情弱とは君のことか?【全文公開】
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僕は2021年4月から、自身のちっぽけな活動において、その方針を大きく転換した。いま手を付けるべきものに集中するために、これまで実験し、蓄積してきたいくつかの要素を、意図的に切り捨てた。
すなわち、
いったん情弱と手を切る
ことに決めた。
は?
え?
君がそう感じるのも無理はない。
だから、いまさらだが、少しだけ説明をしておこうと思う。
そもそも、情弱とは誰のことか。
君のことか?
僕は情弱ではないのか?
情弱。情報弱者。情報に疎い者?
簡単に言ってしまえば、情弱とは
情報非対称性をメタ認知できない者
のことである。情報非対称に巻き込まれていること自体が情弱の条件なわけではない。そもそも、一般人のほとんどは、認知していようがいまいが、避け得ない非対称性の片隅に追いやられて生きている。そんなことを言い出したら、上級国民以外全員情弱になってしまう。
僕が何を言っているのかわからない方は情弱なのだろう。
そういう意味では、僕は「情弱」ではない。
では、情報強者とは誰のことか。
情強とは
情報非対称性から「利益」を得ている者
と僕は定義している。
僕の認識では、情報強者は「頭が良い者」とイコールではない。すなわち、非対称性をただ認知しているだけでは強者とは言えないということである。「強さ」とは秘めたポテンシャルではなく実際に行使し得る「力」のことだ。非対称性の認知を、実際に通貨に変換する(力を行使する)ところまでやっている者が、強者である。僕の定義が一般的かはわからない(たぶん違う)が、そもそも「情強」なんて言葉に一般的な定義があるのか、僕は知らない。ただ、そう定義した方がより応用が効くので、そうしているだけである。
そして、そういう意味では、僕は「情強」でもない。
僕は大した「行使力」を持ち合わせてはいない。
さて、僕の話はいいだろう。
一般論につなげよう。
月額500円で「情報に強くなる情報」がバンバン手に入る、そんなサロンに入会する。
情報非対称の説明には、元々は中古車屋さんの例が引かれていたと思うが、現代ではこの方がわかりやすいかと思う。
「サービス(非営利ではなく営利活動の対価)」として人が与えてくれる情報というのは、間違いなくサービス提供者に有利となる一定のバイアスがかけられており、非対称なものだ。提供者自身をも脅かし得る100%のWin-Win情報(表現に矛盾を感じるがそう表現しておく)をばらまくはずがない。そもそも、Win-Winには「双方の権利は脅かさない」という契約の特約事項が必須である。「サービス」は持続可能なもの(提供者の利益を保ち続けるもの)でなければならない。もし、「絶対役立つ(自分がWinできる)情報」なんてものが欲しいなら、それは誰かから買う「サービス対価」に求めてはいけない。
もし、その情報で本当に有能な人間になれるのなら、たとえば僕がそのサロンの運営者なら、有能に教育した人間は放置しない。有能なんだから。本当に有能な人間を育てられるのなら、そんな「教育」に自分でコストを投入したのなら、絶対に結果得た「人材」は自分で使う(雇用するなり派遣するなりする)はずだ。
この時点で、もう答は出ている。
僕は幼い頃から「経済学」というものが「理解」できず、他者と交わす経済行為にずっと足枷を感じながら生きてきた。情弱を生み出しているのは間違いなく「経済学」である。
情弱脱出のために経済学を学ぶ。
どうなるか。
経済学を学んだ者の周囲に新たな情弱が生まれるだけである。
君はお金持ちになれるかもしれないが、社会全体としては、
何も解決しない。
僕は手段と目的の話というのをよくするのだが、
経済効率という手段で、情弱を救うという目的は、絶対に達成できない。救うという言い方は語弊があるので、情弱をなくすという言い方の方が良いかもしれない。「ともかくまずはお金稼ぎに集中して、そのお金を使って後から善行をなそう」そういう理屈をよく聞くが、その理想は「建前」にしかなり得ず、どれほどその志が元は正しく真っ直ぐなものであったとしても、「原理的に」その理屈で善行をなすことは不可能だ。
現に水不足で苦しんでいる地域の住民に「今後水不足にならないための情報」を説いても、当然だが住民は救えない。僕は、そもそも「人が人を救う」なんて発想自体に違和感を感じるが、それでも、本気で人を救いたいのなら、現地に入って現地のやり方で水不足を解消しなければならない。責任の及ばない地域外から水を送り届けて終わりというのもダメだ。
ここまで言えば、僕がいま行なっている活動の意味が、もしかしたら少し理解してもらえるかもしれない。
僕が、自身の有料コミュニティなどにおいて、敢えて明確な対価を設定していないのも、ちゃんと意図がある。僕がコミュニティのメンバーに与えたいものは「対価」などではない。他に表現のしようがないのでとても恥ずかしい言い方になってしまうが、僕が与えたいものは「愛」である。あまりにも恥ずかしいので、「魂」とか「命」とか「勇気」とかそんな言葉で置き換えてもらっても構わない。
僕が与えたいものは「勇気」である。
僕がもらいたいものも「勇気」である。
究極的には、人と人がその関係性において非対称性を解消するには、互いの関係を逃げられないほど密にする(一体化する)しかない。それを僕は「家族」という言葉で表現している。
だから、僕は逃げられない場所に身を置いて活動しているのだ。
もし、君が何らかの「一方的なつながり」の中で誰かに救われていると感じているのなら、君は立派な情弱だ。
情弱は、一方的であることを重視する。一方的な関係の中で自身の存在を消すことを重視する。自身が何らかの責任を負うことを、「巻き込まれる」と感じ、恐れる。だからこそ、いや、それこそが情弱なのである。ゆえに、情弱に責任ある活動への参加を促すこともまた不可能である。
そう、だから、僕はいま、一時的に情弱と関わることをやめたのだ。いま僕がやろうとしていること(情弱を救う、ないし、情弱という概念をなくすという活動)は、情弱には手伝ってもらうことができない。情弱に手伝ってもらうと、情弱を救うどころか、果てしなく情弱が再生産されてしまう。
情弱は責任を取らない。すなわち、情弱は匿名で生きている。しかし、匿名である限り、また、情弱は永遠に情弱なのだ。
それゆえ、僕は匿名ではなく「無名」で生きることを提唱して活動している。断じて「有名」になる必要はない。
「無名」とは何か。
次回はその「核心」の話をしようと思う。
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