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冥道(ハザマ)の世界:第九話 二度目の坂道

 ゆるやかな細い坂を上り、広い道と交わるところまで自転車が近づくと、オレンジ色の曲がった棒に乗る大きなミラーが見えた。ミラーに映った自転車に乗る人物は、車が来ていないことを確認してから広い道へと出ようとしている。

「こんにちは、やさしい妖怪さん」

 自分の姿を見ながら自転車にまたがったまま立ち止まり、百香はミラーに挨拶した。ミラーに映る自分の表情は、前のような笑顔ではない。自転車を降り、百香は前かごのリュックから、携帯を取り出して時間を見た。携帯の画面は午後三時二十分を表示している。

「スマホなんて、もう要らない。これで充分」

 リュックに携帯を戻し、百香は再び自転車にまたがりぐっとペダルに力を入れた。小刻みに左右に揺れながら自転車はさらにきつくなった坂を上りだす。

 『てっぺんまで自転車で上がってやるんだから』
 百香はそう心で呟き、立ちこぎで坂道を上った。

 力を入れて自転車をこぎながら、百香は郵便局でママにどう話を切り出すべきかと考えていた。人が大勢いる所でなら、ママは周りを気にして、金切り声で叫んだりしないはずだ。夢中になって頭の中でママを説得するための文章を考えていると、ふと微かにいい香りが漂った。

 ああ、思いだした! 白い花。これ、クチナシの香りだ!

 おじいちゃんの家の植木に咲いていた花と同じ香りがする。とてもいい香りなので、おじいちゃんに花の名前を教えてもらった……。

「クチナシ? お口がない花? お花に口があるの?」

 問う百香の頭を撫でながら、あの時、おじいちゃんは笑っていた。

「そうだねぇ、花じゃなくて実の方にね。なかなか割れなくて口が開かないんだよ。お口が無いみたいにね。だからクチナシ。お口をしっかり閉じて、秘密を守るんだ」

「妖怪クチナシ! 秘密を守る、いい妖怪さん」

 あの頃、百香は、口の無い実を頭に思い描いて、お絵かきしながら、糸のようになった目でおじいちゃんと一緒に笑っていた。

 どうしてこの前は思い出せなかったんだろう。夏前に咲く花なのに、まだ咲いているんだな……。

 そう思いながら、百香は両足に力を込めようとサドルから腰を上げ、中腰になって立ったまま自転車をこぎ続けた。坂をふらつきながらも上っていくと、この前と同じようにピアノの音が聞こえて来た。この曲だけをずっと練習していたのか、ピアノの音色は前の時とは全く違って、流れるように感情のこもった強弱のある音だった。

 えっと、えっと……。

 曲名がもう少しで思い出せそうな気がしたとき、百香は坂のてっぺんにたどり着いた。一度も歩かずに上まで自転車で登りきれたと、百香はすがすがしい気持ちで、下り坂を見下ろした。

 《愛のあいさつ》だ!

 頭の中で突然曲名がひらめいた。子守歌代わりにママがタカシに聞かせていたあのオルゴールは、ママと結婚する前にパパが買ってくれたものだと、ママが嬉しそうに言っていた時のことが隅々まではっきり蘇って来た。

「百香が赤ちゃんの時にもずっと鳴らしていたのよ」

 そう言いながらゼンマイのねじを巻き、ママは笑っていた。四角い箱型のオルゴールの底面にはシールが貼ってあって、《曲名:愛の挨拶》と書いてあったのだ。難しい漢字が読めなくて、ママに教えてもらった時のママの嬉しそうな顔が、百香の頭の中、遥かに遠い記憶の中で浮かんだ。

 ピアノの音が聞こえなくなった、と同時に辺りが急に薄暗くなってきて、頭上から小さな雨粒がポツリと落ちてきた。

 雨だ! 早く行かないと土砂降りになりそう……。

 百香は大急ぎで坂を下り、郵便局へと向かった。そこから郵便局まではすぐの距離で、そこはかなり小さな郵便局だ。外のポストに年賀状を入れに来たことは何度かあったが、建物内に入るのは百香には初めてのことだった。
 
