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カエルカエルカエル

「来週からプールだからな」 先生がそう言うと、クラスの男子は「よっしゃー」と大声を上げた。蝉の声に負けじと、グラウンドに男子たちの喜びが響き渡る。そんな中、ケンゴだけは喜べずにいた。「ケンゴ、お前残念だったなー」 クラスメイトの一人が笑いながら言った。「まだ分かんねーし」 ケンゴは強く否定した。そして、右足首の包帯を恨めしそうに見つめていた。

ケンゴが右足を怪我したのは一週間前のことだ。原因は今にしてみれば、本人もつまらないと思うことだった。ケンゴは公園で友達のショウタを待っていた。ショウタは集合時間を少し過ぎた頃にやって来て、どこかニヤついていた。「ケンゴ、これ見るか?」そう言うと、背負っていたリュックから大きめの何かを取り出す。「お前これドローンじゃん」 ショウタが取り出したのは、手の平よりも大きな新品のドローンだった。ケンゴは飛んでいるドローンを生で見たことがなかった。

「ちょっとさ、俺にやらせてよ」「まぁいいけど、壊すなよ」 ショウタは簡単な説明をした後、コントローラーを渡した。「飛べぇぇ!」と叫ぶケンゴ。そんな期待とは裏腹に、少しばかり浮いたドローンはすぐに地面に落ちてしまった。「まぁ無理だよね」ショウタはドローンを拾いながらそう言った。「あと一回やらせてくれよ」「言ったろ、見るか?って。元々やらせるつもりはなかったたんだから、ダメだよ」その言葉にはトゲトゲしさがあった。「ほら、こうやってやるんだよ」ドローンは勢いよく上昇すると、二人の頭上を飛び回った。

右に左に空中一回転と、自由自在な動きを見せるドローン。それは確かにケンゴが見たいものではあった。しかし、見ている時間が長くなるにつれて別の考えが浮かんだ。「あれ、届くんじゃね」ドローンから逃げる鬼ごっこを思い出しながら、そんなことをつぶやく。出来ると思ったらやらずにはいられない。気がつくとケンゴはドローンめがけて走っていた。「いっけぇー!」叫びとともにジャンプする。指先にドローンの感触があった。「触った!」と喜びの声を上げたのも束の間、右足に痛みが走った。「痛ってぇー!」決してわざとではない、目を開けていられないくらいの痛み。着地の瞬間に足をひねったらしい、のたうち回りながらそう思った。涙で世界から直線が消え、ボヤボヤになっていく。そんな世界の中でケンゴが見たのは、ドローンに駆け寄っていくショウタの姿だった。

ケンゴはその後病院に運ばれ、全治三週間の捻挫と診断された。ショウタはと言えば、近くの家に助けを呼びに行っていた。決してドローンだけを気にしているわけではないようだった。けれどもその日以来、ショウタはケンゴを無視するようになった。ケンゴはその理由が分かっていた。あの時ショウタが駆け寄って拾っていたのは、それだけでは飛ぶことのない、折れたプロペラだった。おぼろげな世界の中でも、それだけはハッキリと見えてしまっていた。


「次の体育はプールだからな、水着忘れるなよ」先生の声が後ろから聞こえてくる。「どうせまだ入れませんよぉ」ケンゴはため息交じりにそうつぶやいた。「せっかくのプールがなぁ」足元に注意しながら教室へ向かっていると、一匹のカエルが視界に入った。ここ数日雨の降っていないグラウンドはカラカラで、カエルも苦しそうな動きをしている。「お前もっと後先考えて…って、まぁいいや、こんなとこいたら死んじまうだろ」そう言うと、ケンゴはカエルを手の平に乗せ、花壇の水道まで運ぶことにした。

水道に着くと校舎の陰になっているからか、少し涼しさを感じた。「ふぅー、俺だって次授業があるんだからな」蛇口をひねり、カエルの頭の上から少しずつ水を垂らしていく。その横でケンゴも水を飲む。「まるで滝行だな」修行姿を見ながら一人で笑っていると、始業のチャイムが鳴り響いた。「やっべ、まぁ足のせいにすりゃいいか。お前、ちゃんと田んぼとかに帰れよ、カエルだけになー」蛇口を閉めると、膝についた砂を払ってカエルに別れを告げた。


「次は屈伸、イチ、ニー、サン、シー」先生の指示で準備運動が行われている。ケンゴはプールサイドの日陰でその様子を見学していた。週明け、今年初めてのプールは快晴で始まった。「ケンゴ、悪いなぁ、お先にー」クラスメイトの一人が自慢げに言う。「うるせぇーやい」言い返そうとした言葉は、先生の注意でかき消されていた。「コラァ!早く並べ!」自慢屋が先生に怒られたこと、それはそれで清々するところがあったが、プールに入りたい思いは変わらなかった。

ワイワイと楽しむ声が響き渡る。始まったばかりということもあって、タイムを計ったりというわけではないらしい。「せんせー、俺も片足くらい入れたいんですけどー」「ケンゴ、その足でウロウロしていい場所じゃないだろ。早く戻れ」自慢屋と同じく怒られてしまった。ふてくされながら、もといた場所に戻ろうとする。そう、ただ戻ろうとしたその時だった。先生の言う通り、ウロウロしてはいけなかったのかもしれない。ケンゴは左足を滑らせると、右足をかばうようにしてプールに落ちた。

