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本を手に取るだけでいつだってそこには冒険があったけれど僕はそれを捨てたしいずれ皆それを捨てる【紙と電子の物語】

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本を読まない若者が増えたらしい。

全ての抽象思考の源は文字である。抽象思考が理念を育て、理念は現実を超える。現実を超える輩は皆、可能性の反逆者である。そういう意味で、本を読む若者が減るということは、人類は可能性を閉ざしているということである。人類の自己家畜化が順調に進んでいると言えるのかもしれない。まあ良い。

僕は既に物理的な紙の本というものを一切読んでいない。選択可能なら当然初めから電子書籍として購入するし、電子化されていないものは止むを得ず紙で買うが、即自炊して電子化する。紙のまま読むことは、ない。

あまり話したことはないが、実際は、僕の紙へのノスタルジーはかなり強かった。だからこそ、不退転の断固たる決意でペーパーレスに臨んでいる。紙という記録媒体は、もはや時間の問題で石版のような扱いになるだろう。だから、僕は少しでも人類のその「先」を知りたいがゆえに、大好きだった紙を完全に捨てた。

今後も、もう二度と紙で読み書きする生活に戻ることはないだろう。

僕は、紙の本が本当に大好きだった。ハードカバーの存在感ある装丁の本が大好きだったし、応募して手に入れた「特製ブックカバー」を一体何冊の岩波文庫にかけてページをめくったかわからない。いつも手に汗握りページを湿らせていた、本を読むには大きすぎて持て余した僕のこの手は、一生紙の感覚を忘れることはないだろう。

それと同時に、これからの時代を生きる若者が、きっと、そこまで強烈に紙の感覚を心に刻む機会を持つこともまた、ないのだろう。それでいいのだ。それは、僕が巻物で書物を読む時代の人々の感覚を知らないのと同じことだ。断じて悲しむべきことではない。これは喪失ではなく革新の物語なのだから。

確かに、紙の本には読む以外に「所有する」という目的があり、「手にする」という目的があり、「ページをめくる」という目的があった。電子書籍はそうした物理属性を外部に預け捨てることで、圧倒的利便性を有した。電子書籍に馴染めない古い人々は、読んでいる気がしない、記憶に定着しない、などと様々な感想を述べるが、要するに、それは馴染めていないだけのことである。なぜなら、僕はもう完全に馴染んだからだ。頬ずりするほど大好きだった紙の本へのノスタルジー、その感情も、僕の中ではもはや記憶の断片、単なるデータと化した。

物理属性とは、つまり、一回性、物語性ということだろう。物理的な本は中身の情報というより、「本」という形式、表現方法を丸ごと意味する。「本」とは、単なるデータの保存形式ではなく全体としての「表現」のことなのである。したがって、紙から電子に移行する際に、物理属性に特に重きを置いていた「表現」は当然エラーを引き起こしただろう。

もし、僕に子供がいたとして、唯一子供に紙で読んで欲しいと思う本は、ミヒャエル・エンデの『はてしない物語』である。

この本だけは、ハードカバーのしっかりした装丁の、その重さを小さな両手で受け止めて読んで欲しいと思う。読んだことがある人には理由は明らかだと思うが、この物語は本の物理属性に大きく依存しているからだ。いわば、旧世代の『ソードアート・オンライン』である。もっとも、この表現は逆転的である。そう、紙の時代からちゃんとVR的な「異世界転生もの」は、あったのだ。夜更しして親に部屋の照明を消されながらも、ベッドで隠れて読み耽った冒険の日々。そう、確かに「本」でなければ表現できない「世界」が、そこにはあった。

しかし、もう良いのだ。それは、ひとつの文化の記録。我々は前に進もう。やっぱり、僕に子供がいたとしても、きっとエンデを読ませることはないだろう。時代は変わったのだ。一緒にVRゲームを楽しむのが、正しい親の姿なのだ。子供を旧世代のノスタルジーに巻き込んではいけない。子供のゲームプレイ「時間」に制限をつけることに、何の合理性もない。

文化をデジタル化することに反対する勢力は根強い。書籍の分野なら、特に、電子化を許可しない芸術家肌の漫画家などが目立つ。しかし、もはや電子化に抗うことに、何の意味も価値もない。世界そのものが、デジタル化(断片化)したのだ。全ての人々がそれぞれ切り取られた小宇宙を持つこの世の中で、目先の断片化に抗ったところで意味はない。いくら高級紙に立派な印刷で出版しようが、どれほど美しい装丁にしようが、紙の本など、僕は、瞬時にバラして、自炊して、電子化してからしか読まないのだから。

もっとも、気持ちは痛いほどわかる。僕だって、かつて、新しい知的冒険へ旅立たんと紙の本を直に手にする、ただそれだけで、一体どれほどの興奮を得ていたことか。そして、それを捨てることに、僕がどれほどの痛みを感じたことか。

さらに踏み込むなら、紙の本は、実は読むための存在物ではなかった。物理的な「本」というのは、電子書籍のように既にクラウド上に保存されたデータと「同期する」だけのかりそめの複製ではない。「本」とは、先ほども言ったように、存在自体が丸ごと、情報の保存形式を意味していたのだ。それは、所有して手に取った時点で、もはや全ての役割を終えたと言って良いものだ。これは大げさな話ではない。紙の本は、「読む」ために在るのではなく、間違いなく手元に置き、「手にする」ために在ったのだ。それを、不器用な僕の手は、いまもはっきりと覚えている。

電子書籍には、所有にまつわる付随的な感情は一切存在しない。電子書籍で、感情を「手にする」ことはできない。純粋に抽象された読書体験の感覚のみが、ある。情報化とは抽象化であるから、物理属性から切り離されデータとして自由になったことは、必然である。今後もテクノロジーの進歩により、本だけでなく更なる文化の情報化抽象化は進むだろう。いずれ、我々は身体性の最後の砦、すなわち自分の「身体」が持つ物理属性すら疎ましく感じ始めるだろう。そんな時代は、必ず来る。物理的に美人であったりイケメンであったりすることよりも、アバターという「データ」こそが最も自分らしさを表現していると「される」ような時代も、必ず来る。生殖行為すら、いつの日か物理属性を捨てる日が来るだろう。さらに、「生殖」の意味すら抽象化され、「性別」も完全に抽象化されるだろう。我々の存在自体が「はてしなく」抽象化されてゆく物語……。

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