤに変わる。そんな石ころが、私たちの足元にごろごろと転がっています。コペルニクス的転回は、まだまだ続きます。
 
くるりのみなさん、おつかれさまでした。新しい「転回」を楽しみにしています。
 

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