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ノ ル ウ ェ イ の 鮭 【2/7】

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 みどりとは高校時代からの仲だった。

 あ、少し混乱させるかも知れないが、みどりとミドリは別人だ。

 通常ではよほどのことがない限り、一つの物語に同じ名前の人間が二人以上出てくることはないが、これは僕が経験した事実なのだから仕方がない。
 だから、混乱するかも知れないが付き合ってほしい。
 僕もたまに、記憶の中でふたりが混乱することがある。

 みどりは僕の親友であるムラカミの恋人だった。

 よくある「突然炎のごとく」ふうの、あるいは「はなればなれに」ふうの、古いフランス映画にありがちな構図だ。
 女ひとりと、それに付かず離れずの男ふたり。
 その片一方が僕だった。

 みどりは十代の頃からまるで幽霊のように綺麗だった。
 幽霊とはいっても、最近はやりの井戸から這い出てきたり、押し入れから四つん這いで這ってくるようなタイプのものではない。
 それ以前の、経帷子を着て墓場で卒塔婆の横に立っているイメージの幽霊だ。

 みどりはほっそりとしていて、髪を腰まで長く伸ばしており、頭のてっぺんでその艶やかな髪を二つに分けていた。

 その目はいつもどこか遠くを見ているようで、見ているこちらにはみどりの身体を通して向こうの景色が見えそうに思わせる。

 みどりのことを幽霊みたいだと言ったけど、それはつまり彼女自身が全身から醸し出している儚さのせいだ。
 彼女は目の前にいながら、魂はぜんぶ、身体の半分は天国に居るようだった。

