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冥道(ハザマ)の世界:第十八話 狭間百香の世界

「狭間さん、悪いんだけど、このプレゼン資料データの数字の更新、急ぎでお願いできる?」

 いつも通りの部長の無茶ぶりだ。

 百香は手渡された分厚い資料を受け取ると、赤い修正文字が入っている箇所を確認してから、デスク上のカレンダーを確認した。現状の残務と、一時間あたりに対応可能な分量を素早く頭の中で計算し、部長確認後に必要な修正時間を見込みで計上して、プラス三十分を余分に見積もる。

「はい。月曜の午前中までであれば可能ですが、いつまでにご入用でしょうか?」

 百香に即答された部長は、ぱっとと明るい顔になった。

「来週月曜午後からの部長会議に必要な書類だからさ、早めにできるなら尚ありがたいな。休み前にやたらとお願いしてしまってすまないね。くれぐれも数字間違えないでね」

 そう言うと部長は、じゃお昼に出てくるねと、いなくなった。

 全てを丸投げしておいていい気なもんだ。と、心の中で毒づいた後すぐに、いやこれでお金もらっているんだから感謝しなきゃ。と、百香は即座に反省する。

「承知致しました」

 百香は立ち去っていく部長の背中に向かって声をかけ、渡された資料の上に付箋を貼り、その付箋に「急ぎ案件②」と記載して、「8/20 AM〆」と書いた。更に同じ付箋をもう一枚作り、デスクのパーテーションに貼ってあるTo do listの上から二番目に貼る。さらに携帯のスケジュールにも入力して、一時間前に通知するよう設定してから保存した。

 カレンダー画面の2035年8月20日の枠内に「部長会議資料」と表示された画面を確認すると、百香は携帯を伏せて作業に戻った。デスクのパーテーションに貼ってあるリストの下の方には、まだ八件の付箋が付いたままだ。

 そろそろ昼休みの時間だ。百香は伏せていた携帯の画面を再び見た。急ぎの仕事と朝から大事な会議でバタついていたので、メールが早朝から来ているのを横目で確認していたが、既読にはなっていない。

 昼から急ぎの仕事が二件になってしまった。
 しかも、かなりのボリューム……。

 百香はふうとため息をついた。一件減らしても、またすぐに次がやってくる。

 少し早めだけど、エレベーターが混む前にランチ買いに行くかな、どうせ指示責任者の部長もいないし。五分早めに戻って来ればいいや。

 百香は立ち上がり、エレベーターホールへ向かいながら、携帯画面に通知マークがついたままのメールアプリをようやく開いた。

《百香、元気でやってる? プレゼントお楽しみに。うちの旦那も会うの楽しみにしてる。昨日も夜勤、手術続きやで。まじでありえへん。でも、今日は絶対に間に合わす!》

《姉貴、今日。予定通り彼女連れて行く》

《モモちゃん、こっち終わったらすぐお店に行くから。今度はステージも楽しんでもらえると嬉しいな。先生の作った曲、ほんと凄いんだから!》

 それを見て、百香は温かい気持ちになってエレベーターの下りボタンを押した。待ち合わせ場所のリンクをクリックして内容を確認する。携帯画面には、カジュアルで居心地のよさそうな、和食ダイニングバーの写真が写っていた。

 百香はもうすぐ二十七歳になる。そのお祝いを兼ねての会を開いてくれるらしかった。誕生日には少し早いが、全員が集まれる日が今日しかないと、突然昨夜、お誘いが来ていた。

「まったく、こっちにだって予定があるんだから。もうちょっと早く知らせてよね」

 小さく愚痴を呟きながらも百香は微笑んだ。ここのところ仕事続きで、殆ど眠れていない。けれど毎日が充実していて、あっという間に過ぎていた。

 変わりのない毎日が、淡々と過ぎていくことが、幸せなのかもしれない。それがどんなに平凡でも。百香は変わりのない日常の大切さを、誕生日が来る度に思い出していた。

 エレベーターホールの両側にあるトイレから、慌ただしく人が出入りするようになってきた。ランチの前に用を足す。というのが典型的な日本のサラリーマンの日常だ。左側にある女子トイレから、甲高い声が聞こえる。

