「わたしではないわたし」
2020/12/25
思い立つ。わたしではないわたしを作る方法? 日記に現れ出ない日記。日記の日記。わたしを作るわたしの日記。分離していく。連鎖していく。日記の日記の日記の日記。
2020/12/26
制作日記の制作日記。今日は、昨日思いついたこのコンセプトについて説明した。説明の文章であるが、「制作日記」側では、昨日書いた「わたしではないわたし」の部分についてもっと言及してもよかった。まずは、「制作日記」なのだから、どんな文章を書いたかを報告するべきであろう。
この「わたしではないわたし」側にも、その報告の影響が出てくる。本文と制作日記が影響を与えあって響き合う光景が見えてくる。お互いに、共鳴しあって内容が変化していくと面白い。
しかし、あくまでもこれは「制作日記の制作日記」であって、本文の執筆という感じはしない。これが毎日積み重なって一つの文章になっていく。考えなしに書いている気がするがいいのだろうか。読んでくれる方は追いついているのだろうか。
2020/12/27
今日の文の制作日記を書いてから、すぐさま書く。この距離感は結構大事な気がする。時間をおいて書くと、「制作日記の制作日記」ではなくなってしまう気がする。今はわからないが、これから考えておこう。
今日はけっこう書くことができた。全体的に集中できている日だからかもしれないが、具体例をもとにして書き進めることができた。自分にとってのテーマもはっきりしてきた。「日記」をどうやって面白く見せるか。これができればかなり大きい。「日記」が面白ければ、どんな文章だって面白いだろう。
しかし、他人の日記を読む気にはあまりなったことがない。日記の本をあまり読んだことがない。小説や詩はそれとみて、すぐにわかるが、「日記」はどんな形式で書かれているのかよくわからない。わたしのように随筆をその日に書くだけの人もいるだろうし、食べたものを記録しているのも日記だ。
「問い」をベースに考えを進めているので文章の流れはしっかりしている。明日も問題なくかけるだろう。みたいなことを言っておけば「制作日記の制作日記」になるだろうか。……うーん。そもそもどう書けばいいのかわかっていない気がするな。明日、このことも制作日記に取り上げるか。
2020/12/28
疲れている。十五分ぐらいで集中が切れるので、文字数の目安は決めずに時間区切りで書いた。この制作日記も十分ほどで書き切るつもりである。
今日は「制作日記の制作日記」というコンセプトを説明した。割とよくかけたと思う。「書き重ねる」のと同じで、同じ内容で何度も書いているとだんだん説明が簡潔になってくる。今日は疲れていたのもあって、早く書き終わりたいという気分になり、より簡潔になった気がする。
普段は、集中が切れたり、内容が区切りが良くなると文章を切り上げている。さらに、面白さの目安は文章量で測っている。集中してたくさんの文字数をかけるといい文章であるとなんとなく思っている。面白い文章は、自分が夢中になって書くことに没頭しているときに生まれるからだ。より多くの文章を、短い時間でかけたということは、良い状態が長く続いたということである。
今日は、千文字ぐらい。ここ最近二千文字、三千文字ぐらいを1時間ぐらいかけて書いていたから、それと比べると調子が悪い。しかし、時間当たりではなかなか早かったと思われ、完全に調子が悪いわけではない。
「という日記を書いた」という文章から、ここまで話が膨らむとは思わなかった。しかし、随分マニアックな話題だな。日記を書いていて、「という日記を書いた」と書きたくなった人向けの文章だ。しかし、それは文章の機能や言葉の役割に関わっている。
今までnoteというなんでも書いていい場所で好き勝手書いてきた。今回は、それこそ「日記について考える」という制約を自分で選び取り、その制約からぬけだす練習をしている。
一ヶ月あたりでそういう新しい書き方を生み出すプロジェクトをしていると自分の文章をみなおすいい機会になる。
2020/12/29
書き終えた。途中指が痛くなったが、なんとか書き切った感じがある。指が痛くなると、集中力が下がる。集中力が下がると、聴いている音楽が気になる。
文章を書くことは、ほとんど指の痛みとの戦いといってもいい。いかに、痛くなく書くか。時には、考えるスピードを調整して書く必要がある。
キーボードで書いていると、「早い方がいい」と考えがちだが、わたしの場合は早く打ってしまうと指が痛くなるようだ。だから、キーボードを丁寧に優しく打つように気をつけよう。早く打っても指が痛くなるなら、痛みなく書き続けられる速度で打った方がいい。書くことは長距離走に近いと思っている。パワーやスピードよりも、リズムとバランスと継続が大事だ。継続するためにも、「ただ続ける」根性以上の技術がいる。ゆっくりキーボードを打つ、というのも身体的な書く技術だ。「しっかり構成を立てる」というような考え方だけが書く技術ではない。とわたしは口うるさく書き続けていきたいと思っている。
