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What is e-sports? #2(全4回) 【哲学的研究】videogameからe-sportsまでの接続について考えてみる【全文公開】

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続きである。

はじめに

e-sportsのスポーツ性を本質的に検討する前に、そもそも題材としてのvideogame(日本ではテレビゲーム)というものから出発して考察するという、少々面倒な段階を一応踏んでおくべきだろう。前回に続き、面倒な手続きにもう少しお付き合い願いたい。以下、"videogame"を"ゲーム"と略記して話を進める。

ゲームの文化

言わずもがな、ゲームの文化的な成熟は日本を中心に行なわれた。その他、マンガやアニメなどのいわゆるオタク文化(かつてサブカルチャーと呼ばれたもの達)と合わせて、日本特有の文化的資本というものはそれなりに存在する。日本で生まれ育った人間として、僕もそうした「日本文化」に一次的に接触できていることはとても嬉しく感じる。そして、同時にそれらは最終的にはそのままグローバライズされないことも実感する。そうしたオタク的日本文化をありのままにリスペクトしてくれる海外の熱烈なファンに甘える精神が横行したため、残念と言うべきか、グローバル目線での「クールジャパン」の保全にはほぼ失敗したと考えるのが妥当だろう。日本人の日本人による日本人のためのオタク文化は今後も一定の価値を残すだろうが、全世界的にはこうした「オタク」由来の文化は今後は全てグローバルなメディアにおいて「似て非なるもの」へと上書きされてゆくだろう。

それが特に顕著なのが、全世界的な同接(同時接続数)などといった数値でグローバルな「つながり」の指標を提示できるオンラインゲームである。マンガやアニメというオフラインの文化財は、コミュニケーションの要素まで含めて同時的に共有される必要性は少なく、文化として「リスペクト」を生むことは可能である。ゲームも、オフラインのものであれば、ある程度は可能だろう、しかし、オンラインゲームというのは、それがメディア上でどれだけのトラフィックを生むかということがそっくりそのまま収益につながるため、ひっそりオフラインで一人愛でてもらうという戦略が取れない。

そうしたオンラインでの収益モデルが求める「即時共有性」が、ゲームをどんどんメディア化している。e-sportsというのは、要するに技術的にインターネット接続環境が整う中でのゲームというカテゴリの収益の最適化であり、ゲームの完全なるメディア化である。

さて、少し話が進みすぎた。ゲームそのものの話に戻そう。

ゲームというのは、videogame(テレビゲーム)という言葉が示す通り、そもそもが「視覚的」なものである。もちろん、それは技術的な背景による様々な制限から生まれたものであるが、要するに人間の感覚の中から極めて限定的な要素を絞り込んで、その偏りの中で製作者が世界観を築き上げてきたものである。ゲームというのは「世界観」という要素が極めて重要な要素である。初期のゲーム開発においてそうした世界観(の感覚)を支えたのはほぼ男性であり、プレイヤーとしてそれを受け入れる層もほぼ男性であった。つまり、

ゲームそのものが、ほぼ男性向けに作られていた

ことは事実である。「テレビゲーム=男の子が欲しがるもの」という構図が存在したことも、それを示している。もっとも、その辺の議論はゲームに限った文脈に限定せずとも、そもそも文化が成熟する第一段階は、これまで全て男性優位で進行したということでシンプルにカタがつくとは思う。これ以上難しい議論を構築して見せるのはやめておこう。

もちろん、個別に見れば女性ファンが多いゲームも存在し、女性向けのゲームだって存在するだろう。しかし、市場規模として見たときに、女性をターゲットとして振り切った作品、いやそもそも男性的であることを明確に放棄した作品というのは、ゲームの世界にはやはりほとんど存在しない。

オフラインゲームとしては、ファンタジーな世界観などが女性に受けるということもあるだろうし、ゲーム自体を文化表現として考えるならアニメ、マンガなどと同等のメディアとして並び立つポテンシャルがあるはずではある。

しかし、他の文化表現作品とゲームとの決定的違いは、その作品を楽しむためには「自らが操作しなければならない」という主体性にある。

ゲームのリテラシー

僕は常々、様々な文化表現媒体がある中で最も可能性の検討が進んでいないのがゲームであり、ゲームの可能性にこそ未来があると主張している。しかし、同時に、ゲームが求める主体性、すなわち「リテラシー」というものが、場合によってかなりの枷になっていることも認めなければならないとも感じている。

今日、「ゲーム実況」というものが非常に大きな市場を持ち得たのもそこに理由があるはずである。もちろん、ゲームはプレイするものである。あった。しかし、「プレイするしかなかった」時代と違い、他人のプレイを「ただ眺める」という選択肢が生まれたことが、

ゲームにかつてなかった「リテラシー」という概念を生んでしまった。

これは、もちろん競技性の高いオンラインゲームにおいてもそうだし、競技性の一切存在しないオフラインのゲームですら、そこにはリテラシーの概念が新たに捏造されてしまっている。

膨大なボリュームを持つ超大作RPGというものに手を出すのは、もはや素人には不可能なのだ。ゲームをプレイするという主体性、もう少し正しい表現をするならゲームを「一人で行なう」ことに大きな壁を感じるのが「現代人」である。もし、君が大作オフラインゲーを誰ともプレイを共有せず一人で黙々とプレイできるのだとしたら、そう、あなたはおそらくオフラインでのプレイを当たり前とした「旧世代」の人間であると言えるのかもしれない。