「あの時よりもボヤボヤだ」ケンゴは背中がプールの底につくのを感じながら、そう思った。右足の痛みはない。と、同時に左足がうまく動かせないことに気づく。「あんなにプールに入りたかったのに、こんなに泳げなかったっけ」太陽が自分の吐く息の、泡の一つ一つで輝いている。泡のそれぞれに世界があるようだった。ただ、あの時ハッキリと見えたプロペラはそのうちのどれにも見当たらない。「なんであんなことしたんだろうなぁ」ボヤボヤの世界が苦しさに満ちていることが分かると、ケンゴはゆっくりと目を閉じた。


「そろそろ起きてくださいな」

ケンゴは気がつくと、プールサイドで仰向けになっていた。自分の声が反響しているような、そんな不思議な声が聞こえた気がする。口の中は少し塩素の味がしていた。

「えっ、なにこれ」ケンゴが見たのは、赤や青、緑だったり黄色、そういった色がなくなった、灰色の世界だった。そんな世界の中で、時が止まったようにみんなが固まっている。プールの正面には人だかりができていた。その中央で誰かが倒れているようだ。「誰だ、あれ」立ち上がって目を細める。倒れていたのは右足に包帯を巻いた生徒、ケンゴだった。

「何から何まで分からない、といった感じだね」さっきと同じ声だった。ケンゴはその声が背後から聞こえたものだ分かると、ゆっくりと後ろを確認する。「やっと振り返ったね、カエルだけに」誰もいない、一瞬そう思ったケンゴの足元には一匹のカエルがいた。

「カエルが喋ったー!なんてリアクションはいらないよ。ここは生と死の間の世界で、簡単に言えば君は死んでしまったんだから」カエルは唐突に話し出した。ケンゴは恐る恐るカエルに質問する。「お前は、あの時のカエル?」カエルは目をパチクリさせると、突然笑い出した。「察しがいいなぁ君は。そうだよ、君があの時助けたカエル、それが僕だよ。そんな言葉が最初に出るなんて、意外と冷静だったりするのかい?もっと泣いたり、叫んだりするのかと思ったよ、あそこの彼みたいに」カエルはそう言いながら、人だかりを指差した。

倒れている自分に大勢の生徒が駆け寄っている。そして、そこにはショウタの姿もあった。「ショウタ」思わず名前を口に出す。ケンゴはショウタが泣いているのを見たことがなかった。いても立ってもいられない。拳を強く握ると、この世界に対する恐怖はすでに消えていた。「カエル!俺はもう、もう死ぬだけなのか」「ん?生き返れるよ、カエルだけに」

生き返りたい、絶対に叶わないようなそんな願い。それがあまりに簡単に叶うと言われ、ケンゴは目を丸くした。「僕は君に助けられた。あの時僕は今と同じ世界にいた。灰色で、風も吹かないような止まった世界だった。そんな世界から僕を連れ出してくれた。今度は僕が君を助ける番なんだ」

カエルの恩返し、知っている物語は鶴だった気がする。そんなことを思っていると、「ただし!」とカエルが付け加えた。その言葉とともに、カエルがひと回りもふた回りも大きくなっていく。「君は君の“カエル”を見つけなくちゃいけない。最後に僕にそう告げたようにね」カエルはそう言いながら、プールサイドの幅いっぱいに膨らんでいく。「おい!落ちるって!」プールの淵で踏みとどまっていたケンゴは、とうとうカエルの腹に押し出された。

再びボヤボヤの世界が広がった。水の中は透明だけれど、空や太陽は灰色のままだった。水面に向かって無数の泡粒が上がっていく。ケンゴはその泡をつかみ取るように、手をのばした。

すると、つかんだ泡が人の手のような形を作りあげていく。その手からは思いが伝わってくるようだった。「ケンゴ!起きろよ!」「しっかりしろよ、ケンゴ!」思いが強く響くにつれて、握ってくる力も強くなる。思いはどうやったら返せるのか。分かりはしないけれども、同じようにこれだけは伝わってくれ。ケンゴはその一心で、叫び、そして強く手を握り返していた。

「ショウタ、ごめん。俺、お前のドローン壊したのにさ、謝りもしないで。本当ごめんな、ごめん」

「ケンゴ?大丈夫か?」

空気を伝わるしっかりとした声だった。いつの間に目を閉じていたのか。ケンゴが目を開けると、ショウタが涙しながら隣に座っていた。


ケンゴは「カエルを見つける」の意味が分からないままだった。ただ、プールの一件以来、それまでとは打って変わって、ショウタと話すようになっていた。

「ケンゴ!今日の給食カレーらしいぜ」「カレーかぁ、カレー、カレールー、カエールー、カエル。カエルだけに?」「何言ってんだよ、カレカレカレカレ」「うるせぇ、早く次の教室行くぞ」ケンゴは恥ずかしさを誤魔化すようにして、話題を変えた。





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