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【官能時代小説】手 籠 め 侍 【1/12】


血 の匂いのする、色好みの下司下郎め!
残忍な裏切り者め、情欲まみれの卑劣漢め!
さあ、復讐だ!
             
~ハムレット
 

 2本の蝋燭ろうそくの炎が、暗い宿屋の部屋でたよりなく揺れていた。

 揺れるそれぞれの炎の明かりが、向かい合って座る姉弟の顔を気まぐれに撫ぜる。

「姉上、本気なのですか? 父の仇を討つためとはいえ、あのような男に身をまかせるなど……人に知られれば我が春日家の恥。口さがない者はわれら姉弟のことをなんとあざけることか……」

 数えでまだ一四になったばかりの少年は、少女のように頬を赤らめていた。
 怒りと、羞恥で。

 姉の紫乃は今年十七歳。
 不貞腐ふてくされた様子の弟を、冷たい目で見据えている。

「今さら何を言うか、慎之介。そなたの腕が充分ならば、あのような素浪人に頼る必要もあるまいに」

 姉の紫乃は正座したまま、ぴんと背筋を伸ばして、氷のような声で言った。

「とはいえ姉上……あの男はあまりにも……」

 今日の昼、目にした光景を思い出し、慎之介は思わず身震いした。

 耳を澄ませば……隣りの部屋からあの侍の高鼾たかいびきが聞こえてくる。

「もとはと言えばそなたが学問にかまけ、剣の修行をおろそかにしていたからであろうが! 本来ならばわれら姉弟の手で果たすべきはずの仇討ちに、助太刀す けだちなど無用の筈っ!」

 前髪も初々しい少年の容貌かおにはまだ逞しさはなく、あどけなさだけが目立つ。
 脇差がいかにも不似合いだ。若武者にはとても見えぬ。
 まるでお稚児のようだ。

 対して姉……紫乃は継ぎ接ぎは目立つが灰の小袖と紺の袴を堂々と着こなし、長い黒髪をきりりと頭の高い位置に束ねている。
 反り返るくらい背筋を伸ばしたその姿には、凛とした風格があった。

 意思の強そうな太めの眉、きりりと横一文字に結んだ薄い唇は慎之介よりも遥かに若武者のよう風格を纏っている。

 事実、慎之介は武芸に秀でた姉の紫乃に頭があがらない。

 憎き仇、八代松右衛門に討たれた父は中西派一刀流の師範。
 幼少の頃より姉弟は父から厳しい手ほどきを受けたが、明らかに剣の才があるのは姉のほうで、慎之介は武芸よりも学問を好んでいた。

 その姉が、非難がましく自分を見据えている。
 これから自らが辱めに身を投じるのはそなたのせいだ、とばかりの姉の目線。

「考え直してくださらぬか、姉上……われらだけで八代を討とうではありませんか。たとえ返り討ちにあったとしても、それでもわれらは堂々とと父の仇に刃を向 け、華々しく散った、と世の人々は……」

たわけっ! 世の人々がわれらをどう語ろうと、知ったことではないわっ!」

 紫乃が眉を吊り上げ、一重の切れ長の目を吊り上げて一喝する。
 普段の慎之介なら、その叱責だけですくみ上がってしまっただろう。

 しかし今は、姉を思う気持ちと屈辱が彼をたぎらせた。

「たとい仇討ちを果たすことができたとして、我らが、春日家が末代まで物笑いの種に なっても構わぬ、と申されるのですか姉上っ!」

「それはそなたの本心か? 慎之介? ただ何の手立てもなく、むざむざとあの八代松右衛門に討たれに行くほうがまさに世の笑いもの。隣りで高らかに寝息を立 てているあの男、あの男の腕が確かなことは、そなたもその目で聢(しか)とと見たであろうが?」