 みどりはあまり笑わなかった。

 僕とムラカミにだけ笑顔を見せた。
 少なくとも僕の知る限りでは。

 ムラカミとみどりは公認の仲だった。

 僕はふたりはもうとっくにヤりまくってると……いや、“寝”まくっているものだとばかり思っていた。

 しかし幽霊みたいに儚げなみどりと、油染みた百官デブのムラカミがヤッて…いや“寝て”いるところはなかなか想像できなかった。

 ムラカミは百官デブで油じみた見るからに不快な男だったが、とても頭が良く、会話は実に洗練されていてスマートだった。

 そして彼は、大変な読書家でもあった。
 僕が未だに人より多く本を読むのは、たぶん彼の影響だと思う。

 みどりも読書家だった……僕はふたりの会話になんとかついていくために、読書にのめり込んでいったのかも知れない。
 

 しかし、ある日ムラカミは死んだ。オートバイの事故で。

 物語としてはとても陳腐、もしくはメロウ、あるいはひどくドラマチックだ。
 でも本当なんだから仕方がないと受け止めてほしい。
 
 それ以来みどりは、あまり学校に来なくなった。
 

 しばらくみどりを恋しく思う時期が続いた。
 言うなれば僕にとって最初の恋の季節だった。

 ムラカミを失ったみどりの心の深手を思うと、胸が苦しくなった。

 しかし当時の僕は17歳の少年に過ぎない。

 そんなことは2週間もするとすっかり忘れていた。

 そしてそのまま高校を卒業し、大学へ進学した。
 僕は親元を離れて、大学の近くのワンルームで下宿をはじめた。

 僕の郷里はコンビニもほどんどない田舎だった。
 ムラカミもバイクで死んだが、そんな田舎ではバイクでもかっ飛ばしていないと、本当に気がふれてしまう。

 だから、その田舎より少しはマシな都会へ越せたことは、僕にとってとてもよいことだった。

 自分でいうのもなんだが、陰気で協調性がなく、愛想の悪い僕にはさっぱり友達はできなかった。

 ガールフレンドなんてとんでもない。

 僕はどちらかといえば見栄えのいいほうだと自分でも思っていたが、どうやらそれだけでは都会の女の子は振り向いてくれないらしい。 

 周りの男たちはそれぞれ彼女を作ったり、合コンしたりで楽しそうにしている。

 そんな中で僕は、いっそ世界戦争か大災害でも起きないものかと、ひとり悶々していた。
 

 その日曜日、とくにやることもない僕は洗濯をして、部屋を掃除して、マスターベーションを続けざまに2回した。

 それでもまだ正午にもならない。やれやれ。
 僕はアパートを出て、あてもなくぶらぶらと歩き始めた。
 

 その日はとてもいい天気だった。

 こんな日はどこか空気のいいところに出かけたくなる。
 山か海か湖か、なんでもいい、そんなとこに繰り出したくなる。
 と、僕はそんな心にもないことを考えていた。

 遠くまで行くお金もないし、どうせそんなところはどこも人でごった返しているのだろう。
 泣き叫ぶ子供とオラついた和柄Tシャツの父親、早く結婚しすぎてうんざりした様子の金髪でスタイルのいい肌を焼いた母親。
 駅前のファミレスと変わらない。あるいは回転ずしチェーンの店舗と。

 それに本当に空気に味があるなら、この街の空気も、山や海や湖や、そんなところの空気もそれほど味に変わりはないはずだ。

 それが体にいいか、悪いかだけの話。
 僕は体に悪いものが大好きだった。

 しかし、ある電化製品の店になんとなく入ったとき、僕は自分にとって、最も体に悪いものを見た。

 “なんとなく”出歩いてみた結果がそれだった。

 若い女が、電気ヒゲソリ機のコーナーにいる。

 店の中は明るく、がなりたてるような店のジングル、各国語による案内、陽気なポップ・ミュージックが流れていたが、その女のまわりだけはそんな雰囲気とは無縁だった。

 女が立っている場所を中心に、半径1メートル以内が、暗くくすんでいる。
 おおげさに言ってと思われるかもしれない。

 その証拠に、女のいる電気カミソリのコーナーには、誰も近づかない。

 いつもはうるさくセールストークをまくしたてるハッピ姿の店員たちでさえ、彼女には近づこうとしていないようだった。

 まさに女は幽霊そのものだった。

 折れそうな細い体つきに、腰までの異様に長い髪。
 髪の隙間から覗く頬は、ついさっきまで冷凍されていたみたいに青白かった。

 彼女はなにかブツブツ……ブツブツ……と聞き取れない小さな声で独り言をいいながら、髭などあるはずもない頬や顎にスイッチを入れていない電気カミソリを押し当てていた。

 しばらくひとつの電気カミソリで見えない髭を剃り終えると、次は別の電気カミソリを手に取る。

 彼女は異様さのバリアで、周囲の干渉からわが身を守っているように見えた。

 と、突然、女が僕のほうを振り向く。

 僕は思わず大便をもらしそうになった。

 みどりだった。
 
 高校に来なくなってから、ずっとその所在がわからなかったみどり。
 彼女は痩せて、やつれ、高校のときよりますます幽霊めいていた。

 「……あ……」

 僕が絶句していると、みどりがニィーっ、と笑った。
 ホラー映画も顔負けのスマイルだ。
 死の貴婦人、美少女の慣れの果て、生ける屍の夜。

 僕はまるで蛇に睨まれた蛙だった。

「たなべ……くぅん?」

 みどりが言った。

 “違います。人違いじゃないですか”

 と、とぼけられるようなブリキでできた兵隊の心を、僕は持ち合わせていなかった。

 みどりを自分の部屋に引っ張っていくのはひと仕事だった。

 その道中、みどりはさっきのように……ブツブツ……ブツブツ……独り言を言ったり、突然笑い出したり、「たなべくうううううん」といいながら抱きついて泣き出したり、いろいろと忙しかった。

 道行く人は皆、“気の毒に……”という顔で僕らを見る。
 その顔は同時に、“大変だねえ……何もできないけど、気持ちはわかるよ。頑張ってね”とも言っている。

 まったく、余計なお世話だ。こっちはそれどころじゃないんだ。

 アパートまで付いて、みどりを部屋に押し込む。

 みどりは狭い部屋の中をバレリーナみたいにくるくるに回りながら進み、僕の万年布団に倒れ込んだ。

「タナベくん、遠慮せんとこっちおいでえな」
 
 招き入れられたばかりの僕の部屋の僕のくたびれた万年床のうえで、みどりが半身を起こして言う。
 
 いやここは僕の部屋だぞ、と言いたいところだったが、僕はくたくたに疲れていたので、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。

