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ストロベリーフィールド : 第三十幕 パトラの遺言

ハンナと眠り続ける小さなレオは、ペガサスの背に乗って南の島のパトラの家まで運ばれた。

流石に全員を一度に運ぶことが出来ず、経験者ルークは二度の往復をすることになったのだが、レオの誕生会以降ずっとパトラの家の周りに張り込んで残っていた大勢の記者たちは、ペガサスに乗った経験者ルークが子供二人を連れてやって来たのを見つけると久々の「異変」に興奮状態となり、家の外で騒ぎ立て始めると、あっという間に人の輪が何重にも広がっていった。

そしてすぐさま一度は立ち去った経験者ルークがあっという間に再び戻って来て、今度はぐったりした様子のパトラを二階の窓から運び入れたのを見ると、何とかして中の様子を伺おうとする人たちでパトラの家の周りは騒然となった。どうやら明日の新聞の表紙になることは間違いなさそうな様子だ。

パトラとレオを並べてベッドに寝かせた後、ルークはハンナに振り向きさえせずに、悲しげな小さな声で囁いた。いつもの自信たっぷりの声のトーンとはまるで別人だった。

「……準備が整う前に、こんなことになるなんて……可哀そうに」

「あの、私……」

「ああ、ごめんよ。≪可哀そう≫、は違うな。それだと、僕まで可哀そうってことになるからね。改めて言うよ。おめでとう。ああ、それも違うな。
そんな時に、おめでとうなんて、僕はどうかしているよ。

……君は今日から《経験者》だ。それがパトラの最後の仕事だった……。
準備が整っていない君たちがどうなるか……。

何かあったら、僕を呼んで。少しは手助けができると思うから。
僕もパトラや先輩たちに色々教わったんだ。

あ、一応言っとくけど、教えて欲しい!助けて!って、自分から言わない限り、誰も助けてはくれないからね。
必要な時には、僕のことを強く願い、その指輪を空にかざすだけでいい。

それと、出来るだけ夜中は勘弁してよね。美容に悪いからさ」

「え?」

泣きはらしたような顔で、精いっぱいの笑顔を見せたルークは、そう言うと再びペガサスにまたがった。
そのペガサスの瞳からは、滝のような水が溢れ続けている。

「これ、パトラばあ様なら笑ってくれるんだけど」

「?」

「パトラばあ様を、宜しく……」
ルークは涙を堪え、今やれることを必死にやっている、そんな様子だ。

経験者ルークが何を言っているのかよく分からなかったハンナは、ルークに近寄り声を再びかけようとしたのだが、ルークはハンナに背を向けたままペガサスと共に窓から飛び立つと、あっという間に消え去って行った。

家の外では、飛び立ったペガサスに記者たちが再び大騒ぎする声が聞こえている。そして、それとは別に波のような怒号が遠くから聞こえて来ていた。

それはルークが立ち去った後、ほぼ入れ違いにパトラの家にやって来た人物への反応だった。その人物は、広い前庭のゲートをくぐるまでに記者たちの質問攻めに合いもみくちゃにされたようで、髪を振り乱し息が切れた状態で玄関のドアを開けて入って来た。

ハンナが二階から顔を覗かせると、そこには悲壮感漂う表情のハンナの母、ミチコの姿があった。

「ママ……!」

ハンナの母、ミチコは二階まで駆け上がると部屋に入るや否や、ものすごい力でハンナを抱き締めた。その温もりでようやく緊張が解けて安心したせいだろうか、ハンナの瞳からは大粒の涙が溢れ出た。

「ああ、良かった……。もう、戻ってこないかと……ここにいた精霊たちは、一体どこへ行ったの?」

「水晶……で、……見えた……のかい……?」

囁くような擦れたパトラの声がして、母ミチコは驚いた顔でベッドの方へと視線を送った。そこには、ふたりの人物、パトラとレオが横たわっていた。
パトラの隣の小さなレオは、横向きの丸まった姿勢で軽い寝息を立てて眠り続けている。

