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「マナー」の本質とデジタル社会におけるその未来【全文公開】

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先日「マナー」についてワークショップが開催されていたが、少し消化不良感が残ったので、補足的にマナーについて書き残しておきたい。

個人と個人の狭間にある行動規範。それはウチからソトの順に、エチケット、マナー、ルール(法律)である。

まず、マナーはエチケットとは違う。マナーとは、他人への気遣いから生まれたものではなく、あくまでも共同体形成のために必要とされて生まれたものだ。そして、その最大の要素は、「型」である。極端な話、「型」さえ守っていれば、内心どれほど卑しい汚い考えを巡らせていても、マナーは守られる。だからこそ「型」にはまらず「心」を大切にしよう、なんて言う人もいる。それもわからなくはないが、僕は「型」には間違いなく一定の効力があったことは否定できないと思う。「心」ではなく「型」の文化であったからこそ、かつての日本には西洋とは全く異なる、ある種の「和」が存在したのだ。

「型」とは何か。身体である。誰が何を考えているのかなんて、どうせわかりゃしない。全ては「型」を通して判断され、「型」が共同体を成立させていた。日本で生まれ育った者にとって、身体というのはとても複雑な概念である。日本における「身体」は大きな断絶を経てねじれているからだ。かつて、日本は間違いなく「型」の文化を礎にしていた。おびただしい「型」に守られた文化を持っていた。有職故実(ゆうそくこじつ)という言葉をご存知だろうか。公家有職と武家故実。平安時代、公家は儀式から生活までの礼儀作法一般について詳細な知識体系を築き上げ、その継承こそが公家としてのアイデンティティを保っていたようなものであった。その後、政権を継いだ武家は、対抗してより武士らしい武家故実という知識体系を作った。そして、開国し、戦争に負け、日本は一度バラバラ死体になった後、現在継ぎはぎのゾンビとして再生中である。いまの日本に文化的な意味での身体感覚(たとえば古武術などに見られるような)など存在しない。

それにしても、何故、そんな有職故実のような複雑な知識体系が必要だったのか。現代社会において、マナー(に似た何か)はかなり多面的で複雑なレイヤリングで身の回りに散らかっているため、我々はマナーによって日常が保たれていることを忘れがちである。しかし、本来、同じマナーを守る者こそが共同体のウチの人間であったはずだ。マナーなしになど、おちおち暮らせない。

例えば、食事のマナーひとつ取ってみても、その作法が同じであるからこそ安心して食事ができるという、社交化の心理は存在する。原始的な感覚からすれば、「食べる」という行為は、無防備で危険な行為であり、あまり人に見せるべき行為ではない。性行為や排泄行為を人前でする人間は現代でもいない。しかし、「食べる」という行為は、一定のマナーを共有することで危険性を抑えることに成功し、ついでに言えば不快感や羞恥心の類も抑えることに成功したわけだ。だから他人と一緒に「安心して」食べることができる。

日本人は、特に「唇」に関わるマナーについて、かなりデリケートであった。箸がその代表であろう。食事において、可能な限り他人と唇を共有しない。それがマナーであった。おそらく、多くの家庭において個人が使う「箸」は専用になっているはずだ。しかし、どうだろう。マイスプーン、マイフォークという概念は、少なくとも20世紀の日本においては多くはなかった。「箸」ではない舶来の食器に対しては文化的な対応がずっと保留されてきたわけだ。もっとも、いまではもしかしたらそういう家庭もあるかもしれない。しかし、それこそ、まさにスプーンやフォークの箸化であり、日本文化の対応が単に追いついただけのことであろうと思う。まあ、見ている限り、現実的には、マイスプーンやマイフォークは市民権を得るほどには広がらないようではある。

他にもいろいろある。「飲酒」についても日本はそれなりの文化を持っていた。「無礼講」なんて言葉がある。ただ上も下もなくはちゃめちゃに振る舞うことを指すと安直に思っておられる方も多いだろう。現代的な無礼講の言葉の由来は少し違うようだが、古代の無礼講は、元々それなりのマナーに基づいたものであったはずである。宴会は、式三献(秩序)に始まり、その後酒宴へと移行する中で秩序の崩壊、すなわち混沌を体現することが締めくくりとなった。秩序の死が新たなるより強固な秩序の再生を導く。そのクライマックスとしてある種の「暴力」が許容されていたわけであり、初めから身分をわきまえず無秩序に振舞う行為は、無礼講でも何でもない。

つまり、いまの我々は「型」の名残りを机の上に並べて遊んでいるだけで、もはや「型」の世界を生きていない。「型」を維持するのに必要なことは、「しつけ」である。親が子供を忍耐強くしつけること、あるいは逆に子供が親のしつけを忍耐強く受け入れること。そんな光景は、もはやほとんど失われた。全ては合理性のみで判断される。合理的でない「しつけ」は、SNSで「ダメ出し」されて、消えてゆく。