一人で部屋で誰と共有することもなくただ愛でたいものを愛でるという古典的な「オタク」は、現代の文脈ではもう存在しない。当然それを技術的に支えているのはSocial Media(日本ではSNS)である。

ゲームという文化の成立における男性優位については既に触れたが、Social Mediaでのシェアという「文化」のおかげで、まだまだではあるが、ゲームもようやく男性優位から解放されつつあるようには感じている。

ゲームと女性

話を今日のe-sports的な素材としてのゲームにまで進めてしまおう。

基本的には人と人が競い合うというのは、どうしても「戦い」というイメージがベースになってしまう。パズルなど様々なメディアを準備することはもちろん可能ではあるだろうが、しかし特にわざわざ「ヴァーチャルな空間で戦う」という文脈で人が何をしたいと願うかというと、当然「ヴァーチャルでしかできない」ことであろう。ヴァーチャルでしかできない戦いという文脈から、「殺し合い」「戦争」という概念に結びついてゆくのは極めて自然な感情である。そもそも、男性優位な業界であったから殺し合いゲーが多いということも言えるだろうし、殺し合いゲーが多くなったから男性優位になったとも言えるかもしれない。

もし、リアルに殺し合いが行なわれるとしたら、もちろんそれは男性優位になる。

「ヴァーチャルでこそできることを叶える」というゲームの設計のベースが男性優位になる理由は、おそらくそこにある。これは差別でもなんでもない。単なる身体的な性差である。物理的、身体的に、リアルに戦うということを想定すると、「女性」は男性から切り離して女性競技として独立させねば成立しない。

とりあえずまだまだ未成熟なe-sportsというジャンルにおいて、男性優位な戦い、殺し合いが題材になるのは自然なことであり、畢竟、女性プレイヤーは生まれにくくもなるだろう。

ただ、そこにシェアという文化が生まれたことで、要するにスポーツにおける観客という概念が大きく拡張された。黎明期においては、ゲーム大会の観客とは会場の観客のみであったろう。そして、今日、e-sportsがスポーツとして大きく成長しつつあるのは、まぎれもなく

「観客の概念のアップデート」

による。

「オンライン観客」が当たり前になったことで、少なくともe-sports(より広範にカバーするならゲーム実況や娯楽としての個人のストリーミングも含めて良いだろう)に関わる女性の人数は、プレイヤーとしても観客としても確実に増えたはずである。

後は、そもそもe-sportsの想定する競技者として、敢えて女性を強く意識してゆくべきなのか、という問題は残る。現状、先に述べた通り、コンペティティブであることの解釈が、「リアルな戦い」というイメージにまだまだ縛られているため、オンライン対戦を伴うゲームは、男性優位なイメージのものが多い。これを変えるには、かなり強い意図を持ってリアルイメージを引きずらない新しいゲームデザインを導入する必要があるかもしれない。現状のゲームデザインのままでは、裾野に女性競技者を増やすことはできても、女性トッププレイヤーをどんどん生み出すとは考えにくい。

せっかくe-sportsはヴァーチャルであり、身体性から解放された競技であるにも関わらず、結局性別でカテゴリを分けるという二度手間を踏むことが、もしかしたら競技の成熟においては必要なのではないかという気もしている。文化というものは段階を踏まねば進まないものである。女性カテゴリを作ることで、e-sportsにおける「女性トッププレイヤー」という概念を無理矢理にでもまず捏造することも重要なのかもしれない。

前回の考察で少し触れたのだが、アメリカンフットボールという極めて男性的なスポーツにおいて女性はどのような位置を占めたか。それは、チアリーディングであり、あくまでも「おまけ」であった。それをどうにか競技自体も女性に解放しようとした結果どうなったか。それが、ランジェリーフットボールである(現在は名称やルールは変更されているが本質はさほど変わっていない)。e-sportsにおいても女性プレイヤーはなかなかに少ないが、少し視点をずらして、準競技者と呼べるようなストリーマーの類に触れるなら、女性プレイヤーは意外に多い。しかし、そのほとんどがアバター使用者(いわゆるVTuber)である。これは何か。ランジェリーフットボールである。

僕の私見としては、VTuberそのものには様々な未来、可能性を感じてはいる。ただ、現状は女性そのものが、自ら進んで女性という「性」を売り物にする意識も高いので、そういうポルノ的視点は排除できていない。女性VTuberというのは、その界隈に詳しくない人間からすると、本当に信じられないくらい異常とも思えるフォロワー数を抱えている人が多い。数十万人、100万人規模のフォロワー数の「一般的には全く無名な」女性VTuberがゴロゴロいる。僕はVTuber擁護派なので、どうかこれを批判と捉えないで欲しいのだが、その異常性の理由は

それが現代のポルノだから

であろう。完全なる「リッチメディアネイティブ」の世代にとって、ポルノとは間違いなくリアルではなくヴァーチャルにこそ存在するのだろう。見事に数字が物語っている。そして、そうした文脈におけるポルノは、古典的な意味での「エロ」概念とは乖離し始めていることも重要である。

おわりに

さて、e-sportsの成熟について考えるのには、どうもまだまだ検討すべき問題点が多すぎてなかなか論点を集約できない。しかし、一応、これで思考を深めるための最低限の準備はしたことにさせていただきたい。次回からe-sportsとスポーツそのものについて考えたい。(予定)



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