 姉は本気だった。
 薄い唇の両端が、くっ、と噛み締められている。

 その黒目がちな眼の中では、蝋燭の陽がちらちらち揺れ、瞬きさえしない。
 こうなると姉は、梃子てこでも動かぬことはわかっていた。

「あの男は狂犬(やまいぬ)です! 姉上もご覧になったでしょうあの 男が何をしたか……あの若侍とあの奥方に……」

 姉の黒目の中では、まだ蝋燭の炎が揺れている。

 もちろん姉も、慎之介の言わんとすることは理解しているだろう。
 姉は静かに慎之介を見据えたままだ。

「そなたは八代松右衛門の恐ろしさをわかっておらぬ……あの男こそ狂犬(やまいぬ)そのもの……」

「わかるはずもありません! 姉上もわたしも、仇の顔すら知らぬのですよ!」

「そなたはまだ、赤子であった。わたしははっきりとあの男が何をしたか覚えておる!」

 二人の父が八代松右衛門に討たれたのは十年前。
 紫乃が七歳、慎之介がまだ四歳のときであった。

 八代松右衛門がある日突然、父が営む剣術道場にぶらりと訪れた。
 父は剣の道には厳しい人物だったが、本来柔和で、人を疑うことを知らぬ好人物であった(と、慎之介は紫乃から聞かされている)。

 父の剣の腕は江戸中に知れ渡っており、門下生も多かった。
 そのせいで、道場破りを挑む浪人や他の道場の門下生があとを立たなかったが、そんな折にふらりと道場に現れたのが八代松右衛門である。

「でも見たのですか、姉上……八代松右衛門の顔を……」

「あの男は……頭巾を被っていたと申したであろう」

 これまで何度も交わした問答だ。

 幸か不幸か、いや、当世風に考えれば前者なのだが、八代松右衛門が父の道場を訪れた際、慎之介は自宅にいたためにその惨劇を目の当たりにすることはなかった。

 幸か不幸か、いや、当世風に考えれば後者なのだが、紫乃は道場にいた。
 しかし、頭巾を被った黒装束の異形の闖入者に警戒した母が、紫乃を道場の奥の台所へと隠してしまった。

「では姉上は、何を見たのです。その目で何をご覧になったのです?」

「これまで何度も申したであろう、道場の板間で血にまみれた父上の亡骸、そして……」

「そして?」

「もう何度も申したであろう! 父上の亡骸むくろの傍らで、憎き仇に辱めを受ける母上の姿であると!」

 紫乃の顔がぼう、と紅潮している。明らかにいきどおりりで。

 繰り返し繰り返し聞かされてきた父の非業の死、その傍らの板間で憎き仇から辱めを受ける母の姿……

 紫乃が慎之介にこの十年間、繰り返し繰り返し聞かせた その惨劇は酸鼻をきわめるものであった。
 しかし慎之介自身がそれを目にしたわけではない。

「母上は尼寺で入られる前、われら姉弟に“決して仇討ちをしてはならぬ”と言い聞かされた。母上の言葉を、姉上はお忘れなのですか?」

 それは事実だった。八代松右衛門に汚された母は、今も山奥の尼寺で暮らしている。

 姉弟を道場の飯炊きをしていた老婆に預け、ふたりの元を去る日、母は二人を呼びつけて、仇討ちを固く禁じた。

 その日の母の悲しげな憂いを秘めた容貌かおは今もなお、慎之介のまなこに焼きついて離れない。

「母上はそなたのように恥を恐れたに過ぎぬ! 辱められたことの噂にさらに辱められることから逃れるために、われら姉弟を置き去りにし、俗世から逃げたのだ。わたしは母上の言い分は受け入れられぬ! 慎之介、そなたは無念ではないのか? そなたはそれでも男子か?」

「では姉上、恐れながら申し上げるが、今日の昼間、あの男があの母子にしたこと、あれは何なのです? 八代松右衛門がわれらの両親にしたことと、何が違うというのです。あの男の振る舞い、あの哀れな母子にした酷い仕打ち……武士の風上にもおけぬ畜生ちくしょうそのものではありませんか!」

 姉弟は、しばらくの間、無言で互いの容貌かおを睨み続けた。

 弟の見る姉の大きな黒目の中では、蝋燭の火がゆらゆらと揺れ続ける。
 姉の見る弟の同じように大きな黒目の中にも、同様に炎が揺れていた。

畜生ちくしょうに立ち向かうには、畜生の手を借りねばならぬこともある。この十年、わたしは復讐のことだけを思い生きてきた。そのた めに、あの畜生のかいないだかれる覚悟を決めた……そ の姉の気持ちが、そなたには通じぬか?」

 “抱かれる”という言葉が、慎之介の理性を奪った。
 思わず立ち上がる。

「姉上! あの男はまともではありません! 姉上もまともではない。畜生に挑もうとする者は、おのも畜生とならぬよう覚悟せねばなりません。その覚悟は、姉上にあるのですか?」

