いわゆる「和室ビキニ」に関する考察
言うまでもないと思うが、わたしはセクシーな水着グラビアが好きだ。
わたし以外の人も好きだろう。
好きじゃない? グラビア。
好きでしょ、グラビア。
そんなわけで、いわゆる水着グラビアについて今回はあれこれ考えてみたいと思う。
まず最初に言っておくが、水着グラビアというのはヌードではない。
また、これはときによーく見ないとわからないこともあるが、水着ではなく下着を着ているものとも分けて考えたい。
それは下着グラビアだ。
下着グラビアも下着グラビアで好きなのだが、それはまたの機会に語ることにしよう。
ちょっと話がそれるが、水着の下だけ着て上はつけておらず、手ブラしているものは「水着グラビア」に入れるべきだろうか?
厳密に言うとあれは「セミヌード」に当たるものと考えたい。
被写体のアイドルなり女優なりモデルなりしてみると、ハードルの高さは、
セミヌード(水着下のみ・手ブラ)>下着グラビア>水着グラビア
という感じになると思う。
もう少し踏み込んで考えると、「健康的」を売りにしている被写体の場合、
下着グラビア>セミヌード(水着下のみ・手ブラ)>水着グラビア
という順列になることもあるようだ。
手ブラも青空の下とかそういうのだったら、「健康的!」で済む場合もある。
手ブラ水着をやっても都市ガスのCMには出られるが、下着グラビアをやるとそれは無理、とかそういう大人の事情があるのかもしれない。
さて、基本的に水着グラビアの「背景」は基本的にビーチか、もしくはプールだ。
水着を着ているのだから、海・砂浜、プールにいる。
なんら不自然ではない。
どんなきわどいデザインの水着を着ていようと、被写体が砂浜やプールサイドなどで四つん這いなど不自然なポーズを取っていようと、
水着を着ている限り、その背景が水場であれば「不自然さ」は薄まる。
なぜなら、水着なんだから水辺に居ればいいでしょう。
そんな企画側の声が聞こえてくる。
ちなみに、水着グラビアは基本的に海やプールが背景なのは多いが、あんがい河川のものは少ない。
ないことはないが、海やプールが圧倒的だ。
ところで、背景がビーチやプールサイドでビキニなら「これから泳ぎます」とか「泳いだすぐ後で身体がびしょびしょです」とかでも不自然ではない。
今回話題にしたいのは、いわゆる「和室ビキニ」だ。
どういうのかと言えば、ビキニを着た被写体が、いかにも和風の畳の部屋や、老夫婦が番茶を飲んでいそうな縁側、ときには風呂場(露天風呂ではない家庭風呂)でポーズをとっているようなものだ。
これらは一体、なんなのか。
なぜ彼女らは、こんなエッチな水着を着て、和風の室内でビキニを着ているのだろうか。
そしてなぜ、こうした「和室ビキニ」は一つのジャンルとして成り立っているのだろうか。
というか、こういうグラビアを企画するディレクターやカメラマンは、いったいどんな状況を想定してこうした作品を世に送り出しているのか。
そして、なぜわたしたちおっさんはこうした「和室グラビア」に惹かれるのか。
わたし以外の人も「和室グラビア」に惹かれるだろう。
好きじゃない? 和室グラビア。
好きでしょ、和室グラビア
しかし、下着ならまだしも、女性が水着を着て畳の上や縁側に寝っ転がっているのは、どう考えても不自然だ。
縁側で下着……? まあ、酷暑ならあり得るかもしれない。
それでも、水着? なぜ畳の部屋や縁側で水着?
こういう被写体をするアイドルなり、女優なり、モデルなりの人々には先に書いたように、「どー--しても下着になるのはNG」という事情があるのかもしれない。
だから、不自然だけど和室の畳のうえや縁側で、ビキニを着てセクシーポーズ。
これは下着じゃないのよ~水着なのよ~でも下着だと思ってこれ見てあとは想像力で補完して!