「え? 狭間さん結婚してるの? どう見てもバリキャリ派遣なのに」

 やっぱり、何年たっても女子トイレは情報の発信源のようだ。百香は、思わずくすっと笑い、笑顔のまま、ようやくやって来たエレベーターに乗り込んだ。幸いエレベーターにはまだ誰も乗っていない。

「そうなんだよね。バリキャリじゃないんだよね。どっちかっていうと、ゆるゆるなんだよな。今、海外で働くと単身赴任になっちゃうしな。やっぱり≪仕事より愛≫だよな。また別の道、考えないとなぁ」 

 百香は笑顔のまま、携帯をバッグにしまった。オフィスビルの広々とした一階ロビーには、早めにランチへ行こうとする人の流れができ始めている。商談しながらせわしなく通り過ぎて行く人たちの間をすり抜け、ビルの外へと出て百香は深呼吸をした。

 効き過ぎるエアコンに冷え切っていた身体が外気の暑さであっという間に熱を持ち始める。百香は、羽織っていた薄手のカーディガンを脱いで手に持つと、急ぎ足でコンビニへと向かった。

 百香は半年ほど前に留学先から戻ったばかりの新入社員だが、厳密には新卒でも正社員でもない。初めての就職は五年前だった。大学を卒業して二年働いた後、自分で貯めたお金で比較文化人類学を学びに留学し、その後、海外をバックパッカーとなり渡り歩き、帰国してすぐに通訳専門の派遣会社に登録した。

 そのためこの会社に派遣された時からほとんどの女性新卒社員よりも年齢は上だ。今の会社では会議通訳とプレゼン資料の翻訳の仕事をしている。月の手取りのお給料は、正社員の中堅OLより少し多いくらいらしい。ひとりで生活しても生活に困らないところを見ると低くはないようだ。
 だが、ボーナスがないのと時給制の為、夏休みや春休みの後などは、大学生時代に毎日アルバイトをしていた頃よりもお給料は少なかった。

 それでも百香にとっては、肩書や給料よりも、心の自由の方が大切だった。だが、この派遣先の会社は百香がもらっているお給料よりもはるかに大きな金額を派遣元の会社に支払っているはずなので、プロとしてそれ相応の仕事をしなければ、と百香は常に思っている。

 今や世界中で大学卒業者の失業率が上がっていて、大学を卒業したからといって仕事があるわけでなない時代になっていた。相変わらず女性の働く環境は、男性のそれよりも厳しかったが、仕事があるだけでもありがたいことなのかもしれない。おまけに派遣会社にいれは、派遣されている間は最新のアプリケーションの使い方を無料で学べるというメリットもあり、仕事に必要なスキルや資格も百香は殆ど無料で得ることができていた。

 派遣社員として働き出してすぐ、百香はあることに気が付いた。ママのように《正社員になりたいのに派遣で就職》という人と、《絶対に派遣でしか働きたくない》という二種類の人がいるということだ。
 政府の作った派遣法は、前者の人たちのことしか前提にされていなかったので、数年働いた派遣社員は無期雇用化するべきという考えのもとに作った法律のせいで、《正社員と同じだけの時間を働きたくない、残業はできない》という理由で派遣社員でしかいられない人は、数年ごとにやむを得ず会社を替えるしかなかった。

 自分で選択して派遣社員であることを希望する人が世の中にこれほど多いとは百香は想像していなかったのだが、そのほとんどが子供を抱えた人たちだった。

 意図したように正社員化が進まない理由がなぜなのか、政府はいつ気づくのだろう。自由を選択する人が増えていることにそろそろ国も気づくべきだ、なぜ働く人間の側に選択権を与えないのだろうか、そう百香は思っていて、自由な働き方を選ぶために会社を辞めざるを得ない側のひとりだった。

