見出し画像

冥道(ハザマ)の世界:第十五話 ハザマの世界 四日目

 目覚めたとき、百香の年齢は七十歳を軽く超えていた。この世界に時計というものがないので今が何時かはわからないのだが、百香は歳のせいか、夜が明けるくらいには目が覚めてしまった。

 上体を起こすと、そこには真っ白な髪をしたおばあさんがいた。正確には、それは鏡に写っている百香自身の姿だった。その目は少し腫れているようだ。百香は重い瞼を上手くあげられらなかった。

 これはやっぱり自分だよな。

 百香は鏡に手を振った。すると鏡の中のおばあさんが、手を振り返した。鏡に写った顔には皺とシミがいっぱいあって、そのたるんだ肌は色だけは白かった。そのせいで余計にシミが目立っている。着物が重くてうまく動けず、何とか布団の上に横座りで座ったものの。その着物をつかんだ手は皺だらけで、手の甲はすじ張っていてシミが幾つも見えていた。

 元いた世界の七十代の人たちはもっとうんと若々しかった。多分、メイクをして、毎日運動をして、白髪染めをして、必死になって頑張らないと、こうなるのだろうなと百香は思った。鏡に写っているのは、百香が自然に歳をとった姿だった。

 三日前には、坂道を自転車で走り回っていた身体は、もう歩くこともままならないほどになっている。立ちあがろうと膝を曲げると、百香の膝はずきっと痛んだ。下腹が出て、背中も肩も前に曲がっているのが自分でもわかった。昨日見たママによく似ているが、昨日のママはもう少しおばあちゃんだったなと百香は思った。痛みで動く気力が出ず、百香は長いため息をついた。今度は布団の上に正座しようとしたのだが、膝を曲げようとして、刺すような強い痛みが脳まで走った。

 昨日まで騒がしかったお屋敷は、すっかり静まり返っている。明け方に雨が降ったのか、雨の降った後のすがすがしい香りに交じって、開いたばかりのさわやかなクチナシの花の香りが漂っていた。そうしてまた百香は膝をさすりながら、諦めたように布団にもぐり、目を閉じて再びうとうとし始めた。

 すっかり日が昇った頃、がらりと襖があいて、百香と同じようにすっかりおばあさんの姿になっているお局様が、震える手でお盆にクチナシ茶を載せて運んで来た。腕には着物をかけて持っている。百香に気を使っているのか、百香よりも腰の曲がったおばあさんの姿に戻ってくれているのが可笑しくて、百香はくすっと笑った。

「昨日の着物は、もう丈が長いでしょ。幅はお腹が苦しくないように出しておきましたよ」

 その濃い紫の着物はさっきまで着ていた着物よりもうんと軽く、百香は体がとても楽になった。帯も半分の幅の短い帯でとても軽い。

「ありがとうございます。ずいぶん助かります」

 百香は深々と頭を下げお礼を言ったのだが、自分の声が擦れて低い声になっていることに驚いて、思わず口に手を当てた。

 昨日百香がママを見送った時、ひと言もママと話せなかったことを悔やんで、百香はひたすら泣き続けていた。いったい何時間泣いたかわからない。元いた世界で百香が何年もママを想って後悔して泣いている。ということなのかもしれなかった。泣き疲れていつの間にか眠ってしまったが、ボッコ姉さんが枕元で百香の頭を撫でながら、

「あんたのお母さんの家系、みんな長生きの大往生や。長生きした分、そうでない人よりも辛いことや苦しいことが多かったろうし、犯した罪も多いやろけどね。いいこともあったやろし、徳も積んでたはずって信じるしかない。送り火と共に奥に行けてよかったねぇ」

 そう言っていた声が、背中側から優しく聞こえていた。

 ボッコ姉さん、銀髪鬼さんとのデートに行けたかな……。

 二度寝をしてから、ようやく起きた頭で、百香は昨日のことを思い返した。歳のせいか、別の理由か、胸が苦しくなる。

「喜寿(きじゅ)、おめでとうございます。」

 お局様はそういいながら、クチナシ茶を差し出してきた。

「キジュ?」

「ええ、ついさっき七十七歳になられましたのでねぇ。紫の着物は喜寿のお祝いですよ。すっかり遅くなりましたけど、ようやく送り火も終わって皆さんおかえりになったので、お昼前には主様(ぬしさま)に許可を取ってお外に参りましょう」