 郵便局の中は人が五人も入れば動けなくなるような狭さだ。お金を引き出す機械は外側の小部屋にひとつしかついていない。中は人でいっぱいだった。
 入ってすぐの窓口だけが人がいなかったので、百香は恐る恐る近づいて、カウンターの中にいる制服を着た人物に尋ねた。その人は忙しそうに何かを計算しているよ様子だ。

「あの……フリコミの窓口はどこですか」

「機械でもできますよ。口座か指定の振込用紙はお持ちですか?」

 カウンターの中にいた人は、顔をあげると優しい笑顔で百香に尋ねた。

「……分からないけど、コウザは無いと思う。親が後で来ます……」

「それでは、向こう側の一番の窓口ですので、ボタンを押して番号札を取ってお待ちください。現在少し混んでいますので、二十分ほどお待ちいただくかもしれません。指定の振込用紙をお持ちであれば、お口座が無くても機械から現金でもお振込みできますが、無ければ現金での送金はできませんので、その場合は窓口でお願いします」

 その人は百香に対してとても事務的に答えていたが、大人でも子供でも同じ対応をしているような気がして、百香は少しも嫌な感じがしなかった。

 その人に言われた通りに百香が一番窓口の前にある機械のボタンを押すと小さな紙が出てきた。番号を見ると《38》と数字が書かれている。ママが話していた、番号札とはきっとこれのことだと百香は思った。
 窓口には電光掲示板がついていて、そこには《33》と表示がされていた。壁掛け時計が示す時刻は三時半を少し過ぎている。

 ママが来なければいいな。そうしたら家に帰ってママに全部打ち明けよう。成績がこれ以上伸びないだろうことも。希望の私立の合格可能性はD判定ばかり続いていることも。本当はやっぱり公立高校に行きたいことも。
 その本当の理由が何故なのかも。今度こそきっと言わなくちゃ。

 ……これは不要だ。

 百香は手のひらで、番号札をぎゅっと握りしめて潰した。

 まだまだ順番が来そうにないうえに、なぜだかおばあさんたちが多くて座るところもない。百香は一旦外に出て、外からも電光掲示板が見えることを確認した。ママを説得するのだから、外で待つ方が良さそうだと思ったのだ。降りかけた雨はあれから降らずになんとか持ちこたえているが、空は一面にグレーの雲で覆われていて、少しずつ濃い黒い色の雲が近づいて来ているのが遠くに見えていた。

 外に出て、百香はコンクリートの階段を三段ほど下り、郵便局の入り口の横の通路に立った。ほんの少しだけ屋根のひさしがついているので雨が降ってきても濡れない位置だ。真正面に小さな駐車場があり、その全てが車で埋まっていた。その向こうに見える道路には左から右、右から左へと、頻繁に車が行き来しているのが見えている。

 駐車場の左端に向こう側の歩道と繋がる横断歩道が見える。信号で車が途切れると、真正面には小さな商店とタバコ屋さんが並んでいるのが良く見えた。タバコ屋さんの横の脇道は、往来の激しい道路を挟んで郵便局の右側にある細い道へと繋がっているが、そこには横断歩道はなかった。

 少し高い位置にある郵便局の入り口を背にして立つと、正面に駐車場、左側手前に駐車場の出入り口、建物右側には自転車置き場があり、自転車置き場と細い道を隔てて、黒い塀のある大きなお屋敷があった。

 お屋敷の大きさは、郵便局とその駐車場を合わせたよりもはるかに大きい。お屋敷の郵便局に面したところには大きな玄関扉があって、少し離れて郵便局の駐車場の前に水色の玄関がある。その水色の玄関扉のちょうど対角線上、タバコ屋さんの前に並んだ自動販売機の横の角には、小さなお地蔵様がこちらの方に向いて立っている。