 百香は今いる会社以外にもボランティアを含め、通訳の仕事を三つ掛け持ちしている。そのため、派遣のお給料が少ないときはそちらで賄えていた。正社員になるとこういう自由な働き方はできなくなる。副業を禁止する企業が多すぎるのだ。株で儲けるのは良くて、副業は禁止という妙なルールを持つ会社が殆どで、百香には理解不能だった。

 このままいけば今の会社も長くても一年半後に退職することになるので、百香はもう次の会社を探し始めている。慣れて来たころに退職される企業の方は、たまったもんではないだろう。
 会社を移る度、時給は上がった。いや、複数の派遣会社に登録している為、新たなスキルを無料で身につける度に、交渉して上げさせたと言った方が正確だ。

 かつて労働人口が減り続けた日本では、単身者と核家族が増え続け、人口が減り続けるのにも関わらず世帯数が増え続けた。少人数世帯のための部屋が山のように作られ、都心への人口流入は止まらなかった。郊外に住んでいた人たちも、結局歳をとってからは通院に便利な都心に再び戻って来た。

 車が無ければ生活できないようなエリアからは人はいなくなり、学校は消え、子供がいる家庭も都心へ引越すしかなくなった。人が消えたエリアでは公共交通機関は無くなり、病院も消え、郊外に暮らすことのできる人は通院不要な健康な人だけになった。都心の人口は病気を抱えた高齢者がその半数を占めている。

 けれどそれから数年で、今度は世帯数自体が減り始めた。今度は都心が空き家だらけになると、その部屋には外国人が次々と移り住み始めるようになった。外国人人口の割合は、総人口の一割を超える勢いだ。あと数年で、日本人の人口は一億人を切るだろうと言われている。

 仕事さえ選ばなければ、楽な稼ぎ方は山ほどあった。かつてブラック企業、3K(きつい、汚い、危険)職場と呼ばれた企業で働くような若い労働者はいなくなった。企業は人を取り合い、人が来ない企業は潰れていった。人がいなければ会社は回らないというあたり前の事実に気づくのが遅かったようだ。

 大企業と呼ばれた企業も、次々に大きな建物から撤収し、小さなフロアへと移っている。地方に移っていた企業も、都心に戻り始め、従業員の大半を海外から来た優秀で裕福な家柄出身の外国人で賄っている。
 日本人であれば、優先的に雇用される時代だったが、それでも結局、給料と福利厚生が充実した大企業、交通の便利な場所にある企業を選ぶという流れは変わっていない。
 
 自分のやりたいことをするという若者が増えてきたことは、喜ばしいことなのだけれど、優秀な海外からの働き手との競争に負けた就職希望の学生達は、行き場を失い何年も「夢の」仕事を探し続けていた。
 それでも過酷な環境で働く人々もいた。そのほとんどが、高額給料と自由な時間を求めての事だった。
 海外労働力を「安く」使える時代も終わりを迎えようとしている。

 百香は周りに流されず、自分の頭で考え、自分がやりたいことだけを選択して生きていた。あのハザマの世界を出た日から、自分自身の決断に一切迷いなく生きるようになっている。

 いつまでもこんな生活が続くわけはないのだが、百香はまた違う世界で働きたいと秘かに思って活動を続けていて、そのうちの海外の一社から、昨日インタビューの日程を打診されていた。これまでなら両手をあげて喜べたのだが、今はひとつだけ問題があった。

 オフィス街にあるコンビニの店内は既に混雑し始めていてレジ は大行列だ。それを見て百香は中に入るのを諦めて、近くのカフェに入った。こちらも混雑しているが、まだ席はありそうだ。店内には日本人らしきお客さんと、そうでないお客さんが半々だった。

 店内で働いているスタッフは、店長らしき男性以外は全て日本人ではなさそうだった。おじいちゃんが暮らす介護施設でも今やスタッフのほとんどが外国人だ。日本の公用語はそのうち英語になるんじゃないのかと思ってしまうほどだ。最近では施設に訪問に行く度におじいちゃんが英語で話しかけてくるので、百香はそれを聞くのが楽しみになっている。