 お局様はとても丁寧な言葉遣いになっている。何者か判らなかった百香への疑いも晴れたのか、年長者を敬ってくれているのか、本心は読めなかった。いずれにせよ、約束では、今日、元いた世界までお局様が連れて行ってくれると言う話だった。

 この姿のまま戻って、家族も誰もいなくなった元の世界で、何をすればいいのだろう。まるで浦島太郎じゃないか。働くこともろくにできない身体だ。ママが話していたように「他の誰かが働いて払ってくれたお金」で、住みたいところにも住めずに、何もなかったように生きていくのだろうか。そしてその世界には、百香が知っている人は誰もいないはずだ。百香は考えたたけで恐ろしくなった。

「あの、《夢と現実の間》には入れるんでしょうか?」

「主様の許可が必要ですけれどもね。外に出るのとどっちがいいかしら?」

「両方は無理でしょうか?」

「そうね。あなたの体力がどうかしら。その年齢になると、一時間に一歳も歳をとるのは、本当にきついと思うのだけれど」

「ええ分かっているつもりです。でも、是非。ここまで来たらなんだか気になってしまって。どうかお願いします」

 百香は、今度は立ったまま頭を深く下げようとしたが、腰から下がうまく曲がらず、首だけが下がりお腹が前に出る妙なお辞儀になった。お局様は暫く悩んでいたが、じゃあ主様に相談してきますので、暫く待っていてくれますかと言いながら部屋を出て行った。

 温かいお茶を飲みながら、百香は開け放たれた障子の向こうのクチナシの庭を眺めた。もうずいぶん長いこと、ここにいる気がする。誰もいなくなったお屋敷では、大きな桜の木の濃い緑の葉っぱをさわさわと揺らす音までよく聞こえた。蝉の声は随分と減っている。黒い塀の向こうに、綺麗な水色の夏空が見えた。

 水色……。

 塀と空のコントラストを見つめながら、何かが百香の頭の中で引っかかった。自分の好きな色だ。あと何だっけ。と考え込む。暫くするとお局様が、両方の許可が取れましたよ。とニコニコしながら戻って来た。

「主様も三日間全ての仕事が滞りなく終わったので、ご機嫌がよろしくてよかったです。さぁ、行きましょうか」

「あの、膝が痛くて、立ちあがるのがちょっと」

 百香が言うと、分かっていますよと、お局様はクチナシの軟膏で作った湿布をどこからか取り出した。どうやら準備してくれていたようだ。

「もうここのクチナシも終わりですねぇ。たくさんの実がなって、またいいお薬ができそうです」

「ここの花は枯れないのかと思っていました」

 お局様は、花は条件さえ合えば、咲くもんですよ。そして実をつけて眠り、命を全うして枯れる。確かにここは特別ですけれど。主様がいるのでね。と笑った。

「ボッコさんにもお別れの挨拶をしたいのですが。今どこに?」

 百香が思い出してそう尋ねると、お局様はふふふと笑った。

「昨日ね、デートの約束していたらしいんだけど、すっぽかしちゃったみたいでね。ちょっと遅れて待ち合わせ場所に行ったら、もう誰もいなくて、夜中にわんわん泣いてたのよ。そしたら突然この辺りが土砂降りになっちゃって。まぁ、送り火が終わった後で問題なかったんだけと、それはそれは一瞬だけひどい土砂降りよ。たぶん、そちらの世界じゃ《ゲリラ豪雨》っていうんじゃなかったかしらね。雨と恵の神の竜神様に雨を無駄にするなってえらく叱られて、ようやく泣き止んだけれども」

「それって、もしかしたら私のせいかもしれません。昨日ずっと夜遅くまで傍にいてくれていた気がします」

「ああ。そうだったのね。やっぱりいいとこあるわね。あの子」

 お局様は、笑みを作ったまま言葉を続けた。

「それでねぇ、あっという間に雨は止んだんだけど。ボッコ、その後どこにいるかわかんないのよ。ここを出て行ったのかもしれないわねぇ。福の神がいないんじゃ、ここもそろそろ潮時かしらね。そろそろここは人の手が入るから移るようにとは土地神様から言われてたんだけど。やっぱり神様の言う通りだわね」