今日、書いている中で印象に残ったところは、自分の文章を引用したところだ。「わたしではないわたし」がどんな様子になっているのかを説明した方がいいと思い、進んでいた手を一旦止めた。そして、記事を保存して、「わたしではないわたし」の下書きを開き、引用部をコピー。そして、また途中の記事を開きなおしてコピーしたものを貼り付ける。
だから引用は、めんどくさいと思ってしまう。書くリズムを削がれて、「書く」以外の作業をしなければならない。しかし、昨日や一昨日も「わたしではないわたし」から引用する作業をしたから今日も引用しようと考えた。なれてくれば、引用も苦ではないのかもしれない。本を開いて、また文章に戻るというリズムを身体化すればいい。とすれば、散歩に行ったり、筋トレをしてからまた書き、また散歩に行って書くというのも身体化できるのだろうか。
引用に慣れていないからか、昨日書いた1,600字の文章を全部貼り付けてしまった。書いているうちに、これおかしいよな。と思って、(中略)で削る。全部乗せたところで、どう読めばいいかわからないし、自分もどう言及すればいいのかわからない。
書いていた手を止めて、引用部の文章にカーソルを持っていき、削る。これも書く手を休める作業。多分ここら辺で、集中力がとぎれて手が痛くなったのだと思う。
しかし、その痛みが新しい書き方を思い付かせてくれた。この「手の痛み」自体を文章にする。その発想が出てきてからは、気が晴れた。
文章を書いていて、そのようなアイデアが出る瞬間に楽になる。あとは、文章を落としていくように展開すればいいのだろう。そう考えながら、説明を続けて書き続けていればいいだろう。
今回は、書いているうちにアイデアを思いつく、という出来事が起こったので、素直に「これは面白い」と驚いた文章を書けばいいだけである。という感じで、考えていることを文字にしていくとちょうどいい文字数(二千字を超えるか超えないか)になったので、文章を終えることにした。
まだ続けられるとも思ったが、「わたしではないわたし」の今日の部分もあるし、指は疲れているし、さらに「書いている間の体験を書く」という日記のスタイルを早く試したかった。だから、ここで切り上げる。下手にまとめの文章を入れると言い過ぎになってしまうこともあるので、中途半端で「こんなんでいいや」みたいに文章を終える。(ここで今日の文を終えるのも「こんなんでいいや」感で終わっている。)
2020/12/30
疲れていたので、20分と決めて制作日記を書く。書く内容も、今すぐかけるものにした。
ついさっき、書いていた日付タイトルの文章の制作日記を書いたのも、昨日思いついたことについて説明し直したのもそのためである。
時間制限をつけて書くと、気が楽になる。普段は、音楽をかけて周りから自分を隔離しようとする。しかし、今日は音楽をかけて書かなかったことが気にかかっている。時間制限があると、その時間に集中しなくてはならずむしろ音楽は気が散る要因になる。音楽をかけないと、書けないのなら書かない方がいいのだろうか。だとしたら、その時の体の調子を見て、集中できる時間をしっかり測ってその間だけ書く、というような書き方をした方がいいかもしれない。
ついさっき書いていた日付タイトルの制作日記が、半分ぐらいを占めるという歪な構成になった。もはや引用とは言えない長さである。一応、noteの表示では引用という形でレイアウトしたが、読みづらいかもしれない。思いつくままに、さっき書いていた記事を書いていたときのことを書いた。おかげで文字数を稼ぐことができた。(稼ぐ、という発想があるのは文字数が多い方がいいと思っているのかもしれない。)
さっき書いていた記事は、書いている感触が印象深く簡単に書くことができた。疲れていたことと、思いつくままに書いたことをメインに、その理由を説明していく。
「説明」の文章は書きながら考えるやり方が最も得意としている。言葉を言い換えたり、表現を模索したり、「本当はどういうことだろうか」と悩んでいるだけで記事になるからだ。物語もまあまあ得意だ。話を展開させていくだけだから。
その後も、なぜ書いている時の心境を書くのか、について「説明」していくだけだった。わかりやすくなるまで、言葉を重ねる。結果、わかってくれるかどうかはわからない。人に話すときも、必要最低限の言葉で話すように説明するのは苦手かもしれない。なるべく多い文字数でたくさん話してしまう。そのうち何かを部分的に理解してもらえればいいという考え方だ。だから、文字数が多い方がいいと思っているのかな。