 少し待って窓際の席に案内され、ランチのセットをオーダーして待っていると、百香の目の前に白いふわふわした物体が窓の外を漂うのが見えた。

 「あ!」 

 小さく声をあげ、また今年も来てくれたんだと、百香はふふとほほ笑む。

 毎年お盆の季節が来るたびに、というより、誕生日が近づくたびに、あのハザマの世界のことを百香は思い出さずにはいられなかった。
 暫くは、コンビニのドアが開く音を聞く度に不思議な世界のドアがまた開く気がして怖かった。あれは実世界だったのか、頭の中の世界だったのか。あの世界に落ちた翌日には、百香は、あの世界で今と同じ年齢になっていた。

 あの時は何もしないまま抜け落ちた自分の未来を悔やんでいたが、今はあの頃の自分に「アンタは二十七歳時点までは、まあまあよくやってたよ」と言ってあげたいと、あの世界で二十七歳だった自分を思った。

 あの世界へと落ちるまで、百香は自分は可愛そうな人間だと思っていた。そんな百香にハザマの世界で主様と呼ばれていた家の主は、自分が人も自分も愛せない汚れた心の人間だと認識させただけではなかった。

 百香の世界で最も正しい人物と信じて疑わず頼りきっていた自分の母親が、誰かから嫌われていたり、褒められたものではない人間だとうことを教えられ、百香は計り知れないほどの衝撃を受けたのだ。

 ハザマの世界にいた最期のあの日、八十歳を過ぎていた百香は、半分開いたドアから飛び降りた。目覚めたときには小学生の百香に戻っていて、病院のベットの上にいた。あの屋敷で最初に想像した、「これは夢だ」という考えは、やはり現実になった。

 だが、あれは本当に夢だったのか。いや、つい二年ほど前、あれは夢ではなかったのだという確信を百香は得ていた。そのことを口に出すのは、恐らく百香がこの世界を去る時だろう。

 ハザマの世界で主様から言われた言葉は、百香の心の奥に幾つもの小さなガラスの破片となって、目が覚めてからも突き刺さり続けていた。反論する気持ちと、確かに自分はそうだという気持ちで頭は混乱していた。
 やり直すチャンスをもらえたのだろうか。あと何年あるのだろう。という何とも息苦しい気持ちの中で目覚めたのだ。


 もとの世界に戻った時、格子の木目天井ではなく、白い天井が、百香の目に最初に映った。
 
 ピッピッという音が一定間隔で鳴っていて、学校の保健室のような消毒薬の匂いがしていた。誰かが「先生!」と叫ぶ大きな声が左側から聞こえた後、バタバタという音と共に周りに人の顔が集まって来たのを百香は覚えている。

「よかったね。もう大丈夫だ。ここがどこかわかるかな?」

 白い服を着て黒い眼鏡をかけた人が百香に話しかけていた。その後ろにはピンク色の服を着た人が見える。「先生」と呼ばれたその人は、百香の目に何か強い光を当ててから、今度は百香の胸に聴診器を当てた。

 ……びょういん?

 声を出そうとしたが、百香は喉の奥に何か強い痛みを感じ、上手く話せなかった。

「お名前言えるかな?」

「……モモカ……ハザマ、モモカ」

 百香が何とか擦れた声を絞り出すと、お医者さんらしき人は、ピンクの服の人に何かを指示してから、「お母さん、すぐに来るからね」といって部屋を出て行った。

「よかったね。がんばったね」

 柔らかい笑顔のピンクの服のお姉さんは、百香にとても優しく話しかけた。ベッド横に吊るされた透明の袋を確認すると、また来るね。と言って、白い服のお医者さんらしき人とおなじように外に出て行った。

 百香がベッドの上で首をゆっくりと右に回すと、そこに少しだけ開かれたアルミサッシの窓が見えた。窓には二本の横の棒がつけてある。その向こうに青い空と、ソフトクリームのような雲が見える。窓に付けられた横棒と、少し開いた窓のせいで、窓の外の世界がいくつかのピースに分かれているように見えていた。

