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事実から遠く離れたこの世界の片隅で不自由に生きること(情報と政治と私)

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僕は以前からコミュニティ内なんかでは陰謀論まがいの確度の低い情報を時々紹介したりしていたが、まぁ「何らかのレベル」というくらいの意味では「そういう」勢力が存在することは、たとえば、今回のアメリカ大統領選なんかを例に挙げれば、ほぼ明らかであろうとは思う。僕はどちらの立場に立つわけでもない。これまでもどう考えてもおかしいと思うことは多々あったが、我々のあずかり知らぬところで握りつぶされた事実もたくさんあったのだろう。しかし、この一連の情報にトランプ陣営による一方的で過剰な演出が全くないとも、もちろん言い切れない。ソーシャルメディアを見ていると、トランプ氏こそが正義という一色に染まっている一部勢力もないではないが、トランプ氏も一般人ではなく権限を持った側のメディアの上位利用者である。残念ながら世界の片隅で暮らす一般人である僕には「真実」を見抜く情報源がない。そっち側の人々は、不正を捜査し裁くべき立場の公的機関すら不正に嚙んでいるかもしれないなどとも主張していたりするが、そんなことがあったとしたら、一般大衆に一体何ができるというのか。だから、僕は以前に全人類を等しく部品化するしかないという主張の記事を書いたのだ。

不正や腐敗と戦う「システム」は不毛すぎる。そう、難しいとは思うが仮にこれで結果が覆ったとしても、結局はシステムが全てを腐敗させてゆく未来にしかならない。政治の話は、大小に関わらず全てこの「システム」の話である。もう少し規模を小さくして細かい事業別の規制緩和の話をしたとしても、結局同じことである。とても頭の良いやる気のある人がいたとして、そういう貴重な「リソース」は目先の既得権益者との力学の調整に費やされる。そして、部品化がなされない限り、その構造は永遠に入れ子として繰り返され、システムが「真実」に届くことは決してない。

国際政治的にはいま一番目先の脅威はChinaであることは疑い得ないことかもしれない。しかし、それは僕の中では目先の話だ。これを単なる目先の話としてしまう僕という人間はおおよそ「浮世離れ」していると思われても仕方ないのかもしれないし、実際そうなのだろう。しかし、僕が興味のあるのはその先の話なのだ。先程からしつこく繰り返しているが、政治とは、所詮は目先の現実の調整のことを指す。政治は理想の世界は扱わない、より正確には、扱えない。もちろん、目先で世界が潰れては困るので、せめて「正義」が勝たずとも客観的とされている「法」は機能して欲しいとは願う。しかし、そう感じる僕の気持ちもまた、何らかの陣営の思惑通りなのかもしれない。僕にはそれすら判別する権限がない。もう一度繰り返すが、僕には何の判断を下す権限も与えられていないのだ。それが現代における「一般大衆」である。我々は、本来持っていたありのままの「不自由」という本質と引き換えに、極めて一元的ないまの制限付きの「自由」を得たのだから。

現状の世界を見渡すに、多少多めに情報ソースを持っている人が真偽不明の様々な情報をばらまいているが、当たり前に嘘がメディアに乗る時代なので、論理のみで独立して構造的に妥当性を判断できない「ファクト」については、大衆は置いてけぼりにされるしかない。「ファクトチェック」なんて言葉がいかに欺瞞であることか。「ファクト」も「チェック」も、全ては政治である。すなわち、「システム」に支配されている。そして、ソーシャルメディアを通じて世界の片隅から片隅へと漂着する大衆の意見が、あっちへこっちへと塗りつぶされるのを見ていると、結局マスメディア時代との本質的な差異を感じない。どこまでいっても、大衆は「判断」しない。もしくは、「判断」できない。日本国内で卑近な例を挙げるなら、一時期のN国党の盛り上がりなどを思い出していただければわかるのではないか。詳細を説明するまでもないだろう。

「大衆」は政治への参加者ではなく政治による消費物である。

テレビはダメだ。マスメディアは駄目だ。これからはソーシャルメディアだ。Twitterだ。YouTubeだ。

上部構造は変われど、大衆の側は何も変わっていない。何にも、全く何一つ、変わっていない。TwitterだってYouTubeだって私企業が運営しているのだ。必ず一定のバイアスはかけられている。当たり前すぎることだ。だから、「全人類の部品化(詳細はここでは触れないので気になる方は上の記事を参照)」を果たさない限り、「高度な政治理論」などいくら研究しても、何の意味もない。

「高次元」は「低次元」に勝てない。

高尚で素晴らしい理論などというものは、下品な政治力学にいとも簡単に制御下に置かれてしまう。アカデミズムの構造も同じようなものだが、ピュアに知識を追求し深めることがそのままピュアに世界を救うというリニアな構造になっていないのだ。そんな「世界」への不信で、青臭い僕は「学ぶ」のをやめた。僕のいまの活動の動機は「学び」ではない。全ての動機がただ「生きる」ということと融け合っている。溶けたのではないし、もちろん、解けたわけでは全くない。融けたのだ。これも部品化の思想と親和性がある。まあでも、部品化の思想は向こう百年は実現不可能だろう。僕が生きているうちに実現を目指すべき仕事でもなさそうだし、きっと僕以外の誰かによる似た主張がいつの日か世界を変えてゆくのだろう。それまでは知性という高次元の貴重なリソースは政治という低次元の構造に縛られ消費されてゆくのだろう。それも仕方のないことだ。そして、全ての欲求が融けてしまった僕に残されたことは、ただこの世界の片隅で愛を叫ぶ程度のことしかない。せめて身近な人間に愛を伝えられたら僕はそれで良い。僕に大統領選レベルの「事実」をどうこう語るような権限は、この「美しい」世界から与えられていないし、身近なレベルの規制改革に捧げて燃やし尽くせるほどの「器」も持ち合わせていない。

そんなことはない。人はいつだって何だってできる。自由は万人に与えられている。「自由」こそが「正義」だ。君が真にそう思うなら、声高らかに「正義」を語れば良い。それも「生き方」である。しかし、最後にもう一度だけ言うが、自分の持ち合わせをよくよく検討整理してみても、やはり僕にはその「自由」は与えられていない。

だから、僕は「自由に」ではなく「不自由に」生きてゆく。それこそが生きることだと感じるから。ニヒリズムではない。不自由に精一杯生きてゆく。

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