「パトラばあ様!……」

げっそりとやつれたパトラの顔を見て、それ以上の声を失ったミチコは、ハンナから手を離すと、ベッドへと駆け寄った。

ハンナは、パンパスグラスでのパトラと森の精霊の会話を思い出し、パトラがもうすぐこの世界から消えてしまうのかもしれないと思うと、不安でたまらなくなっていた。

「ミチコ、さっきは……すまなかったね……」

「いえ、今朝、話を聞いていたとおりに心の準備はしていたのですけれど。目の前であんな風に娘を奪われるとは思っていなくて。
……でも、パトラばあ様を信じてよかった」

「未来が……見える……ってのは……、時には……役に立つ……もんだ」

ハンナは、ふたりの会話がよく分からなかったが、ママがパトラばあ様を信じていることと、ハンナが危ない目に合うことも予測していたのだろうということだけは分かった。

ここへやって来たのも、きっと全てが分かっていたからだろう。

「ハンナ、こちらへ……」

「パトラばあ様……」

ハンナは、意識のあるパトラに安堵しながらも、心に言いようのない重さを感じていた。近寄るのが怖い、そう思いながらも、パトラへと近づいた。

「こんな……風に……、お前を……導いて、しまった……こと、を……許し……て、おく……れ」

その言葉に、ハンナの母、ミチコがはっとした表情で顔をあげた。

「パトラばあ様、もしかして?……」

「ああ……そうだよ、ミチコ。この……子、は……《経験者》として、……認め……られた。その、神秘の……力は、これ……から、この子が……自ら、高めて……いく……だろ……う」

「では、守り人は……? まさか……」

母のその問いに答えるように、ハンナは、泣きながらパトラの手を握りしめ尋ねた。

「レオ、だよね?、パトラばあ様。
わたし、さっき見たんだ。レオが不思議な生き物になっていた。もう一度、レオに戻る前、パトラばあ様、私の手をレオの指輪に当てたよね? 

レオが元に戻る時、ジャックがペガサスから戻ってた時と同じようだった。
でも、どうして? レオ、ひとつも石なんか持ってなかったのに……。

ねぇ、わたし、あんな精霊たちの仲間なんて、なりたくないよ!
《経験者》になんて、もうなりたくない!」

パトラの隣に眠るレオの指には、蔓のように指に絡まるようリングと、その中央に立派な赤い石だけが光っている。

パトラは、粗い呼吸をしながら目を閉じた。
ハンナの母は、焦った表情でパトラの反対側の手を取り、祈るように顔を沈めた。

「パトラばあ様、しっかりしてください。まさか……、妖術の力を手放したのですか?」

その呼びかけに、うっすらと目を開けたパトラは、遠く一点を見つめて答えた。部屋の天井のそのさらに上を見つめているようだった。

「ああ、ミチコ。私はね……許されない……こと、を……してきた……。自分の……運命……に、背を……向け、逃げ……続けた……その……結果、がこれだ。私の……力は全て……あの……ものに……」

パトラは言葉を詰まらせると、何度もむせるように咳き込んだ。
ハンナの母ミチコは急いで術を唱えながら、持って来た薬をパトラに与え、大きな声で呼びかけ続ける。

「逝ってはいけません! パトラばあ様!」

それからしばらくの間、パトラは、ミチコの懸命な力で数時間だけ命を長らえた。もしかすると、森の精霊が言っていた通り、ただ猶予期間を与えられただけかもしれなかった。

ハンナもミチコもできる限り側でパトラを見守った。ハンナにとってそれは短く、長い時間だった。
そうしてパトラが最後に残した言葉、遺言ともいえる言葉をハンナは信じられない気持ちで聞くことになった。