 窓のピースをひとつずつ目で追いながら、百香が最後に右下の窓を見ると、そこに出っ張ったグレーの柱のコンクリートの外壁を背景にして、ふわふわと白いものが漂っていた。タンポポの綿毛みたいだが、それより少し大きい。

 なんだろう…。

 そう思いながら百香が更に顔を右に向けて、そのものをよく見ようとしていると、ふわあっと風が吹いて、クリーム色のカーテンが大きく膨らんだ。風が止み、カーテンが元の大きさに戻ると、今度はベットの前、百香の足元辺りにさっきのふわふわの物体が浮いていた。

 もう少しこっちに来て。

 心で念じると、そのふわふわは、ふわっと漂いながら百香の鼻さきまでやって来た。それをつかもうとして百香は腕を大きく伸ばそうとしたが、手に長いチューブが繋がっていて、それに繋がっている器具が動いてカラカラと音を立てた。すると途端に、そのふわふわは天井までふわりと登っていった。
 また大きくカーテンが揺れ大きく膨らむ。風が止んだと思った時には、白いふわふわは、どこかに消えていた。

 タンポポの綿毛かな。それにしちゃ、ずいぶん大きかった。

 もう一度天井に向き直り、百香はハザマの世界のことを思い返した。鮮明な夢だった。最後に水色のドアが斜めに開いたところから飛び降りたところまではっきりと覚えている。

 足が折れているかもと思って百香は足先を動かしてみたが、問題なさそうだ。ハザマの世界に入った時、最初に思っていた通りに、やはり眠っていたのだと思うしかなかった。

 それとも、あのおばあさんが言う通り、全ては思ったように変化するのかもしれないと、百香はぼんやりした頭で考えていた。
 両手を胸の上で動かしてみると、指は動く。しわもシミも無い手だった。

「百香!」

 喜びとも悲しみとも取れないような声をあげながら、誰かが部屋に飛び込んで来た。

「ああ、よかった…。大丈夫? 痛いところない?」
 
 顔を覗き込まれると、ママだとすぐに判ったが、百香は上手く声が出せない。

「おつぼねさま……」

 百香はそう言うのが精一杯だった。涙が止まらず、しゃくりあげてしまって声が出ないのだ。

「え? 何ていったの? 百香、ママのことわかる?」

 ママが胸に手を当てて心配そうに百香を見つめている。

「ママ……生きててくれて……ありがとう……ごめんなさい」

 大きく何度も頷きながら、それだけ言ったところで、百香はママにしっかりと抱きしめられた。

「何変なこと言ってるの、この子は! それはママのセリフだよ」

 ママは涙声になっていた。抱き寄せられているので百香からは顔が見えないが、ママは肩を揺らして泣いているようだった。

「ママ……タカシは?」

 百香が恐る恐る聞いてみると、涙をぬぐいながらママは答えた。

「今ね、おじいちゃんのところにいるよ。お姉ちゃんが大変だからってよくわかっていて、とってもおりこうさんにしているみたい。車にぶつかりかけて、運転手のおじいさんにずいぶん叱られたから、自転車には当分乗らないと思うわ」

 お屋敷の前で倒れた後、呼吸と意識のない状態のまま救急車に乗せられた百香は、その後三日間眠っていたようだった。救急車内での処置をしたのち呼吸は戻っていたものの、脳の検査でも異常が確認できないのにずいぶん長い間目覚めないことを先生は不思議がっていたらしい。
 
 それからさらに四日間、念のための検査と安静が必要ということで、病院に留め置かれた。実際には、お盆で事務手続きが簡単にできないので、あともう少しいてもらえると検査も混んでいない時期にできて助かるというようなことらしかった。

 ママは、こんなに長くタカシを預けたことが無かったので心配していて、タカシを迎えに行ったり、家をかたづけたり色々することがあるので助かると、先生の提案を喜んで受けていた。

 先生からあまり動きまわったりしないようにと百香は言われていたのだが、身体が全く何ともないので、検査と検査の合間に、あれから一度も出会えない白いふわふわを病院中歩いて探したり、夏休みの子供向けテレビを見たりしながら過ごしていた。