 お局様は、少し寂しそうに声を落とした。

 そういえば、初めてこの家に入って来た時、おばあさんが今出ていけないとかなんとか言っていたような気もする。もう記憶がほとんどないのだが。あれはまだ百香が小学六年生だった頃だ。

「さて、これで良し、っと。歩けますか?」

 お局様に言われて百香は立ち上がってみた。すると、不思議と痛みがなかった。

「はい。ありがとうございます。何とか歩けそうです」

 そう答えると、お局様は百香の右腕を支えるようにして、ゆっくりと一緒に歩き出した。廊下にある、わずか五センチほどの段差が、足と腰に堪えた。そうして《夢と現実の間》のあたりまで来ると、お局様は支えてくれていた右手をゆっくりと離して、百香に杖をくれた。

「これで少しは歩きやすいと思いますよ。ここから先、私は入れないんです。主様にはこちらに参ることを伝えていますので、先にいらしているかと思いますよ。中に入ったら、くれぐれも失礼のないように」

「はい。あの、もしもボッコさんを見かけたら、デートをぶちこわしてしまってごめんなさい。と、ありがとうございました。と伝えてもらえますか」

 よろけながら、曲がらない腰はそのままに、百香は頭だけでお辞儀をする。

「もちろんですよ。じゃあ、私は一旦仕事に戻りますね。と言っても、もうほとんどすることもないんですけれどもね」

 そう言ってお局様は控えの間へと消えて行った。百香は杖を持ち、少しだけ歩いて、《夢と現実の間》の襖の前に向き直った。このお屋敷で部屋の中に入ることを許可されたのは、《ハザマの間》以外では初めてだ。百香の胸は緊張で高鳴った。歳のせいか、若い頃よりも動悸がする。それに併せたように息切れも起こる。

「失礼します」

 《夢と現実の間》の襖を開けようとして外から声をかけ、百香が取っ手に手をかけようとした時、するするっと襖が勝手に開いた。部屋の中は真っ暗だ。

 お化け屋敷ってこんな感じだよな。

 固まって動けなくなっていると、百香の足元の方から、「早く入ってよ」と声がした。

 下を見ると小さな犬が両側に二匹いた。白い犬と黒い犬だ。白い犬はしっぽを楽しそうに振っている。黒い犬は牙を見せて威嚇していた。百香はもう犬が言葉を話したくらいでは、全く驚かなくなっている。

「ああ、ありがとうございます」

 百香がお礼を言うと、白い犬の方が答えた。

「案内するから、ついてきてね。足が悪そうだし、ゆっくりでいいよ。足元暗いから気を付けてね」

 そう言って前に向き直ると、白い犬は部屋の中へ向かって歩き出した。百香の目は少し暗さに慣れて来たが、相変わらず部屋の床がどこにあるのか、それがどこまで続いているのか百香には分からなかった。目もすっかり悪くなっているので、歩けるかなと不安だったのだが、百香は持っていた杖でその高さを測りながら、恐る恐る一歩、部屋に足を踏み入れた。

 どうやらこの部屋は、廊下と同じ高さのようだ。幸い白い犬の胴体が光っていて、足元を照らしてくれているので、道案内する提灯のように見えて、楽についていくことができそうだった。黒い犬は無言のまま、百香の少し後ろからついてくる。

「もうすぐだよ」

 白い犬が百香を振り返ってそういった時、丸いトンネルの出口のようなものが見えた。前方に明るい道が見えている。

 お屋敷の中にトンネル?

 丸いトンネルの出口近くまで来て、百香ははっとした。前に見えている景色に見覚えがあったのだ。あの坂道だ。外に出るのをためらっていると、後ろから黒い犬が百香の背中にドンと、体当たりして来た。

「ぎゃっ!」

 声をあげて、百香は頭からトンネルの外に転げ出て、バレーボールのレシーブをするように斜めに一回転した。

「いたたた……。かわいい顔してなんてことするのよ」

 黒い犬に文句を言うつもりで後ろを見たが、黒い犬はもう足元にいなかった。前にいたはずの白い犬もいない。前を見ると細い坂道が見える。何がどうなっているかわからないまま、百香はゆっくりと立ち上がり、前に転がっていた杖を拾った。と、杖が大きすぎることに気が付いた。濃い紫の着物もぶかぶかになっている。