「いいかい……ハンナ、良く……お聞き。本当の《経験者》は、お前が……思う……ような……戦う英雄……なんか……じゃない。森の……精霊たちの……しもべ……だ。嫌だ……というのなら……、逆らって……も……構わない。
けれど……どんな時も、精霊たち……の領域……を……守る……こと、それだけは……忘れては……いけない。

そして……、どんなに……逆らい……たくとも……、どうやっても……その力……を……使いたい……という欲望……には……逆らえない……という事に……、いつか……きっと……お前は……気付く……ことになる。
それ……が……、選ばれ……た、者の……運命……だ。

そして……、その力を使う度……経験値が増える……度に……お前はますます……それを手放せなく……なるだろう。

だが、お前に……与えられた……、その力は……まだ、不完全……だ。
何故……なら……、お前は……最期の……課題を……乗り越える……その前……に、……その赤い石……を……手にして……しまった……からね。

これから先……、何が起こるか……は……私にも……判らない。それ以上に……、全ての……課題を……無視した……この……レオに……起こる……こと……は……、もっと……予測……できない……。

ミチコよ……、こんな……こと……に……なって……本当に……すま……な……い」

ハンナの母ミチコは、顔を上げ強いまなざしで、パトラの一言一言を聞いていた。
そして、首を横に振りながら、パトラの言葉に答えた。

「パトラばあ様、私と交わした約束をお忘れですか?
私たちを受け入れてくれただけで十分です。あの時、何が起こっても決してお互いに謝ったりしないと約束したではありませんか。
私にとっては、どんな結末も自らの決断で、自ら招いたもの、パトラばあ様のせいでは決してありません!」

「ああ……、そう……だった……ねぇ。……あの頃が……懐か……しい……ねぇ」

「ここで初めてお話をしたのが、昨日のことのようです」

パトラはうっすらと力ない笑顔を見せた。

「ハンナよ……」

「はい。パトラばあ様」

ハンナは、パトラがまるで魔法が解けたかのように見る間にやせ細っていく姿を見て、初めて《この世界から消えていく》とはどういうことかいう事を身近に感じはじめていた。

パトラの顔の皮膚が、頭蓋骨に沿ってぴったりとへこみ始める。その姿は、まだ子供のハンナにはとても恐ろしいものだった。

けれど、ハンナはパトラの手を握って離さなかった。

「百年前……の……戦い、の……お話……を、もっと詳しく……する、約束……だがね……、もう……果たせ……そうに……ない。お前の……母親に全て……話してあるから……ね、しっかり……教えてもらって……頭に入れて……おきなさい。

これから、の……、ことを思う……と……不憫で仕方ない……が、ミチコに……叱られるからね……、もう謝ったり……しないよ。

その代わり……、お礼を……言わせて……おくれ……、私の……ところに……来てくれて……本当に……嬉し……かった……。

お前に……出会わなければ……、私は……これからも……、ずっと……生きて……いられた……のかも……しれない……が、これ……で……良かった……のだ……。

これから……行く……世界が……、どんな……世界……でも……受け入れ……ら……れ……る……さ」

「パトラばあ様……」

パトラは、それきり言葉を発しなくなった。

発せなくなったという方が適切だ。けれどもその身体は動かないものの、心と意識はまだ懸命にもがき続け、動いていた。

そうしてパトラは、言葉ではなく、ハンナの心に話しかけ始めた。

が、すでにその霊力はほぼ失われていて、ハンナには、微かな声を聞き取れる力はまだ身についてはいなかった。

それでもパトラは、ハンナとその母ミチコに心で話しかけ続ける。
そのパトラの心への呼びかけに反応することができたのは、祈り続けるミチコだけだった。
それでもパトラは、消え入りそうな心の言葉を飛ばし続けた。無意識に。