「携帯は無事だったんだけれど、自転車は買い替えなきゃね。後輪がすっかりひしゃげていたのよ。よほど強い力で倒れたのね。何に引っ掛けたのか、リュックが大きく破れていて、レインコートもなくなっていたわ。多分あの強風で飛ばされたんだろうね」

 ママがそう話した時、百香はあの不思議な世界のことを口にしかけたが、主様との約束を思い出し、怖くなって思いとどまった。

「まさか病院でお誕生日迎えることになるとは思わなかったわね。塾の受験クラスの振込もできなくなっちゃたけど、申込期限過ぎていても受け付けてくれるかしら……」

 ベッドの右横の棚に乗った小さなテレビを見ながら、そう小声で呟いたママが、なんとなくホッとしているように百香の目には見えた。
 窓の外の大きな木ではツクツクボウシがのんびりと優しく歌っていた。

 目を覚ました時に最初に見た白い服に黒い眼鏡のおじさんは、百香の主治医だった。名前を大槻先生といった。ベッドの頭のパネルのところに《大槻博Dr.》と手書きマジックで書かれていた。大槻先生は、たくさんの検査をした後、ママに伝えた。

「経過は良好です。特に問題もないようですから、明日退院していただいて結構です。ただ、頭を強く打っていますし、大事を取って今年の夏は無理をせずおうちでのんびりと過ごしてください。また二週間後くらいに念のため状態を確認したいので予約を取りましょう。何か異変があればすぐにご連絡ください」

 ホッとした顔のママを見て、百香もようやく自然に笑顔になれた。その時はじめて、百香は、先生から自分の心臓が長いこと動いていなかったことを聞かされた。

 ママが聞いた話によると、郵便局の横で竜巻のような突風が吹き、百香は自転車ごと宙に浮くように風にあおられて倒れ、お屋敷の塀に頭をぶつけ、道の真ん中に身体を投げ出してずぶ濡れになったまま、うつ伏せで動かなくなっていたらしい。動かない百香を見て郵便局にいた人たちが慌てて救急車を呼んだということだった。

 木の塀には大きな亀裂がはいっていたが、あのお屋敷は、すぐに取り壊すことが決まっていたので特に弁償もしないで済むらしかった。コンクリートの壁だったら大変なことになっていたかもしれないとママは言っていた。

 百香が倒れていた時、タカシも同じタイミングで突風にあおられて、横断歩道の脇の道から道の真ん中に飛び出して車にぶつかりそうになっていた。タカシに気をとられていたママは、歩行者優先のはずなのに、長々とこっぴどく叱り続けるおじいちゃん運転手と、激しい雨が降る中で怒鳴りあうような喧嘩をしていたので、大きな救急車のサイレン音がして、お屋敷の前の玄関横に止められていた救急車に乗せられている百香を見るまで百香のことに気づかなかったということだった。ママは百香がてっきり郵便局の中にいると思っていたと、ごめんねごめんねと、何度も謝った。

 もうすぐ退院という時になって、ピンクの服の看護師さんがママを呼びに来て、明日の退院の手続きということで、病院の一階で百香のママといろいろな話をしていた。百香が手持無沙汰で入退院受付の前の椅子に腰かけ、足をブランブランしながら待っていた時だった。

「百香!」

「モモちゃん!」

 聞き覚えのある声が、時間外入り口の方から聞こえて来た。

 あやちゃんと美加ちゃんだ!

 百香は思わず駆け寄った。

「百香、あんた、大丈夫なん? 入院してるって美加ちゃんから聞いてさ、マジビビったわ」

 あやちゃんが心配そうに百香を上から下まで見ている。美加ちゃんは、《ABCブック》というカラフルな英語のアルファベット絵本を百香に手渡しながら、珍しく興奮気味に話し始めた。

「モモちゃんの携帯電話に何度電話してもつながらなくて、やっとつながったと思ったら、モモちゃんのお母さんが電話に出てね、入院してるって教えてもらって、驚いちゃって。あやちゃん誘って来ちゃった。入院中することなかったらつまらないかと思ってこれ持って来た。モモちゃん、英語すごく勉強したそうだったから」