 紫乃も立ち上がった……紫乃は慎之介より、二寸ばかり上背がある。

「覚悟がないのはそなたであろう! 元はといえば男子であるそなたの剣が不甲斐ないばかりに、このような情けない羽目になっておるのだぞ! そなたとは覚悟 が違うのだ! ……仇討ちこそがわたしの生き甲斐。どのような形でそれを遂げることになろうと、何が何でも八代松右衛門を……あの『手篭め侍』を討ちとることが我が本懐! 世間に哂われようが、後ろ指を指され ることになろうが、畜生と呼ばれようが、そんなことは知ったことではないわ!」

 と、そのとき、すう、と隣の部屋のふすまが開き、その薄汚れた宿無し浪人……
 蜂屋百十郎の風采の上がらぬ顔が覗いた。

「うるせえなあ……いつまで待たせやがる。待ちくたびれて寝入ってたら、姉弟げんかで目を覚まされちまった……で、どうなんだい、お嬢ちゃん。覚悟は決まったのか い?」

「…………」

 紫乃はその反っ歯で、たれた頬に茫茫ぼうぼうと髭をはやしただらしのない男の顔を、きっ、と睨みつけると、静かに腰を下ろした。

覚悟はできております……その前にまず、風呂で身を清めてまいります……」

 そう言うと紫乃は、風采の上がらないその男に深く一礼すると、す、と立ち上がり……慎之介を省みることなく……部屋から退場してしまった。

 ぴしゃり、と勢いよく障子を締める音が、慎之介を糾弾しているようだ。
 大あくびをしながら毛むくじゃらの襟元を掻くこの薄汚い素浪人と、慎之介は部屋に取り残される。

「で、坊主……お前さんは、そこで聞いてるのかい? なんなら襖の隙間から覗いててもいいんだぜ……今日の昼みたいに。姉上が男に抱かれる姿を覗き見するの も、なかなかおつなもんだぜ」

 ひひひ、と下卑げびた笑い声を立てる百十郎。

(この鬼畜生……悔しい。わたしに十分な剣の腕さえあれば……)

 慎之介は、その醜い笑顔を睨み続け、自らの不甲斐なさを悔いながら……
 昼間の地獄絵の如く忌まわしい、ある母子の敵討ちの顛末を思い出していた。

 慎之介とさほど変わらぬ年頃。
 白装束にたすき掛け、白鉢巻の若武者が、刀を抜き、中段に構えていた。

 まだ声変わりもして間もないようような、若武者の声。

「卑怯にもお主のだまし討ちに無念の死を遂げた父の仇、母とともに追い続けてはや十五年! ようやく思いを果たすときが来た! もう逃げも隠れもできぬぞ、蜂屋百十郎!」

 その背後では、同じように白装束の美しい年増が、鉢巻にたすき姿で匕首あいくちを逆手に持って控えている。

「蜂屋百十郎……忘れもしないあの十年前の夜、お主はわが夫を斬った後、わらわ何をしたかよもや忘れたとは言わせぬぞ! お主への恨みは、この身体からだに刻み込まれておる! 今日こそ息子とともに、夫の無念、妾の恥の恨みを見事晴らしてくれる! 覚悟っ!」

 凛とした佇まいのその年増の風情に、慎之介は姉の紫乃の面影を見た。

 人気のない山奥に開けた野原。
 風がびゅう、と吹いて草を波のようになびかせる。

 中央で、白装束の母子と、件の素浪人、蜂屋百十郎が十分な間合いを取って睨み合っていた。

 野原を見下ろす高台の鬱蒼うっそうとした茂みの中に、慎之介と紫乃は身を潜め、事の成行なりゆきを見守っていた。

「姉上……」

「しっ……慎之介、声を立てるな。あの男が噂に聞く蜂屋百十郎か……」

 笠を目深に被った紫乃は、母子と向かい合う薄汚い風情の素浪人、蜂屋百十郎の挙動を凝視している。

 慎之介は思った……あの男が? 

 あのでっぷりと太った、だらしのない体つきに、乞食同然の擦り切れた羽織袴、反っ歯で三重顎のあの男がその名を東海道中にとどろかす剣客?

