記憶の病

5月のある日、激しい雨音で目が覚めた。正午過ぎ。その前にも何度か目が覚めたが、「今日は休日、しかも雨」という脳の指令により、ぐったり。ぼくに電話、ということで起こされ、ようやく脳が目覚めたのが午後1時過ぎ。その後、請求書を起こし、某リゾートホテルへ。また、工房に戻り仕事をしていたところ、「休日なんだから、どこか逃亡しちゃえ。このままだとずっと仕事することになるぞ」と屋我に言われる。晴れていればマングローブの生い茂る北部へ行ってみたかったが、「さて、どうするか?」と車を走らせながら考え、行った先が北谷だった。


気になる映画があった。
「ニューワールド」。ポカホンタスの波乱に満ちた生涯を描いたもので、監督、脚本はテレンス・マリック。恋人・スミスを失ったときのポカホンタスの姿、またスミスと再会したときの彼女の強い意思がとても心にきた。この映画のタイトルとなった「ニューワールド」とは、新大陸・アメリカでもあるだろうが、他にも色々なものと関連付けられる。「ニューワールド」を発見して間もなく、彼女はこの世に別れを告げる。


3週連続して映画を観にいったことになる。毎回思うことだが、映画館の中にいると東京にいるような錯覚に陥る。映画を観ている間に郷愁が湧く。そして、生涯で最も映画を集中して観た時期は前の彼女と交際していたときなので、前の彼女のことも思い出す。毎回起こるこの感情はぼくにとって「試練のようなもの」。先週と違って、激しく苦しくなることはないけれども、それでも何かとても苦しく、泣きたくなるような思いになる。ぼくにとって「映画を観る」とはストーリーと関係なく、このようなせつなさを伴うものだ。これはこの3週間、映画を観終えて思ったことである。映画の登場人物に前の彼女を重ねてみることが本当に多い。


もう別れて1年以上経つし、すでに「過去のこと」になっているはずだが、自分の人生のなかで最も生きづらく、苦しいときにぼくの人生に寄り添ってくれていた彼女がとても恋しい。ときによりぼくに試練を突きつけたりもする奔放さをも持った女性だったが、ぼくはそういうものもすべて好きだった。愛があるから彼女はぼくが沖縄へ行くことも勧めたし、恋しかったから、東京に戻ってこらせるような嘘もついた。あれから随分と年をとって、若かった二人の、若さゆえの不器用さに微笑んでしまうけれども、同じ分だけ泣きたい気持ちになる。ぼくは本当に若かったし、未熟だった。今もそのときとそれほど変わっていないような気もするけれども、それでもやっぱり若かったと思う。泣きたい気持ちになるのは、悲しいとか苦しいとか、そういった感情だけではなく、愛しいとか、温かいとか、嬉しいといった感情もベースにはある。ずっとぼくの記憶に残るだろう。


ぼくの病気は「記憶の病」だと思うこともある。あることを当時感じたままに覚えておく、という記憶の病。いまはとても幸せな日々を過ごしているため、記憶はとても幸せなフィルターを通して蘇ってくる。ポカホンタスの物語も多分にジョン・スミスの「幸せな作り話」で粉飾されているということだが、ぼくが思い出す「前の彼女」のことも、きっとこのような作用が働いていると思う。当分、映画を観るときは彼女のことを「思い出し」そうな気がする。


映画館の中にいる間は東京にいるような気持ちだったが、これはこれで悪くない。映画館を出て濃厚な空気に触れ、「ああ、亜熱帯の島にぼくはいるのだな」という「現実」に引き戻される。こっちの方が「現実」になっていることが、ちょっと不思議。ちょっと前までは、東京にいることの方が「現実」だったのに。しかも、映画館を出て一本煙草を吸ったあと、道を歩いていると、クラウンの集団に出会った。コトラさんと偶然再会。これも「現実」だと思うとかなり妙な感覚に襲われる。

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