 確か、この道の端にミラーがあったはずだ。

 突然記憶が鮮やかに蘇り始めた。百香が振り返りミラーを探すと、やはりミラーはそこにあった。そして、ミラーに映っていたのは自分の姿ではなく、白と黒の犬だった。

「じゃあね。がんばって」

 そう言い残すと、白い犬は後ろを向いた。黒い犬は相変わらず何も言わないで、白い犬についていく。ミラーの中で、二匹は、どんどん進んで遠く小さくなっていった。ミラーを前にして右を見ると上り坂、左は下り坂だ。百香は慌てて坂の上下を見たが、やはり坂の上に犬などいなかった。どんどん小さくなるミラーの中の犬たちに向かって、精いっぱいの大声で百香は叫んだ。

「ちょっと待ってよ! 行かないで! 主様に合わせて!」

 声がワントーン、いや、ツートーンは高くなっている自分に百香が驚いている間に、二匹の犬はあっという間に見えなくなった。ミラーは、その出口を閉じ、今度は百香を移すただのミラーに戻った。そうして百香はそこに映っている自分の姿を見て驚いた。どう見ても小学生の顔で、小学生の背丈だ。髪の長さも肩までに戻っている。周りには誰もいなかった。百香は一瞬たじろいだが、ここにいても仕方ないと腹をくくり、迷わず右の坂道を上がり始めた。

 いったいどうなってるんだ? これって元の世界?

 引きずる着物を腰のところまでたくし上げてから、百香は腰ひもを結びなおした。坂道を登山のように杖をつきながら登る。

「これじゃ、お遍路さんだ」

 誰もいない道で百香は独り言を呟きながら歩いた。最初の大きなお宅を通り過ぎるころクチナシの香りがする。二件目のところまで来ると、やはり桜の木があった。そしてピアノの音が聞こえる。《愛の挨拶》だ。

 全てが、かつて見て来た景色と同じだった。百香は、自分の記憶がかなりはっきりと蘇って来ていることに驚いていた。

 何故、何も思い出せなかったのだろう。もっと何か大切なことを忘れている気がするのだけれど…・・。
 
 百香は思いを巡らせながら坂を上った。ふと左側の塀を見るとアーチ型の木でできた勝手口のようなものがあった。ドアの上部には覗き窓があって黒い鉄格子がはめ込まれている。百香は怖々その鉄格子の覗き窓から、大きなお宅の中を覗き込んだ。

 このドア、新しく作ったのかな? 前は無かったような気がするんだけど。

 お屋敷の前は広い庭になっていて、庭の周りをぐるりと取り囲んでクチナシの白い花が満開になっているのが見えた。奥には二階建ての立派な洋館が見える。こちらの庭側に面して、二階には大きなバルコニーがはりだしている。一階のポーチから、今立っているドアの所まで、テラコッタ色の細長い石がくねくねと曲がりながら繋がっていた。ドアの右側には大きな桜の木があった。ポーチをよく見ると水色の自転車が立てかけてある。百香はその自転車に見覚えがあった。薄い水色だ。前のかごには同じ水色のリュックが載っている。泥よけ板に書かれたMOMOKAという文字も見えた。

 あれは……百香の自転車とリュックだ!

 蘇ってきた記憶に興奮しながら、百香は思い切ってその小さなアーチ状の水色のドアを、どんと叩いた。

「すいません。誰かいませんか?」

 その時、ドアの取っ手の右側に小さな呼び鈴があるのに気が付いた。どこかで見たことがあるような小さな丸い呼び鈴だ。
 ベルを押すと、《ピンポーン ピンポーン》と懐かしいような聞いたことがあるような軽快な音が聞こえて、今まで聞こえていたピアノの音が止んだ。暫くすると女の子の声が、ベルの上にあったインターホンから聞こえてきた。

「Yes (イエス)? Who (フー) is it (イズイッ) ?」

「え? え? 英語?」

 百香は一瞬パニックになった。大抵のことには驚かなくなっていたのだが、これは想定外だ。

 一体こういう時はどういえばいいのだろう。困っていますってどう言えばいいんだろう。私の自転車がそこにあるみたいなので、見せてくれませんかって言いたいんだけどなぁ……。そもそも水色っていう英語さえ思いつかないや……。

 考えるだけ時間の無駄だった。百香が今知っている英単語は限りなくゼロに近い。百香が焦ってどうするべきか悩んでいると、「Hello (ヘロー)?」と、もう一度女の子の声が聞こえて来た。

 この言葉だけは、百香にも流石に解った。

「ハロー」

 恐る恐るインターフォンに向かって百香は言ってみた。

「私……モモカ」

「……Yes (イエス)……?」

 相手の女の子は次の言葉を待っている。

 もう……とにかくなんか言わないと……!