「私はね、この国のため、精霊のため、そう言い訳をしながら、自分を納得させてきたんだ……けれど本当は、グリーングラスへの復讐をしたかった、それだけだった。

それを叶えるため、この身体を精霊たちに預けたんだ。
そうして長い年月をかけて、その時を持っていた。
けれど、その時を避けて来たともいえる。

私は自分の命と引き換えにと言いながら、結局誰よりも長生きすることを望んだだけだった。この国の、行く先を見たかっただけなのかもしれない。

ひとつだけ言っておく。

あの戦いは、私たちが間違いを起こしたことが原因だ。
あの国だけを責めることなどできないのだよ。
それが分かるまで、まさかこんなに時間がかかるとは、全くあいつらも意地悪なもんだよ。

あいつらは、私の望みをほとんど叶えてくれた。たったひとつを除いて。
それは、私が躊躇したからだ。

その代わりに、あいつらに私は守り人と経験者を送り続けた。時を伸ばしたかった。決断するには、何かが足りなかった。

子供達に夢を与え、残酷に奪ってきたこの身は、決して天から許されえることは無いだろう。
けれど、それこそが、これまでこの国を守っても来たのだ。

お前たちが、この国を守りたくないというのであれば、それでいい。けれど、覚えておきなさい。
お前たちに与えられたあいつら、精霊の力は、人々を救える力でもある。

そして、その小さな子、レオは、お前のための守り人でなどはない。あいつら精霊と、この国を守るもの、それこそが守り人だ。
そしてレオはまだ、龍になる前の、今は小さな蛟(みずち)だ。

ハンナよ、おまえも見ただろう。小さな龍を。
まだまだ龍とは程遠い。あれは蛟というものだ。

経験者は、少しだけこの子に先んじた者として、守り人を育てていくのが、その役目なのだ。

精霊に認められるものになるか、脅かすものになるか、今は私にも判らない。物事の良しあしも知らず、様々な感情もこれから覚えていく子だ。

精霊たちと遊ばせたことも、虫たちと遊ばせたことも無い子だ。そんな子に未だかつて、私は、いや、精霊たちは赤い石を与えたことは無かったのだ。

この子は、これから越えねばならぬことが沢山出てくるだろう。
グリーングラスの血を引く子を、村人が受け入れるかは疑わしい。

けれど、精霊たちは、受け入れたのだ。

それにはきっと意味があるはずだ。何かが、変わり始めているのだ。
いいかい、良くお聞き、精霊たちには悪意などない。

彼らは自分たちの領域を守りたがっているだけだ。我々と、同じように。
その為の、手助けをするのが、お前たちの役目。

彼らは、ただかつてのように、精霊と、そうでないものが共に暮らせることを望んでいるだけだ。
そうして、お前たちは、恐らく、この国にとって最後の経験者と守り人となる。そうならねばならない。

これからのことは、お前の心次第でいかようにも変わるだろう。

けれどハンナ、決して私のようになってはいけない。

お前の父親がパンパスグラスに埋めたものは……恐らくは、我々が生み出したものを改良した、もっと恐ろしいものだ。
いいかい、たとえ見つけても決してその蓋を開けてはいけない。

グリーングラスは、何年も前からそのありかを知ってはいる。
が、ここが精霊たちに守られている限り、見つけることは不可能だ。

精霊たちの言葉が事実であるならば、いつの日か、それは、あの国へ渡り、国の存続を脅かすものになるはずだ。我々が、自ら作ったもので灰にされていったように。

小さなこのレオはね、これは私の想像だが……あの箱を開けるためだけに、あの丘へと送られたのだ。それがグリーングラス軍からの隠された指示だとは夢にも思っていやしないよ。