そんな感じで、書いていると途中で「あと何分」と携帯のタイマーを確認してしまうことがあった。文章の区切りがついたと思ったのだが、時間が残っている。なので、説明を伸ばすような形でまとめに入った。同じことを繰り返して書いているだけで、まとまってない気もする。
時間になったので書き終える。「色々な読み方ができると思う」その終わりかたは、中途半端で、具体的にどんな? という説明も時間があるならばするつもりだった。
2020/12/31
あまりいい感触ではなかった。言葉が空回りしている感じがする。音楽を聴きながら書いていたせいか。それとも、パソコンのキーボードではなく、柔らかくて打ちやすいキーボードで書こうとしたからか。今日も、20分と時間を決めて書いていたので、時間が過ぎるのを待つように書いてしまったからか。
言葉を選んでも、同じことの繰り返しのように感じた。「空が綺麗だった」と「ハンバーグ」の例えも、そんなにうまくない気がする。
「制作日記」なのに、昨日の記事を書いていた頃のことを思い出せないのが問題だと思った。
この記事を書いているのは、二十分間集中して書いていた直後なので、集中が途切れているし、淡々とさっきまで書いていたときの感情を記録しているだけだから、特に「制作日記」に書くようなことは起こらない気がする。
20分が経つのをひたすら待ち続けるように、指を動かしていただけだった。
今度から、昨日書いた文を見返してから今日の文を書けばいいと思った。
2021/01/01
今日は、「わたしではないわたし」を見返してから書いた。時間制限を20分にして書いた。2分余った。それほど、文章の形がしっかりしていて、迷いなく書くことができた。
迷いなく書いているときの気分は、まるで自分が文章の達人になったような気分である。読み返したときには、傲慢に聞こえないか不安である。でもなんとなく、大丈夫なような気がする。文章の達人とは、自分の言葉の達人のことであって、決して他人の上に立つようなものではないと思う。むしろ、自分の言葉でわたしが語れば語るほど、他の人はその人なりの言葉で語りたいと思うだろう。
キーボードを、外付けの柔らかく打ちやすいものにしてから、文体が変わった気がする。一文一文が長くなり、段落も太く大きくなった。しかし、文章自体は硬くなった印象はない。むしろ、読みやすいとすら思う。パソコンで見ていれば、十分読める量だと思う。文章が長くなると、空中で姿勢を整える感覚が必要になる。文章の初めと終わりをきちんと結びつけること。特に、直しながら書くのではないから、書き始めた勢いをどこまで伸ばせるのかを確認しながら、しっかりと一つの句点まで持っていく。滑らかに、負担なくかけているから長い文章を書いているときでも思考は先を見ていて、はじめに書いた出発点から最後に着地する点までの動きをちゃんと読めている。書きながら、ふわりと浮き上がるような軽い感じをずっと感じていた。疲れている時は、短い文章がボタリボタリと落ちるようにつながっていくはずだ。あまり先のことを考えられずに、短く収めないと余計に迷走する。調子がいい時は、言いにくいことや捉えるのが難しいことでも平気で飛び込んでもっともらしい一文を作り上げてしまう。文章の間だけではなく、文章の中にも、言葉と言葉の間にも飛躍がある。
これは、手書きではだすことがむずかしい味だろう。指の動きに素早く対応するキーボードなら、早い言葉の思考にも追いつくことができる。しかし、その分柔らかくて打ちやすいキーボードと、元気な体が必要になってくる。一方、手書きの場合は元気な時は元気なりに書く。そのときの手の動きと言葉が調和していなければいけない。元気だからと言って、ひたすらに早く書くと文字が乱れるし、手が疲れるのでうまくいかない。一方、疲れている時はゆっくり動かす手と文章が調和して、いかにも、文章が疲れている感じを代弁してくれる。
そんな気持ちで、読み返したから制作日記が面白いと思えた。自分で、ここまで自信を持って面白いというのも変な話だと思うが。書いていて気分がよかったら、大抵面白いとわたしは勝手に思っている。
調子が良かったのには、集中していたことや、事前にノートに好き勝手書くというウォーミングアップをしていたからかもしれない。今度も続けてみよう。かさばるだけだと思っていた、外付けのキーボードに使う理由ができて嬉しい。
2021/01/02
今日は、「わたしではないわたし」のコンセプト説明会だった。「わたしではないわたし」って一体なんだろう。それを真面目に考える文章を淡々と書いていった。
今日はイレギュラーで、都合があり上の文章を書いた3時間ほど後に、この文章を書いている。書いていたときのことはよく覚えていない。3時間経つと何を書いたかもよく思い出せないが、「わたし」について考えていたことは確かだ。