 百香は必死に話をしだした。日本語で。

「あ、あの、そこのお庭にある自転車、えっと、私のです。多分リュックも。その水色、えっと何て言うのか分かんないんだけど……ブルーの自転車、見せてもらえませんか?」

「……Look (ルック)??……blue (ブルー)?……Oh, I see. (オーアイシー)」 

 暫く無音が続いた後、インターホンは「プッ」という音を最後に何も聞こえなくなった。百香は「はぁ」とため息をついた。
 言葉なんて必要に迫られないと話そうとしないんだ。いつか誰かに聞いた気がする。本当にその通りだった。

 こういう時にどう言えばいいか。そういう目的を持って英会話の授業を受けていたかった。『もう少ししたら、公立の学校でも英語を教えるようになるから英会話教室なんて行くは必要ない』とママが言っていた記憶がある。

 絶対必要だし、もう遅いよ……。

 そう心の中で呟いたとき、百香ははっとなった。自分の記憶が、やはり断片的に戻ってきているのだ。確かママと待ち合わせをしていたはずなんだけど、まずは自転車何とかしないきゃと、諦めモードでどうしたものかと悩みながら百香が庭を覗いていると、ポーチから女の子が出てくるのが見えた。 
 女の子は何か言葉を発し、首を傾げながら自転車を指さしている。

 やったぁ。通じてる!

 百香には女の子が発した言葉の意味は分からなかったが、通じたことに感激しながら、大きく首を縦に二度降って、そのあと大きく手で丸を作って見せた。すると今度は女の子が笑顔で向こうから駆けよって来るのが見えた。

 目の前に広がる大きなお屋敷の緑と芝生、クチナシの香りに包まれた庭。綺麗に手入れされた芝生にはところどころバラの木が植えてある。小さな花が黄色のアクセントを芝生に添えている。花柄の白いワンピースを着て、紙に水色のリボンを付けたポニーテールの女の子が遠くから駆けてくる。映画に出てきそうな景色だ。

 水色のドアの前まで女の子が来たときに、この子誰かに似ているなと百香は感じた。背は百香よりずっと小さい。ドアの前に来ると小さすぎて見えなくなった。小学校一年生か、それよりも小さいくらいかもしれなかった。ガチャリと鍵が開く音がして、女の子が可愛らしい顔をドアの内側からぴょんと出してほほ笑んだ。

「Please (プリーズ) come in (カミン) !」

 好奇心いっぱいの瞳で、女の子はじっとを百香を見つめていた。そのキラキラする瞳を見て、百香は完全に動けなくなった。

 これは……美加ちゃん……だ。
 
 呆然としたまま百香は女の子に手を引かれて歩き、お庭を横切って自転車のところまで来た。女の子は歩きながらいろいろ話をしているが、百香には何を話しているのかが全く分からずただただ悲しくなった。

 記憶の底から美加ちゃんと過ごした時間が浮かび上がる。目の前にいるのは確かに美加ちゃんのはずなのだが、全く日本語を話せないようだ。それにこんなに小さな女の子ではなかったはずだ。百香は必死で記憶を辿る。その間、女の子は自転車を見せながら何やら色々と話をしていた。

 百香は自転車をまじまじと見てみたが、やはりそれは自分の自転車に間違いなかった。ただ、かなり綺麗にピカピカに磨いてある。

 おしゃべりし続けていた女の子が、急に静かになった。見ると女の子は、口をへの字に曲げて、眉間にしわを寄せて百香を見つめている。会話のキャッチボールが成り立たないことに、相当がっかりしているようだった。

 かわいい顔にしわが寄っちゃう。

 両手の親指で優しく眉間のしわを伸ばしてあげると、女の子はきゃはははと、声を出して笑った。どこかで、同じようなことをしたような気がする。が、もう少しで思い出せそうなのに思い出せない。