みたいな、複雑な大人の事情と制作側の配慮の結果が「和室ビキニ」なのかもしれない。
しかし、水着であるビキニを着ており、下着とまったく変わらない肌の露出度だったとしても、それでも、やはり、わたしは水着を下着の代替として観ることができない。
どうしてもわたしのなかのリアリズムが、それを否定する。
では、和室でビキニのグラビアを、わたくしどもはどう受け取ればいいのか。
実のところこれは、ジェネレーションギャップを孕む問題といえる。
まず、「和室でビキニ」をリアリズムをもって考えられる状況としては、
■1■サークルや部活の、海に近い宿での夏合宿で部員女子の水着を見た。
という状況が考えられる。
普段着しか見たことのなかったサークル・部活メンバー女子が、夏合宿のビーチで水着姿を“ジャーン”と披露する。
「おうふ……」と思うが、口には出さない。
ニヤニヤするだけだ。
そしてさんざん、海で泳いだり、ビーチでスイカ割りをしたり(ちなみに、わたしはしたことがない)、ビーチバレー(これはある)をしたあと、陽が傾いてきたころに、合宿している安っすいチンケな民宿に帰る。
そのショボい民宿は海のすぐ近くなので、サークル・部員女子たちは水着のまま宿に帰ってくる。
ともすれば、その民宿の裏庭の立水栓できゃーきゃー言いながら身体についた砂を流しあっているかもしれない。
そして、それをあなたはガン見する。
『え、なんかすっげー地味な印象だったけどガチ巨乳じゃねえか……』
とか
『いつもハデ系なのに水着となれば地味系女子より控えめじゃねえか……』
とか、
『なんだよあのロリロリ体系…………』
とか、その他もろもろ。
部員女子の首筋の下の鎖骨、薄皮一枚のおっぱいや、むき出しになった胴、おへそ、本来は下着によって隠されているであろう下腹部、足の付け根、ミニスカートやショートパンツよりもむき出しの(しかしその他の部分に目が行きすぎて普段ほど目が留まらない)太もも、普段はスカートをめくったりデニムを引きずり降ろしたりしないとみられないはずの、ショーツ一枚のお尻のフォルム、太ももの裏側、膝の裏側、ふくらはぎ、ビーサンをつっかけた砂まみれの素足……………………
あなたは(いやわたしも)、そのときの記憶を脳裏に刻み込んだだろう。
永遠の記録として……
また、こうした学生時代のおいしい(至高の)思い出に恵まれなかった、というわたしと同世代の人間もいるだろう。
その場合、チャンスとして考えられるのは
■2■社員旅行先で海に行き、女子社員のはっちゃけた水着姿を見た
というケースだ。
これは私の知人女性の話を引用したい。
彼女が勤める会社の地方支社が夏休みの旅行先に選んだのは、海辺の民宿だった。
参加した女性社員は知人女性ともう一人、あと、その2年前に入社したおねえさん女子がひとり。
合計3人の年頃女子が、その旅行に参加した。
信じがたいことだが、まだ女子の水着のスタンダードは(ややもすれば保守的な子は)まだなんとなくワンピース、という90年代中半において、その会社の夏合宿に参加した女子は3人ともビキニだった。
誰も頼んでいないのに、3人が3人とも申し合わせたように(申し合わせてなかったそうだ)ビキニだった。
年長者の25歳エロエロ女子は緑と黄色の混成模様の水着。
おっぱいは大きくないが、下半身の腰回りと尻がエロい。
わたしの知人女性は23歳でかなり巨乳。お尻は小ぶりだ。
彼女は上下こげ茶のビキニ。白い肌に似合っている。
3人のなかでもわけてもビッチな小柄女子。
ちょっと浅黒い肌にオレンジ色のビビットな水着。
3人が民宿から海に向かって歩き出したとき、会社のおっさん連中は……昨夜の深酒がたたって宿の二階で全員がヘバッていた……が、
「お、おい!」
一人のおっさん社員が彼女たちが海へ繰り出していくのに気づく。