僕は、それが悪いことだと言っているのではない。時代に応じて文化は変容するべきである。それで良いのだ。そもそも、中世や近世に作られた「型」は複雑すぎる。なぜあんなにも複雑な「型」を作り出したのか。正確なところは誰にもわかるはずもない(それがわかるなら未来も正確にわかる)が、僕は脳の機能を持て余していたからではないかと思う。つまり、処理すべき現実の情報量に対して脳の処理能力が遥かに上回っていたため、余計な「型」をたくさん作って脳の余剰を消化して機能上の遊びをなくしていたのではないか。余計な「型」をたくさん作りそれを守るという複雑な情報処理が、実際に個人の脳の処理能力の測定という意味で、社会的にも役立ったはずだ。文化とは余剰である。

日本には、武道に始まり、書道や華道、茶道など様々な「道」があるが、それも本来はそうした脳の余剰の消化という存在意義があったのではないか。無論、西洋においても同様に文化は発生しているわけだが、西洋の画家が絵画を描く動機と、日本の書道家が書をたしなむ動機は全く異なる。画家は「心」の命ずるままに描く。しかし、あくまでも「型」すなわち身体が先にあるのが道である。

脳の処理能力と扱うべき情報量。現代において事情は逆転した。現実の情報量に対し、脳の処理能力は圧倒的に不足している。正確には、コンピュータの進化により現実の情報量の可視化(これまで拾えていなかった情報が拾えるようになった)が脳を圧倒的に上回った。だから、余計な「型」遊びをしている余裕がなくなったのだろう。脳の処理能力は全てリアルな情報処理に回さねば現実を認識することができなくなってきている。正直それでも追いつかないのだ。だから、合理性だけで全てを判断してゆくという現代的スタンスは、極めて「合理的」で正しい。ただ、かつて「型」遊びをしていたことだって、その当時においては「合理的」だったのだ。だから、その「型」の名残りを自分は現代から動かずにただ非合理だと吐き捨てるような発言は、僕は愚かだと思う。それは非合理なのではなく、もはやただの名残りなのだ。もう本人はそこにはいないのに、いつまでもその人に文句を言い続けているようなものである。

究極的には、我々はおそらくAI(人工知能)のサポートによりいつか身体を失う。身体とは「型」でありマナーである。身体と身体が生身で触れ合うからこそ、安心して食事をするために、そこにマナーが必要だった。上流階級であることを示すために、上流階級としてのマナーが必要だったのも同じことだ。日本における「風俗」という言葉も、本来の意味は、上流階級の「優れた」スタイル(風)を下層階級の日常(俗)へと儒教的教化を持ってうつすという意味であった。そういう生身の人間同士(個人間、階級間)の距離、その狭間をマナーが埋めていたのだ。しかし、いまや、全ての人間のウチ同士が(SNSなどにより仮想的に)隣接した。つまり、マナーの存在するスペースはなくなった。

だから、究極的には、これからの時代においてもはやマナーは100%不必要なものとなるだろう。しかし、社会を維持するためになんらかのルールは必要ではないか。

そう、社会生活において、生身の個人と個人の狭間を埋めていたのはマナーであるが、その境界線を守っていたものがある。それは、マナーではなく、よりソトにある、法律、すなわちルールだ。

これからの時代は、マナーではなくただ合理的なルールのみが存在する時代であろう。ついでに言うと、エチケットというのは、法律とは逆に、マナーよりもさらにウチ側にある。個人の価値観の範疇だからだ。これは身体が失われても残る可能性はある。身体の振る舞いではなく「心」遣いだからだ。しかし、圧倒的な存在感で合理性というルールが全てを上書きしていく、その流れは、止まらないだろう。

いいだろうか。我々がいま目にしているマナーとは、マナーの名残り、身体の幻なのだ。真のマナー、その存在意義などとっくに消えている。しかし、その幻はいまだ多くの人間に見えている。だから、その残像が完全に消え去るまでは、そのマナーの残像の社会的認知度を確認しながら付き合っていかねばならない。時間の問題で全てのマナーは単なる「趣味」になるだろう。マナーはもはや共同体形成に必須なものではなくなりつつあるからだ。

我々がマナーを守る理由は、理論上は、もうない。しかし、マナーを守ることで守られるものはまだまだある。

マナーはすでに幻ではあるが、意味はある。

そのこじれた感覚を実感できれば、マナーの問題に関して困ることはないはずだ。

最後に、断言しておく。

余剰がなくなり全てが合理性で埋め尽くされるとはどういうことか。

「文化」が死に、残るのは「計算」だけということだ。我々はいつか快楽すら計算する。それがデジタル社会(未来)の正体である。

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