 そんなことよりも、百香にはこの目の前の女の子が美加ちゃんかもしれないということが一大事だった。もしそうならば、やはりこの世界は、元いた世界ではないということになるのだ。

 動かないままで何も話さないことを見かねたのか、突然に女の子が百香の手を握り、部屋の中へ連れて行こうとした。

「えっと、それはたぶんまずいと思うな。お家(うち)の人はいないの?
 えっと……パパ、とかママは?」

「Mom (マム)?」

「そうママ」

 女の子はにこりと笑い、やはり手を引っ張って百香を家の中へ連れて行こうとする。ポーチのガラスドアを開け、階段まで駆け寄ると、二階に向かって、大きな声で女の子は叫んだ。

「Mommy (マミー)! Mommy (マミー)!|」

 どうすればいいのか分からずに、百香がどぎまぎしていると、階段の上からローブを纏ったプラチナブロンドの女性が階段を下りてくるのが見えた。超が付く美女で、日本人ではなさそうだ。

 偉いことになった。そういえば美加ちゃんのご両親は日本人ではないと言っていたな。

 百香が驚いたまま黙っていると、突然百香の耳に日本語が聞こえてきた。

「どう? この世界は?」

 超絶美女が百香に語りかけてきていた。でも唇は動いていない。百香の心に話しかけてきている。

「お待ちしていましたよ。百香さん。私に会いたいとのことだったけれど、ご用はなあに?」

 今度は鈴のなるような声が天から降ってくるように百香には聞こえた。
 さっきまで横にいた女の子はどこかに消えている。その美女は、白い細身のぴったりとしたレースドレスを着ていた。レースには金色の糸で刺繍が細かく施されている。肩から掛けているマントのような透けるローブは、風もないのにふわふわと揺れ、虹色やら金色に光って見えた。

「あの。もしかして……。主様でしょうか?」

 超絶美女は、にっこりと微笑んでようやく唇を動かし答えた。

「ふふふ、そういう風に呼ばれているみたいねぇ」

 鈴が鳴るような声は、そのトーンを一つ下げて、ポツリと言った。

「その呼び方、あんまり好きじゃあないんだけど。まぁ、いいわ」

「あ、初めまして。狭間百香と言います。あの、聞きたかったことがあって……」

 ここまで言って、自分が何を聞きたかったのか、何故会いたかったのかが思い出せないということに百香は気が付いた。

「なあに?」

「えっと、えっと……」

 主様はくすりと笑いながら、そのプラチナブロンドの髪をかきあげた。

「緊張しなくていいのよ。必要に迫られることなんて、まぁないものなんだから。あと、そもそも会ったのは初めてじゃないわ。それにしても、その喜寿のお着物、私に会うために一番いい着物を着せてもらったんでしょうけれどね、豪華なんだけとイマイチね」

「え?」

 百香は自分の着物姿を見下ろした。ぶかぶかのまま腰ひもでぐしゃぐしゃにまとめ直して着ているので、襟が落ちて肩が丸出しになっている。恥ずかしすぎる格好だ。慌てて身なりを整えるが、大きすぎる着物は百香にはどうにも綺麗に着ることができなかった。

「少なくても四、五回は会っているんだけど、残念ね。覚えてもらえてないなんて」

 主様にそういわれて、こんな超絶美女、会っていたら忘れるわけないのに、と、百香は必死で思い出そうとした。

 一体自分の記憶はどこまで消されているんだろう?

「目に見えるものが全てとは限らない」

 主様は続けた。

「さっきの女の子は、あなたにずいぶんと懐いていたみたいねぇ。あなたにたくさんいいことを言っていたんだけど、分からなかったみたいね。どうしようかしら……」

「え?」

「一部はあなたの潜在意識だけれど。英語、習いたかったのね。あなた、一体誰の人生を生きているの? 念のため、教えておくけど、《水色》は英語で、light blue (ライトブルー)よ」

 ふふふと意味ありげな笑みで主様は笑う。

「じゃあ、そろそろ……」

 プラチナブロンドのお姫様のようなその人は、くるりと後ろを向きざま、着ていた金色に光るガウンの裾を大きくふわりとひろげた。

  突然強い光が、百香の目の前を真っ白な世界にし、次の瞬間、車の大きなクラクション音と悲鳴が聞こえてきた。

「タカシィィイイイイ!」

 そうだ……! タカシ……。 タカシだ‼ 私の可愛い弟!