 あの信号機、一体いつできたんだろうと、百香がこの前と同じことをまた考えていると、ピンポン。と軽快な音がして、振込窓口の掲示板の数字がひとつ進んで《34》になった。杖をついたおじいさんと付き添いらしい年配の女の人が窓口に進んでいくのが見える。

 あと四人か。ママが時間に間に合ったら厄介だな。

 百香はそう思いながらも、その時はその時で、『番号札が何のことか分からなかったから外にいた』と説明するつもりだった。
 先週から気になっていた窓口が何なのか確認もできたし、後は、ママを引き留める方法だけだ。順番まで少し時間がありそうなので、タバコ屋さんのところに見えている自動販売機のジュースを買いに行こうと思い、百香はさっき自転車を止めた駐輪場へ向かった。すぐそこで歩けない距離ではないのだが、雨が急に降った時には一秒でも早く戻って来たいと考えていた。

 自転車置き場にまわって自転車に乗り、お屋敷の塀沿いに進んで、そのまま広い道を横切ろうとしたのだが、車の列がなかなか途切れない。

 仕方ない横断歩道を渡るか。

 百香は諦めて自転車を降り、左折して狭い歩道を歩き始めた。その時、道の反対側にあるお地蔵様とまた目が合った、気がした。

 いやいや、そんなわけないからさ。

 百香は自分に言い聞かせ横断歩道まで歩き、信号が変わってから反対側に渡り、今度は歩道を右折して自動販売機の前まで歩くと、押していた自転車を停め、オレンジジュースを一本買った。
 坂道を上ったり下ったりして自転車で走り、緊張したまま郵便局で大人に話しかけたせいか喉がカラカラだった。渇いた喉に冷たく染み渡るオレンジジュースは最高においしくて、百香はあっという間にそれを飲み干した。

 ふと下を見ると、お地蔵様の前にはお菓子やらジュースなどが置いてあることに百香は気づいた。お花も供えたばかりなのか新しい。ポケットの小銭を確認してから、百香はキャンディをひとつ、お地蔵様の前に置いた。
 タカシがぐずった時用にと、ポケットに入れていたものだ。

「ごめんなさい。あなたにジュース買ってあげるだけのお金がなくて。これだけしかないんだけど」

 そう言葉にしながら、百香は飲み干したジュースの空き缶を自動販売機の隣にあったゴミ箱に入れてから、何げなく手を合わせた。それから再び自転車を押し、来た道の方に向きなおった。新しくできた信号は、なかなか変わろうとしない。

 こんなことなら、自転車置いて来ればよかったな。

 番号が何番まで進んだか百香は気になり始めていたが、番号がきて呼ばれていても、そこにいなければ、きっと今日はもうフリコミはできないはずだ。ママと一緒に行くと、ぐずってくれたタカシに百香は感謝していた。

 どうかママが、窓口が閉まる時間までに間に合いませんように。

 そう願いながら、ママがやって来るであろう方向に振り返った百香の視線が、再びお地蔵様の視線と重なった。

 勉強のし過ぎかな。疲れてるのかな……。そんな訳ないんだからさ。

 向き直ると信号が青に変わり、百香は反対の歩道側へ渡った。歩道に沿って左へ進み、駐車場の角で右折して、お屋敷の派手な水色の玄関前を通り過ぎたところで再び自転車にまたがった。自転車を走らせるとすぐ、古い木造の屋根付き玄関の塀に白木の表札があるのが百香の視界に入った。

 ああそうだ、ここはハザマさんだった。

 左側の表札を横目でちらりと見てから、自転車置き場に自転車を止めようと、百香が自転車を降りかけた時だった。

「おねえちゃーん!」

 明るい声が遠くから聞こえてきた。ついさっきまで百香が立ってジュースを飲んでいたタバコ屋さんの前の自動販売機から少し離れた先に、小さな蛇行運転する自転車と、その少し後ろ側にママが見えた。ふたりは真っ直ぐに郵便局の方向へと向かって来ていた。左右に行き交う車が一瞬度切れると、広い道の向こう側に、レインコートを着たタカシが、嬉しそうに片手運転でふらふらしながら手を振っているのが、はっきりと見えた。

