見出し画像

「それを書いちゃあお終いよ」

書くことは、物事をある程度、抽象的にまとめることである。その際に、数々の細かいことは無視され、見えなくなる。言葉にはそうした死角が存在する。「りんご」という言葉では、具体的なリンゴの個体差までは分からない。言葉で「りんご」と言ってしまうことは、そうした個体差を考慮に入れずに考えてゆくことである。

もちろん、その働きが便利にに機能することは多い。言葉があるから、スムーズに意思疎通をすることができる。りんごはそれぞれ味や大きさが違うが、その違いにつまずくことなく、「りんご」と言う言葉で会話をすることができる。もし、味が程々に酸っぱくないとりんごとは言えないなどと言うルールがあったなら、面倒だろう。

しかし、文章においては、そうした言葉の機能が味を損ねてしまうことがある。言葉の便利さからは、離れた営みが書くことにはある。それは、文章が「あえて書く」世界だからだ。実用的な言葉の世界では、便利さが重要とされるが、あえて書く世界では便利さよりも、面白さや周りくどさが重んじられる。

「りんご」一つとっても、「リンゴ」や「林檎」と書き分けることもある。あるいは、「よく熟れた赤い果実」などと言ってみたりもする。なぜそんなことをするのか。

言葉が抽象的に丸め込んでしまう「死角」を、言い表したいからである。つまり、目の前にあるのは、「りんご」という言葉の意味ではなく、現実に存在する果実の質感であったり、香りであるということを表現したいのである。そうすることで、「りんご」は「りんご」でなくなる。書いた人にとって特別な意味を持つようになる。

あえて書くとは、言葉の意味を再定義することである。「りんご」という言葉が見えなくしてしまうことを、もう一度見えるようにする。そのためには、既存の言葉を捨て去り、新しい言葉を使う必要があるかもしれない。

あえて書いているのだから、書きたい何かがそこにあるわけだ。その書きたいものが、すでにある言葉で書き表すことができないとき、書き手は新しい言葉を必要とする。

はじめに、言葉にならないものを見る。これを単純に言葉にしようと思うと、「彼はりんごを持っている」という文章になる。しかし、これではりんごと彼の関係がよく分からない。そこで、「彼は、生涯をかけた努力の結晶を手にしている。」と書いてみる。「それは、赤く煌々と輝きを放っていた。」そうすることで、りんご農家として一生懸命美味しいリンゴを作ろうとしていた、彼とリンゴの関係をうまく表せるだろう。その場合、「りんご」という言葉が持っている私たちのよく知る意味はむしろ邪魔なのである。彼が持っているのは特別な意味を持つ、りんごなのである。

しかし、そうした言い換えも文章においては言葉によって行われる。これをよく考えてみると、言葉の死角は言葉によって埋めることができるということである。

「りんご」という言葉にせよ、「生涯をかけた努力の結晶」という言葉にせよ、その本質的な狙いは変わらないように思える。それは、そこにあるものをなるべく忠実に意味することである。しかしそのアプローチが違う。

「りんご」や、「みかん」のような言葉は便宜的に定められた記号のような言葉である。あの赤い果実を、「りんご」と呼ぼうが、「ぴょんみ」と呼ぼうが関係がない。何かしら名前が必要なのでつけられた。どうしても、果実の名前をつけて言葉としてやりとりができるようにしたかったのだ。

一方、「生涯をかけた努力の結晶」や、「よく熟れた赤い果実」という表現は、そうした基本的な言葉とは違った機能を持つ。りんごのある一面を切り取って、それに特化した形でりんごを記述する。そこには、「りんご」という一般的な見方ではなく、書いた人は独特な目線でりんごという果実を眺めていることが示される。「努力の結晶」と書いた人は、りんご農家さんの努力に注目したわけで、一方「赤い果実」というのは、赤く見える感覚的な要素を際立たせたかったのである。

前者の「りんご」という単純な表現は社会的な正確さに基づく言葉の運用と言える。みんなに通じるから、みんな使っているから「りんご」と呼ぶ。赤ちゃんはまずそうした言葉から学んでいく。その後に、語彙が増えてくると「努力の結晶」のようは複雑な表現ができるようになる。これは、個人的なものの見方を正確に伝えるための言葉である。

両者の違いは、社会的な正確さか、個人の地点から見た正確さかと分類できる。しかし、個人の地点から発される言葉においても、社会的に決められた基本的な言葉の組み合わせによって表現される。そして最後には、やはり人に通じなくてはならない。言葉においては、社会がまず先にありそれから個人が成立すると言える。言葉にも成熟というものがあり、自分の言葉を持つ、ということは社会の中で個人という立ち位置を確立することである。

「言語化力」などという抽象的な言葉の死角には、そうした言葉の構造がが示す、社会と個人の関係がある。言語化力という言葉が求めているのは、言葉としての個人だろう。「りんご」をそのまま、「りんご」というような単純なことではない。「りんご」を、自分なりの見方で言い直し、かつそれを他人に伝えることができる力である。

抽象的な言葉はポツンと言われてから、急速に伝播していくことがある。しかしそれは、個人の見解をもとに作られた言葉であることが多い。それを、そのまま「りんご」と同じように基本的な単語として扱ってもいいのだろうか。むしろ、「努力の結晶」のように、あるものの見方の一部分としてそれを受け取るべきだ。その人は、「努力の結晶」と見たかもしれないが、「赤い果実」と見る視点があると言ってみる心意気も必要だ。

言葉は単純さを嫌う。全てのものはこうであると定義した瞬間に例外が発生する。例外は必ずある、という法則は言葉の性質に基づいているとも言える。定義では言い表せない死角が、そこにはある。簡単にまとめてしまいたくなるが、「それを書いちゃあお終いよ」と言いながら、簡単ではない実際を書き表していきたい。

最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!