いいかい、もう一度言う。
決して、この国の中で、それを開いてはいけない。

この子は、いつしか龍になる日が来るだろう。
それまで、しっかり導いてあげるんだ。
お前がそれを諦めた時、この子も、その力を失う。

ハンナよ、その力をどう使うか、その結果が、どうなろうと誰もお前を責めることなどできない。責められるとしたら、それは……。

ああ、今更、何を言ってもどうにもならない。
どうしてこんなことになってしまったのか。

いいかい、何かあった時は、ルークに教えを請いなさい。
あの子は、きっと助けてくれる。
それに、私が教えられることはもう無いのだから。

未熟なお前は、まだ完全なるしもべにはなってはいないはずだ。
それは、私には小さな希望でもある。

自らの心をコントロールしなさい。未だ見たことが無いその力がどんなものなのか、私もこの目で見てみたかった。

この命は、本来は数十年前に尽き果てていたはずの命だ。
これ以上村の子たちを犠牲にして、懺悔しながら生きることは、もう……」


その心の声は、遺言というよりは、懺悔そのものだった。

ただ一人、その声を聞き取れたミチコは、ただ、戸惑い、悲しみ以上の憐れみと、同時に憤りをも感じていた。

パトラは最後の力を振り絞り、ハンナの母の手を振りほどくと、眠るレオの頭を優しくなでた。

≪この世を継ぐ者よ……≫

その心で呟く言葉を最期に、パトラは静かに旅立った。

パトラの腕が微かな音を立てベッドの上に落ちる。

静寂が訪れた。

跪いていたミチコが静かに立ち上がる。
その頬には涙は無かった。ただ戸惑いと哀れみ、怒りさえ入り混じっているような表情だ。その眉間の皺は、しばらく消えることは無かった。

パトラの心の声が届かなかったハンナには、何が起こっているのかさえ分からなかった。
ただ、母の表情に違和感を覚えながら、そこに立ちすくんでいた。

今何か言葉を発すれば、パトラがいなくなってしまったことを確認することになってしまう。そう思いながら、ハンナは、険しい母の顔をただ見つめていた。

パトラが動かなくなって間もなく、小さなレオが目を覚ました。

「パトラ、どうして動かないの?……お休みしてるの?」

「たった今、遠いところに旅立たれのよ……」

ミチコは、取り乱すこともなく淡々と、パトラの衣類を整えている。

「ここにいるのに?」

「そうね。身体はね。でもね、これはね、入れ物なの。
パトラの中身はここにはもういないのよ……いえ、もっと前からいなかったのかもしれないわ……」

レオは不思議そうな顔をして、パトラを見つめている。指先でパトラの頬を頬にそっと触れると、お顔が変わったみたい、と小さく呟いた。

レオは涙を流してはいなかった。誰かを失って悲しいという感情は、その誰かとどれくらい長い時間を共に過ごしたかによって変わるのだ。

今目の前にいるレオは、おそらく無感情の状態だ。
パトラが消えたことに対する感情はほぼない様子で、不思議そうにパトラをただじっと見つめている。

ハンナは、そのレオの様子を見ながら、様々に入り乱れる感情と戦っていた。

この子が、私の≪守り人≫なの……?
何にもできないのに?
どうしてなの? なんで黙ってるの?
パトラ、なんとか言ってよ!

ハンナは、戸惑う心と膨れ上がる不安に押しつぶされそうになっていた。《経験者》になりたかったのは、単に周りが褒めたたえていたから、北の山に行けると思ったから、そんな理由だった。

必死に涙をこらえているハンナの様子を見ながら、母ミチコは、何故、このふたりが選ばれたのかと自身の心に問い続けていた。

ハンナはかつてはこの小さなレオと似ていた。
この村に来るまでは無感情で、無感動な子供だった。

それは、人から遠ざけられて生きてきたことが大きく関係していた。だからこそ、この小さなレオを育てるのには適任なのかもしれないと、ハンナの母ミチコは思い、と同時に、その運命を引き込んだかもしれない自分の過去の行いを激しく後悔していた。