その3時間の間にも実はちょうど「わたし」について考えていた。
今回は、いつもの制作日記のように文章についての文章ではなかった。その分、書きやすかったのを感じる。書きやすいと言っても、いつもこればかり書いてたら飽きるだろう。ほどほどに書き方を変えていくのは続ける上でもいい気がする。
2021/01/03
今日は、20分と時間を決めて書いた。他のしたいことがあったから、時間を早めに繰り上げるために制限時間を設けた。お腹が空いている。夕食は、たこ焼きとシュウマイだった。惣菜屋さんで買った。シュウマイが美味しかった。惣菜屋さんで買ってきたものなのに、電子レンジで温めると、出来立てのように肉感がぷりぷりしててとても美味しかった。醤油にカラシをつけて食べた。が、チューブのからしが古いのかあまり辛味がしなかった。たこ焼きも、和風だしのソースとふわふわの食感がやさしく絡み合って、幸せな味をしていた。
お腹が空いているから、食べ物の話を書いてしまった。今日は、「プライベートな話」について書いたから、ちょうど自分の状態を書くのはそれにあたると思った。書いているうちに、この文章を書き始めるときに頭にあったことを忘れてしまった。
と書いたら、思い出した。正確には、思い出すために上の文章をゆっくり書いたのだ。今日は、言葉の出方がぽつりぽつり、という感じだった。ぽつり、と書いてもついパソコンのキーボードで消したくなってしまう。ぽつり、とかいたものを残したまま、ぽつり、と書き足すと文章全体では不安定な感じがする。その感じが、まだ残っていて、今日の日記を書く瞬間にそれを真っ先に思い出した。
最初に、プライベートとは何か、と考えて、自分は初めから「完全にプライベートな話は、プライバシーを侵害しない」と答えを決めつけていた。
だから、その間の文章は理屈っぽい。さらにいうならばあまり面白くなかった。埋め合わせの文章を書いている感じがして、ぽつり、ぽつりとためらいながら、考えながら、計算しながら書いてしまった。なんとなく、そう考えながら書いていると、文章を書いているときの手応えは薄くなる。表現も上手く書こうとして、生々しさを抑えられてしまっている。
「何か」を、「なんか」と打ってしまったところがある。思わず、心の中の声が「なんか」だったから、そう打ってしまった。打ってしまった瞬間に、わたしの心の中の見栄を張るわたしが、ちゃんと、「なにか」と言いなさい、とその文字列を消してしまった。もう一度、「なんか」と復元するのも違和感を感じて、結局「何か」と書いてしまった。今思えば、下手に書くしかない時は、下手に書いてもいいと思った。前半部分は、思ったように埋め合わせの文章だったから下手だったのだ。表現も繰り返そうとしたのを、直して言い換えたりした部分がある。つまらないものを、無理して上手に書こうとすると余計につまらなくなると思う。むしろ、つまらないものを書いているときの「ああ、つまらない考えに入り込んでしまった」という考えごと、文章にするつもりでゴタゴタと書き続け、直さないままそこに置いておくのもいいかもしれない。そうしたら、読む人はよっぽど素直な印象を受けると思うし、どうでもいい論理だと思って読み飛ばして、面白い部分を読んでくれるかもしれない。
としたら、上手く書ける文章、すらすらとかける文章を書くことができる精神状態、集中できる環境、体を柔らかく持つこと、などが素直に文章に表れるのがいい。直さないことには、下手な文章を書くため、そのまま残すという意義があると言える。
今日はうまく書くことができなかったが、途中で「プライベートなこと」が、わたしにとっての「書いているときの体験」であると思ったことで、文章はなんとか、立っていると言える。「書いているときの体験」はどこまで行ってもわたししか知らないことである。だから、どこまで追求してもわたし自身のプライバシーはわたしが握っていられると思われる。それに気がつくことができた。
2021/01/04
「へいSiri、20分経ったら教えて」
そう言って、書き始める。Siriとは、わたしのコンピュータに備わっている、アシスタントシステムである。わたしの文章に固有名詞が出てくるのは珍しいが、具体的にそうやって命令すると、文章がどこで終わるのかを決めてくれる。
20分書いたら2,000字書いてしまうから、この「わたしではないわたし」も長大な文章になりそうである。そろそろ、公開すると、「制作日記」で書いてしまったので、今日公開するつもりである。有料記事デビューである。公開範囲は、今日の分までにして、続きは買ってもらうことにするか。このボリュームなら、100円でも損な感じはしないと思う。むしろ、100円払ってくれたのならこれから書かれる長い日記もちゃんと読んでくれるかもしれない。