 仇討ちを挑もうとする少年武者とその三十路みそじの母の言い分を聞くに、極悪非道の卑劣漢とはまさにあの男のこと。

 しかも、今にも斬り込まんとする母子を前に、あの男は刀を抜かぬばかりか、毛むくじゃらの胸元をぼりぼりと掻きながら、大あくびをしている。

「奥方様よ、あんたは……とんでもねえ嘘つきだなあ……かわいいご子息にいったい、どんな嘘八百を吹き込んだんだあ?」

 百十郎があくびともに間の抜けた声で、ちらりと白装束の年増女に言う。

「黙れっ! この期に及んでまだしらを切ると申すかっ!」

「おれにだまし討ちを掛けてきたのは、あんたの旦那だ。それまで、あんたとおれは、どんな仲だった? ……覚えてるかあ? 深川の白木屋を……俺たちゃあ、あの茶屋の二階で、しょっちゅう乳繰り合った仲だったじゃねえか! あんたの亭主の目を盗んでな!

 刀を中段に構えていた少年武者の顔が、ぴくりとふるえる。

「?……は、母上?」

「き、聞いてはならぬ! 聞いてはなりません彦次郎っ! 命の惜しい卑怯な外道が、われらをまどわそうとして、いやしい嘘をついておるのですっ! あの男の言うことはすべて嘘です!」

 百十郎は、年増女の美しい美貌かおが、ぽっと赤く色づくのを楽しんでいるようだった。
 相変わらず、刀の柄には指さえかけない。

「坊主、おめえの名前は彦次郎、ってえのか? さっきも言ったけどよお……おめえの母ちゃんとおれは昔、ちょっとした仲でよ……母ちゃんがおめえに何と言ったかは知らねえが、俺がおめえの父ちゃんのことを騙し討ちした、ってえのはだ。それに、おめえの母ちゃんを俺が辱めた、ってのは、もっと大嘘だ」

「黙れっ! 黙りなさいっ!」

 今や、匕首を握った年増が息子の前に立っていた。

身体からだに恨みを刻み込んでる、だあ? よく言うぜ、この色狂いの好き者女。刻み込んでるのは、楽しい思い出ばかりだろ? 大人しい顔して、俺に抱かれりゃいつも白目剥いてしがみついてきたのはどこのどいつだ、ってんだ」

「嘘をつくなっ!! ここにきて母上を愚弄ぐろうするか!」

 今度は少年が前に出て、刀を斜めに構えた。
 左足を突き出し、刃を上に向けて、頬の横で水平の位置に構える。

「城条一刀流の構え……あの若侍わかざむらい、なかなかの使い手と見える……」

 事の成り行きを見守っていた紫乃が、独言ひとりごとのように呟く。

「しかし……あの男、全く動じている様子はありません。刀を抜く気があるかどうかさえ……」

「しっ! 慎之介、声が大きいっ!」

 もはや姉のほうが声が大きかったが、慎之介はあえて抗議しなかった。

「そりゃもう、おめえの母ちゃんには楽しませてもらったぜええ……母ちゃんにもおれがくれてやった女の悦びが、しっかりと刻み込まれているこったろうよ……な あ、おっ母さんよ。奥方様よ。正直に言いなよ……おれを追ってきたのも、おれが恋しかったからだろ? 身体うずいてしょうがねえから、俺にまた、 抱かれたくて抱かれたくて仕様しょうがねえから、追ってきたんだろうがよ? ……そうだろ?」

 どこまでも不遜ふそんな態度を崩さない百十郎だった。

黙れ! 黙れ黙れ黙れっ! この下郎!」

 美しい年増がその頬を真っ赤に染め、狂女のように喚いた。

「その下郎に腹の底小突こづき回されて、しがみついて離れなかったのは、坊主、おめえの母ちゃんだ……おめえの母ちゃんは、とんだすっぽんだったぜええ……で、ほんとうはどういう行掛りで、てめえの父ちゃんがあの世送りになったか、知りたくはねえか?」

「き、聞く耳持たんっ!」

 若武者は怒りに任せて斬りかかるほど、無鉄砲ではなかった。
 じり、と一歩進むに合わせて、百十郎はやや右寄りに半歩後ずさる。

「あの間合い……やはり蜂屋百十郎、只者ただものではない……」

 藪のなかで、姉の息づかいが荒くなっていることに、慎之介は気付いた。
 ちらと隣りの姉を見ると、いつもは青白いまでの頬が、白装束の年増に負けず赤く染まっている。

「わたしには……あの男はただの粗野下品与太者よたものにしか見えませぬ」

「だからそなたは駄目なのじゃ。とりあえず声を立てるな。しかと見ておれ……」

 白装束の母子が脚を前にすすめると、百十郎は右へ、右へと弧を描くように退く。
 そのまま、母子と百十郎は……当世風に言うと反時計回りに、野原に延々と円を描き続けた。