≪ハンナは既に覚醒し始めているとパトラは言っていた。
ならば、私にはもう、何かをできる時間はほぼ残されてはいないはず≫

ミチコは、ハンナの傍らまで移動すると、立ち尽くしているハンナを抱きしめながら、優しく頭を撫でた。その特徴的な耳を見つめながら。

ハンナが他人に興味を持たなくなったのは、かつて村々を渡り歩いていた時に《気持ち悪い》と言われたことが始まりだった。
気持ち悪いと言われたその耳は、グリーングラスの者の証だった。

その軍事力で多くの国を屈服させてきたグリーングラスを嫌う人々は、皆その耳の形を、グリーングラスの象徴として嫌悪していただけだったのだが、幼いハンナにはそれが分からなかった。

人と関わることは、ハンナにとって最も苦手なことだった。けれど、幸いにもハンナには不思議な力があった。周りの人が、自分をどう思おうと気にならない強い心と自分だけの世界があった。

それこそが虫たちとの会話だった。

大切なことは、いつも虫たちが教えてくれていた。
何かを失って悲しいという気持ちを一番最初に教えてくれたのも、虫たちだった。どんなに仲良くなったとしても、彼らはすぐにハンナのいる世界から旅立ってしまうからだ。

ハンナは幼いころから失う事ばかりを知り、孤独な中にはいたが、友達が欲しいと思うことも、この村に来るまではなかった。寂しいと感じたことも、人を羨んだことも無かったし、人を憎んだことも無かったのだ。

≪ほんの今朝まで……つい昨日まで、楽しかったのに……なんで……。
みんな、あいつらの、ニーナの、ボバリー家のせいだ!≫

母の胸に寄り添い、溢れる感情と戦いながら、片目でパトラを見つめていたハンナが、自分を見下すように罵ったニーナのことをふと思い出し、怒りの感情がこみ上げてきた瞬間、その指輪の中央の石が突然焼けるように熱くなった。

「熱っ!」

その声にハンナの母が心配そうハンナの指輪を見つめた。レオも驚いた顔をしてハンナを見つめている。

「……パトラばあ様は、大変な約束を精霊たちと交わしてしまった。何故、あなたたちをこんな目に……」

ハンナの母は、そこまで言うとふっと息を吐いた。

「レオ、さぁ、儀式の時間よ。ハンナと一緒に、お利口さんにして、じっとしていてね」

「お利口さんって、何?」

「ハンナの隣に来て、じっとしているだけでいいのよ。声を出さずにね。パトラばあ様を見送りましょう。もともと、本当はもうずっと前にいなかったのだけれど……ね。
これからのことをどうすべきか、考えなくては」

そう言うと、ハンナの母は長い呪文のような言葉を唱えだした。その呪文は、ところどころ、涙声となっているようにハンナには聞こえた。

やがてパトラの身体は、いくつもの小さな光となって、夕焼けの空へとたなびき始める。
そうして最後にはベッドの上には、整えられた衣服だけが残った。

煙のような白い大きな輝く光は、ストロベリーフィールドの方角へと向かっているようだ。

≪あの人に会いに行ったのかな……≫

ハンナの脳裏についさっき見た過去の映像が蘇る。
あれは、ストロベリーフィールドの真ん中で泣き叫んでいたあの人は、間違いなく過去のパトラだ。ハンナはそう確信していた。

ハンナは煙を目で追いながら、溢れてきた涙を拭うこともしなかった。

南の島で、初めて出会った日の事や、村での掟を厳しく教えてくれたこと、ストロベリーフィールドをうろついて叱られたこと、誕生日の度に、優しい笑顔で小さな石を授けてくれたこと。昔のお話を聞かせてくれたこと……。

なぜか次々湧き上がる記憶は、ハンナとふたりきりの映像が殆どだ。

レオは、「すごぉい!」と言いながら、たなびく煙を捕まえようと手を伸ばしている。

ハンナの指輪の熱は、もうすっかり消えていた。

窓の外では、部屋の中からたなびく煙に大騒ぎする記者たちの声がいつまでも聞こえていた。


第三十一話へと続く

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