制作日記を書いているときは、ひたすら指を動かしていた。初めは、「日記」と同じ感じでダラダラと自分の考えたことを垂れ流すだけの文章になると思っていた。結果、おんなじような文章になったけれども、この書き方をしようと決めたのは昨日のことだ。早速、「こうやって書く!」と決めてそれを実行できたのは大きい。
何も考えず、修正せず、思ったものをなるべく正直に書く。個人的なことでもいい。特に、小学生の頃、好きな女の子を思って泣いた話なんて、超個人的だと思う。読んだところで何だ……、と思うだけかもしれないが。個人的なことを書いてもいいのだろうか、と不安に思っていたのだけれども昨日手は打ってあって、「完全にプライベートなことは、プライバシーを侵害しない」の法則をわたしは分かっていた。
ためらいを、捨て去った上に今の感情は淡々としていて、書くこと以外頭にない。だから、文章はどんどん溢れてくるし、止まらなかった。今まで書いてきた中で一番早く進んでいった文章だと思う。逆に言えば、一番雑に進んでいった文章であるともいえる。何も考えないで書いてしまうことを、忍びないとも思うけれども、そうなってしまったのだから仕方がないとも思う。
だから、これからはそうなってしまうという「自然さ」をいかに制御するかの話になるのだろうか。でも、そもそも、狙った何かを狙った通りに書かなければいけないという話でもない。そのまま好き勝手暴走する文章に身を任せていてもいい。
何しろ、最近始めたばっかりなのだから、どんどん試して、「こいつ」がどんな働きをするのか、どんなところに行きたいのか、よく分かってあげたい気持ちがある。どんなときに元気がなくて、どんなときにたくさん動くのか。そんなふうに観察していれば、必ずしも「制御」という形で押さえつけなくてもいいかもしれない。
何よりも、最後に「わたしは今日投稿すると分かっていた」と、冒頭の文章が帰ってきた時はよかった。構成も何も考えていないのに、返ってくる時は帰ってくる。やはり、同じ人間が書いているから。何が書かれてもいい、と受け入れないと、わたしは逆に、何も書けなくなってしまうだろう。何が書かれてもいいのだから、誰に読まれてもいいし、どんな反応が返ってきてもいい。そういう覚悟で書くしかない。それができなくなったら、一人で細々と書くしかないだろう。そうだとしても、わたしがこれがこんな理由で存在すると、はっきりと受け入れられる瞬間が、文章を書いている時なのだろう。
むしろ、「理由」とか「理解」すらも必要なくて、ただ書いているだけでいいと思える場所が、この白い画面の上に立っている時なのだろう。
だから、わたしは読んでくれる人を想定するわけでもなくて、面白さも、ちゃんとした定跡もいつしか捨て去って、ただ書くことに近づいていきたいと思っている。最後は、自分すらも捨て去って、言葉が行きたいところに行ってくれればいいと思っている。どうやって、自分を捨て去るか。それが、「わたしではないわたし」のキーワードであると思われる。
20分が三回で、一時間。のはずだが、文章の前ではあっという間に経ってしまう。もしかしたら、今日は昼寝よりも気持ちよかったかもしれない。トリップする感じ。時間が忘れて、空間も忘れて。体の感覚も、ここにはない。終わったら、体重をかけていた方の足が疲れていたり、指が軽く痺れていたりするだけで。文章を書くことはどこかにいくことだ。
ああ、書くことがなくなってしまった。でも、「書くことがなくなってしまった」と書いている。「書くことがなくなること」なんてないのかもしれない。永遠に、「書くことがなくなってしまった」と書いていればいいのだから。
今日はいい日だった。久しぶりに日記みたいに。今日は、noteにふたつ記事を書いて、それからいつも書き足していた「わたしではないわたし」もこれから投稿する。明日からの、記事も、今日書いたことが影響して変わっていくかもしれない。それがすごくワクワクして、楽しみだ。どんな文章が明日書かれるんだろう。明日はどんな自分があるんだろう。考えることをやめられない。
いや、わたしにはもっといい方法がある。それが書くこと。だから、考える代わりに書く。泣く代わりに、喜ぶ代わりに、全ての感情の代わりに。そうやって書けた時に、書くことはわたしになる。ここにいるわたしとは違って。「わたしではないわたし」。それを見つける日を探している。
あれ、まだ20分経たないの?
(「わたしではないわたし」は2021/1/14日まで、毎日書きたされ、更新されます。これ以降は、有料で公開します。よければ、続きもお付き合いください!)
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最後までお読みくださりありがとうございます。書くことについて書くこと、とても楽しいので毎日続けていきたいと思います!