 しかし刀には触れる気配すらない。

「抜けっ! 抜かぬか! 怖気づいたか?」

 少年武者が弓を引くような風変わりな構えを崩さずに、百十郎との間合いを詰めようとする。

「坊主、おめえ……歳はいくつだ?」

 そのとき、百十郎が袖から手を出した。
 ぴくり、と少年の肩が緊張したように動くのが見えた。

「お主に父を奪われて十五年。数えの歳も十五よ! 我はこの世に生を受けてから今日まで、お主を追い、討ちとることだけを本懐として生きてきた。お主への恨みはそれがしの人生そのものよ!」

(十五年? ……生まれてあの歳までずっと? いやはや、上には上が……)

 慎之介はその少年武士と母の姿に、自分と姉の姿を重ねずにおれなかった。
 そして、あわれに思えてならなかった。

 しかし傍らにいる姉の横顔には、勝負の行方以外の何者も見えないらしい。

「十五か……坊主、ひょっとしてお前さんが生まれたのは……親父がくたばってからか?」

「黙れっ!」

 叫んだのは母のほうだ。

「そうか……どうりで、お前さんが親父にちっとも似ていないわけがわかったよ……いやいや、母親ゆずりで女形おやま面に生まれついた、ってのはお前さんの幸運よ。あの親父の血が、おめえに流れていないなら、なお運がいいってもんだ……それに、その凛々しい鼻と細面、俺の若い頃とあまりに似ていやがるもんで、まさかたぁ思ったが……」

「黙れ黙れ黙れっ!!」

 白装束の年増が、息子を押しぬけて匕首を振り上げ、百十郎との間合いを縮めた。

「罪な性悪しょうわる女だなあ……おめえは。てめえの間抜けな亭主を騙くらかして、おれとしょっちゅう逢瀬を重ねていた頃とちっとも変わりゃあしねえ……おめえは、てめえの息子まで狂わせやがった……その二枚舌で赤子の頃から息子を騙くらかしてそそのかし、てめえの見栄の道具にするたぁ、とんでもねえ話よ……」

「それ以上言うならこちらから参るぞっ! その舌、引きずり出して切り刻んでくれるっ!!」

 年増はもはや半狂乱になり、何が何でも百十郎に飛び掛からんばかりの勢いだ。

「母上、どうかお下がりくださいっ!」

 前へ前へ出ようとする母親を庇うように、少年が構えを崩さずに前に出る。
 今度は百十郎も間合いを詰めなかった。

「このをか?」そう言って百十郎は、紫色の舌をだらりと垂らして、その先を蛇のようにチロチロとうごめかかせてみせた。「まだこの舌が恋しいかあ? この舌で、かかる剣豪の奥方様が、どんな声をあげてよがり狂ったことか……まあ……おめえの舌も相当なもんだったぜ。おれのをその舌で、夢中で可愛がってくれたこと、よもや忘れたとは言わせねえぜええ……奥方様。吉原の玄人くろうと(女でも、なかなかああはいかねえ……」

「か、覚悟っ!」

 ついに年増女は匕首を胸の前で水平に立てると、百十郎めがけて駆け出した。

「母上っ!」

 少年の脇をすりぬけ、百十郎の胸元に突進していく。

 百十郎はひらりと身を交わすと、年増女のすねを草鞋わらじの先でこん、と小突いた。
 あえなく前のめりに倒れる年増女。

 白装束のたもとが大きくめくれ上がり、白い脹脛ふくらはぎあらわになる。
 這いつくばったせいで、その大ぶりなのような、まるくかたちのよいの線が白装束に浮かび上がった。

「坊主……この女がおめえに、何を言い聞かせてきたのかは知らねえ……でもよ、それは皆んな、嘘だ。おめえは何も知らねえんだよ……たとえば、おめえのほんとのお父っつあんが誰か、おめえにわかるのか?」

「わ、わたしの父はっ……お主に殺されたっ!」

 そこで、百十郎ははじめて刀のかしらに、ちょんと二本指を添えた。

 同時に少年の腰がぐっ、と落ちる。
 そして、どちらともなく間合いをじりじりと詰めていく。

「彦次郎……つったけな。おめえの親父は……たぶん、このおれだ」

「黙れっ!」

 先に動いたのは、少年のほうだった。

【2/12】はこちら

※こんな調子で長いけど、お付き合いしてね☆


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