 危なっかしいなぁ。

 百香が再び自転車の向きを変え、タカシがやって来る方向へ自転車をこぎだそうとした時、百香の頬に大きな雨粒がバチンと当たった。
 小石を投げつけられたのかと思う程の痛みを頬に感じた百香は、一瞬たじろいだ。

 強烈な厚みのある突風が、ごぅわと、百香の左側から吹きつけ、お屋敷の塀の中にある大きな木がぐわんと大きく揺れる。突然の風に自転車ごと身体が持っていかれそうになるのを、百香は右足のつま先立ちで踏ん張ろうとした。が運悪く、お屋敷の玄関前は道路の水はけの為に側溝側に傾いていて、地面がかなり斜めになっていた。

 え、つま先が……届かない?

 自転車を立て直そうとして、百香は反射的に足をペダルに戻したが、既にかなり右に傾いていた自転車は、強い風の力でなす術もなく右側に倒れていった。力の持って行き場を無くした百香の身体は、お屋敷の屋根付き玄関に繋がる黒い塀に向かって、ゆっくりと倒れていく。世界が四十五度に傾いて見える。道の向こう側ではタカシが引きつった顔で自分を見つめているのが百香には分かった。

 ふたりの視線が重なった瞬間、タカシが悲壮な表情のまま大きな口を開け、ひときわ高い金切り声をあげた。

「おねえちゃん!!」

 横断歩道に向かってタカシが突っ込んでくる。

 正確には、タカシは信号のある横断歩道ではなく、タバコ屋さん横の脇道から道路をそのまま横切ろうとしていた。そのすぐ横で、駐車場出入口から出て来た一台の車が、黄色信号の交差点に急いで入ろうと加速し、右折するのが百香の視界に入った。

 全てがスローモーションだ。声はするのだが、ママの顔も、ママがどこにいるのかも、百香にはよく見えなかった。
 遠くから、「タカシ! タカシィィ! タカシィィィィィ!」という甲高いママの叫び声だけが聞こえてくる。

 次の瞬間、タカシが車の陰に隠れた。ママがタカシを呼ぶ声だけが、百香の耳に何度も何度も響いていた。

 今この世界で百香のことを見ていたのは、きっと、タカシひとりだけだ。

 頭が塀に激突する……。

 そう思っても、百香には何故か自分の身体を支える気力も、足を地面につこうとする力も出てこなかった。押し付けられるような強い風のせいかもしれないし何か別の理由かもしれない。スローモーションの四十五度に傾いた景色の中で、身体を宙に投げ出した姿勢のまま、自分の心に頭が話しかけてきた。

 このまま倒れたら……どうなるんだろう?

 反応することを停止した百香の右耳の後ろ側から、ふいに生温かい風が当たり、擦れた声が小さく響いた。

「どうなると思う? クククッ……」

 しゃっくりみたいな気味の悪い笑い声が聞こえて、百香は背筋が凍り付くような感覚を覚えた。と同時に左側から強い力で地面に向かって何かが乗っかるような、逆らうことのできない重みを感じた。
 大きな雨粒が、左側から容赦なく百香に打ち付け始める。

 ゼツボウテキデジボウジキ、ゼツボウテキデジボウジキ……。

 繰り返す呪文のような、囁く低い声が遠くに聞こえた。全身を地面に打ち付けるという寸前、百香の右手はもがくように空を舞い、無意識に手を伸ばして必死で何かにつかまろうとした。

 もう駄目だという最期の瞬間、百香は何かが手に触れるのを感じた。

《ピンポーン、ピンポーン》

 聞き覚えのある大好きな音色だった。

 辛いことから逃れ、ひと時を過ごす時の、現実逃避の扉が開く音だ。

(第十話へつづく)↓


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