 本には大きなピンクのリボンが結んであり小さなカードが添えられている。

「お誕生日って聞いたから。カードのイラストはあやちゃん作よ」

「あたしは、百香には食べ物やろって思ってんけど。きっと一瞬でなくなるから、本もいいかって美加ちゃんと相談してん。マジで元気そうでよかったわぁ」

 美加ちゃんは俯きがちにあやちゃんの方を見ている。あやちゃんは、百香の好きなあんぱんとプチシューの入った紙袋を見せながら笑った。

「もう全然平気だよ」

 百香が膝をあげてかけっこするポーズをふたりに見せる。

「心配かけてごめんね。明日には退院だから。お見舞いありがとう」

 看護師さんとの話が終わったママが、百香たちに気が付いて近寄って来た。

「あら、お友達? わざわざ来てくれたの?」

「うん! 塾の友達。こっちが同じ算数クラスのあやちゃんで、こっちが英検クラスの美加ちゃん。お見舞いにこれもらったよ。お誕生日にって本までもらっちゃった」

「昨日、電話を掛けたのが私です。夜分に大変失礼しました。病室にお邪魔しようかと思っていたんですが、ここで元気そうなモモちゃんに会えて安心しました」

 美加ちゃんが、ママと大人の挨拶をした。ふたりを笑顔で見ていたママが、急に思い出したようにあやちゃんに話しかけた

「あら、あなた、夏期講習のパンフレットの?」

 暫く無言の数秒が過ぎた後、あやちゃんは、ひきつった笑顔で答えた。

「あ、はい。へへ……」


 退院の日は、朝からあわただしかった。お盆休みも過ぎ、病院が先週からすっかり通常業務に戻っているせいで、一階の初診窓口も再診窓口もとても混雑していた。

 誕生日プレゼントの本をぎゅっと胸に抱え、看護師さんとママの後ろを歩きながら、百香は、あの世界は本当に夢だったのだろうか、この中の人たちが、もしかしたら、あの世界の《生と死の間》にいたかもしれないなどとまだ考えていた。ハザマのお屋敷を離れる前、主様は、こう言っていた。

「君が友人と思っている人は、君にとって利用価値のある人か、一緒にいて楽しい人のどちらか」だと。

 確かにそうだった。

「じゃあ、彼らにとって、君は利用価値があったかい? 君は彼らを楽しませたかい?」

 どちらの答えも「いいえ」だ。

 なのに、あのふたりは、あんなに心配そうな顔でここに来てくれた。心を閉ざし切った百香が自分から距離を置いたのに。ふたりが持ってきてくれたのは、お菓子や本だけじゃなかった。百香が今、一番ほしかったものだ。目には見えないものだった。

 病院の正面玄関のところまで来て、お世話になりましたと、病棟の看護師さんたちに百香がママと一緒に挨拶していると、遠くから、

「ヒロくん!」

 という大きな声が聞こえてきて、百香は一瞬どきりとした。

 ママは看護師さんたちとまだ話をしていた。声のした方を見ようと振り返ると、病院の前にあるマンション駐車場の入口に赤い派手な背の低い車が停まっていて、その前に男の人が立っていた。私服を着ているので暫くわからなかったが、よく見ると、それは百香の主治医、大槻先生だった。真っ赤な薔薇の花束を抱えている。運転席から女性が出てきて大槻先生に抱きついたのが見えたところで、玄関前にタクシーがするするっとやって来た。

「百香、さ、行きましょ」

 ママに呼びかけられた百香が前に向き直ると、看護師さんが眉間にしわを寄せて立って前方の大槻先生を見ているのが百香には分かった。

 ママに背中を押されながら、タクシーに乗り込んだ百香は、運転席の真後ろの席まで後部座席を右へと移動し、後ろのドアの窓から赤い車の女性の顔をもう一度見た。

 間違いなかった。それは、《ハザマの間》にいた女の人だった。

(最終話、第十九話へ続く)↓


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