 全てが鮮明に蘇ってくる。視界は全て四十五度に傾いている。
 両足はペダルに乗せているが、自転車にまたがった百香の身体は宙に浮いていた。

 倒れる!

 そう百香が思った瞬間、映像がぴたりと止まった。

「え?」

 自転車のハンドルが固まって動かないことに驚きながら、百香はサドルをまたいで右側にひらりと飛び降りた。傾いている自転車を立て直し、地面に下ろす。そうしてから百香は、はっと思い出して前方を見た。レインコート姿のタカシが引きつった顔でハンドルから片手を話したまま横に倒れる寸前の姿が見えている。ママはその少し後ろの坂の途中で、悲壮な顔をして口を大きく開けている。全てが止まっていて動いていない。

 百香は、タカシのところまで慌てて駆け寄った。白い車はタカシの自転車のわずか五センチ程のところで止まっている。運転席にはかなり高齢のおじいさんが乗っていた。助手席のおばあさんは両手で顔を覆って俯いている。その向こうには遠くに駐車場と郵便局が見える。

 ともかくどうにかしようと、百香は固まったままのタカシを自転車ごと力ずくで後ろへと、二十センチほど動かして、ホッと胸を撫で下ろした。

「どう? 思い出した?」

 どこかから声が聞こえてきて、百香はぎょっとした。声に聞き覚えがあるのだ。

「ここ」

 声の聞こえてくる方向は、移動させたタカシの自転車の少し後側のようだ。タカシの自転車の後ろ側まで回ると、百香はお地蔵様と目が合った。

「やっと気づいてくれた」

「あ、あ、あ……」

「何度も目が合ってるのに、いつも無視するから。でもキャンディありがとうね」

 お地蔵様の前に置かれたキャンディに百香は見覚えがあった。

 そうだ、タカシがぐずった時用にと、ポケットに入れていたものだ……。

 お地蔵様の前にジュースやお菓子が置かれているのを見て、そこにキャンディを置いたことも百香は思い出した。

「あの、あなたは……?」

 百香がかろうじて声に出すと、お地蔵様は目を丸くした後に、糸のように細めた。

「え? 君、お地蔵さん知らないの? 時々、主様って呼ばれてるけどね」

「え?」

「それにしてもその着物、早く何とかした方がいいね」

 驚く百香を横目で見ながら、お地蔵様は、ふうううと、百香に向かって温かい息を吹きかけて来た。クチナシの香りがして百香の意識は遠くに砕けていく。

 次に目を開けると、今度は百香は真っ暗な部屋の中にいた。あちらこちらから悲鳴や怒号が聞こえている。

「……顔をあげなさい」

 太い声が遠くに聞こえた。くらくらする頭を振りながら、百香はゆっくりと上体を起こした。

「聞こえないのか? 顔をあげろと言っている。顔をあげよ!」

 遠くに聞こえていた声が、すぐ頭上で聞こえていたことに百香が気が付いた。頭をあげ、上を見ると、誰かがこちらを見下ろしているようだ。着物の肩がずり落ちるのを感じて、百香は自分の胸元を見た。前がはだけていて、全開になって下着まで丸見えだ。百香は慌てて前だけを閉じた。

「なぜ、ハザマの家に立ち入った」

 声の主はかなり上の方にいるようだった。真っ暗な部屋の中で、悲鳴を遠くに聞きながら、再びゆっくりと上の方へ視線を移して百香は目を凝らした。
 そこにいたものはこれまで見たどんな生物よりも恐ろしい様相をしていた。目はいくつあるのかわからなかった。顔もひとつではなかった。鬼にも似ている。だが、鬼が可愛いと思えるほど、その生き物は恐ろしい表情で、百香を見下ろしていた。頭についているすべての顔が百香を見下ろしている。どうやら巨大な鬼のような生き物は椅子に座っているようだ。その大きさが尋常ではないので、百香は恐ろしくて声が出なかった。

「何が目的だ?」

 ここに来た《目的》? この鬼のような生き物は、何か百香にヒントを与えている。何故、自分がここに来たのか? 何か言わなくてはと、百香は最初に頭に思いついたことを口に出した。その声は、か弱くかすれている。