「み、見ろっ! 3人ともビキニだ!!!!」
「な、なにっ?」
おっさんたちは窓に殺到する。
「そ、そ、双眼鏡!!!」
そこからは殺しあわんばかりの双眼鏡争奪戦となったそうだ。
「ほほう…………●●の左尻には|黒子《ほくろ》があるのか……」
「な、なんだと? 双眼鏡っ! 双眼鏡を貸せっ!」
とまあ、そんな感じでおっさん達は、ふだん会社で妄想するしかなかった彼女たちのプライベートゾーン……彼女らと熱いファックを交わして自由にその身体を弄り倒しているであろう彼氏どもから、彼女らを寝取ったような満足感を味わったという。
さて、「和室でビキニ」問題に戻るが、そうした一連のグラビアは、上に挙げたような「夏合宿」や「社員旅行」の記憶を喚起して、わたしたちを魅了する。
しかし先述したように、こうした反応にはジェネレーションギャップが生じることは否めない。
なぜなら前者の「夏合宿」に関して言えば、今日びの大学生は、ほぼサークルに入らない。少なくとも、夏休みに女子と海に行くような楽しいサークルには。
だから、女子たちのビキニ姿を拝む機会もない。
近年の大学生活といえば、コロナ禍におけるステイホーム期間による学生同士のコミュニケーション不在、でなくても就職活動の自己アピールのためだけに所属する学祭実行委員会などの無味乾燥な活動、2年生後期からはじまるインターンシップ、不景気による仕送りやバイト収入の減額、ましてやコミュ障ならば4年間延々と続く地獄のような便所飯生活など……
夏合宿で女子の水着を見られてラッキー! みたいなキラキラ感とは数万光年の地平にある地味地味ライフ。
まったく気の毒だと思うし、いちばんヤリたい盛りの年代の若者たちがこうした抑圧下にあることは、わが国の将来にとっても憂慮すべき事態だ。
社会人も社会人で、いまや「みんなで社員旅行、おっさんは酒飲んでヘベレケ、女子たちも『えー-社員旅行なんてぜんぜんテンション上がらねー……』といいつつも、まあせめて海で水着で着られるせっかくの機会なので、女子同士で見せ合って楽しむため水着でも三愛で買うかー……おっさんども、見たけりゃ見ろよホントはカネ払ってほしいとこだけどー……みたいな職場での憩いの数日間はとても望めない。
上がらない賃金と、残業費をあの手この手でごまかすために次々に導入される過酷な労働体制、ギスギスしてるかまったく交流のない無味乾燥な人間関係、リストラの恐怖やいつかは転職したいという一縷の望みをかけたスキルアップへのプレッシャー、そしてそれらの鬱屈をぶつける場所はX(旧ツイッター)……
『社員旅行で女子社員がビキニ? ははは、なんですかそれ異世界の話ですか』
と乾いた笑いを浮かべる勤め人の皆さんにはもう、掛ける言葉も見つからない。
だいたい、「和室でグラビア」を企画したり撮影したりするクリエイターの方々は、年代的にもギリでバブル崩壊後とはいえ、今日ほど社会から余裕と楽しみが失われた時代より前に青春時代・青年時代を過ごした人々であると思われる。
そうした彼らが生み出す「和室でグラビア」は、いまや現実の生活でそうした体験を経たことのない若者たちにとって、どのように映っているのか。
現在の若者・青年には「和室グラビア」の原型となる「体験」がないのだ!
まさに「オリジナルなき記号としてのイメージ」、シュミラークルだ!
さて、これがわたしの「和室でビキニ」に関する考察だ。
このハイパーリアル時代のグラビアの価値と意味に関しては、まだまだ述べたいことがある。
次回は、「ホテルの部屋でビキニ」のグラビア、
そしてさらに「雪原でビキニ」のグラビア
について、じっくり考察していきたい。
<たぶん続かない>
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