 半身を起こしてこっちを見ているみどりの顔を見た。

 長い髪はくしゃくしゃになって、すでにベッドで転げまわった後のようだ。

 奥のバルコニーから入ってくる昼の光のせいで、逆光になった光の中、みどりのシルエットのわまりに、部屋のほこりが粉雪のように舞っているのが見える。

 みどりはきょとんとした目で僕を見ていた。
 そして、うすい唇をすぼめている。

 さっき久しぶりに会ったときは、幽霊かただのアブナイ女にしか見えなかった。
 ここまで引きずってくる道中で、その評価のうえに“厄介なお荷物”という印象が追加されている。

 しかし今は違った。
 そんなに一瞬で人間の印象はこうも変わるものか、というくらいに。
 
 みどりは逆光の影の中で、あの高校生の頃の儚げな美少女の印象を取り戻していた。

 そしてますますそれに拍車を掛けたたように……今のみどりはまるで純度が高すぎる冷たい透明の酒のように、一瞬でも目を離すと透き通っていって、そのまま蒸発してしまいそうに見えた。
 
 
 どういうわけか、疲れきっていた僕の下半身が正直に反応をしはじめる。

 
「タナベくん、元気やったあ?」

 相変わらず、酒に酔ったような口調でみどりがいう。

「あたしな、あれからずっと学校行かへんかったやんかあ? ……でも、大検受けて、こっちの大学に入学してん。でも、なんか、大学生活はじまってから、またあかんようになってなあ……」

 そういってみどりは笑った。
 あの頃は僕とムラカミだけに見せた、一瞬の笑顔だった。

「なんか、友達もだれもできへんし、話かけてくる男の子は、みんなアホばっかりやし……ぜんぜん周りに溶け込めへんで、一日中部屋にこもってぼーーーーっとしてるようになってん」

 またみどりが笑う。
 かつてムラカミだけに見せた笑顔。
 それが今、僕だけに向けられている。

「……なんでかな、なんでかなって……考えてたんけど…………何日も、何週間も、ずっと考えてて、やっと判ってん。ここには、ムラカミ君も…………それからタナベくんもおらへん。そやから、あたしは何にも楽しいことがないんやって判ってん……ムラカミくんなんか、もうこの世にもおれへんねんからなあ…………だから、せめて、タナベくんには会いたいなあ、思って、一人で街をウロウロウロウロウロウロしてたんやで……ほんまやで」

 ウソつけこのキチガイめと思ったが、言われて悪い気はしなかった。

「……なあ、タナベくん、お願いやし、ちょっとこっち来て」

 キッチンで棒立ちになっていた僕を、みどりが手招きする。
 僕は吸い付けられるように踏み出して、みどりの前に座り込んだ。

「……顔、見せて」

 みどりが手を伸ばして、僕の顔に触れる。

「ほんまに……ほんまにタナベくんやんなあ? ……あたし、夢見てるんとちゃうやんなあ?」

「僕やよ」僕は言った。「夢とやないよ」

 みどりが僕の首に手をまわして、抱きついてきた。

 幽霊にしては、暖かな体温が僕に伝わってくる。
 幽霊にしては、確かな存在感を持った乳房が、僕らの体の間で押しつぶされる。

 ぼくのペニスは律儀にもすでにかちかちに硬くなっていた。

「……さみしかった……」

 みどりが小声で囁いた。

「……ほんまに、ほんまに……寂しかったんやで……」

「………」

 何も言えなかった。
 何かこういう場所で言える言葉があるなら、読んでるあなた、教えてくれ。

「…………そうか」

「……ねえ」

 みどりが顔を上げる。
 幽霊みたいに青白かった顔が、ほんのり赤く染まっていた

「……して」

「え?」

「……して……ていうか、ヤって
 
 人生にはいろんなことがある。
 濁流のなかで溺れているのが人生なら、そこでもがく僕らには流木やその他の漂着物をあらかじめ予期して避けるような術はない。
 
 それには誰も逆らえない。

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