「あの……タカシを、どうか弟のタカシを助けてください。神様ですよね? きっと助けられますよね? タカシは本当にいい子なんです。悪いことなんて何もしたことがないんです。小さい頃からパパもいなくて、ママにも甘えることができなくって、やっと自転車に乗れるようになったんです。
 私が自転車なんかあげなければ良かったんです。どうか、どうか、タカシを助けてください! お願いします」

 思いつくまま答えた。百香はとにかく必死だった。自分がここに来た目的は、そうだ。きっとそうだったのだと確信した。
 ハザマの世界まで、弟のタカシを探しに来たのだ。

「よかろう。ひとつだけなら願いを叶えなくもない。ただ私は、君が言うような神ではないのでね。願いを叶えたら見返りに何をくれる?」

 見返り……って、なんだ?

「弟を助けたら、代わりに何をしてくれるのか? と、聞いている」

「代わりに……」

「そうだ、その弟とやらを助けて、私に何の得がある?」

 主様の得になること……これまでのハザマの世界の景色を思い出し、百香は絞り出すように声を発した。さっきの英語と同じだ。破れかぶれでも、何かを口にしなければ、何も変わらない。
 やっと主様に会えたのに、このままここで何も言えず、何もできずに終われば、後悔するのは目に見えている。百香は、とにかく頭に浮かんだことを言った。

「お……お仕事が減ります!」

「なんだと?」

「えっと、多分ですけれど……」

 この三日間の出来事を精いっぱい思い出しながら、百香は話を続ける。

「まず、タカシが、事故にあってこっちに来たら、《白と黒の間》で、運転手のおじいさんを待つことになって、おじいさんは苦しんだ挙句に《白と黒の間》に来ることになって、一緒にいたおばあさんは、子供を見るたびに苦しくなって、大好きなおじいさんを待つために《ふたりの間》に入ることもできないし、幸せじゃないから、《家族の間》も行かないだろうし、もしかしたら絶望して、たとえ病気で亡くなっていても《生と死の間》も選ぶことができないかもしれません。

 そ、そうです。ゼツボウテキデジボウジキになって、ハザマの間に住み着くようになって、ハザマの世界でさまよい続けることになるかもしれません。
 いつ終わるかわからないお仕事が次から次から増えて、きっとお局様も大忙しになって、引っ越しもしなきゃいけないのに本当に大変になっちゃうと思います。

 今タカシを助ければ、何人もの人が何度もあちこちの部屋に移動するためにお局様がやっているややこしい事務処理っていうのを省けます。それだけで足りないのなら、私の命を減らしてください。自分の命がゼロになるのも嫌だけど、好きなだけ減らしてください。とにかく、もう一度だけでも皆に会いたいんです!」

 妙なことを口にしているのは分かっていた。百香は今の自分の頭で思いつくことを全部口にしただけだった。
 だが最後の一文だけは、紛れもない本心だった。

 かなりの長い沈黙が続いた後、大きな怪物の頭にある全ての顔が、交互に見合いながら順番に声をあげた。

「ぐわっはっはっはっはっ!」

「こいつは傑作だな」

「馬鹿すぎて話にならん」

「己のことは棚に上げ」

「ぐわっはっはっはっはっ!」

「久しぶりに笑わせてもらったのぅ」

「さっさと、戻せ」

「ひーっ、ひっひっひっ!」

「たまにはこういう暇つぶしもいいもんじゃな」

「もうちょっと楽しむか」

「いや、相応しい世界へ送れ」

「ひーっ、ひっひっひっ!」

「ぐわっはっはっはっはっ!」

「すべては、この者の心根」

「ぐわっはっはっはっはっ!」

「ひーっ、ひっひっひっ!」

「ぐわっはっはっはっはっ!」

「ぐわっはっはっはっはっ!」

 一つ一つの頭は、それぞれに大きな口から大きな尖った歯を見せて、地響きのするような声で笑うと、百香を十分に怖がらせたあと、真っ白の煙に巻かれて姿を消した。

 百香が何が起こったのかわからず呆然としていると、煙の中から小さな男の子が姿を現した。いや、よく見ると男の子ではない。

 お地蔵様だ!

「よくできました。いや、実に滑稽」

 お地蔵様はけらけらと笑っていた。そうして暫くの後、言葉を失っている百香を前に、お地蔵様はけらけらと笑い続けた。

(第十六話へつづく)↓

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?