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ストロベリーフィールド:第十六幕 ウエストエンドの宝-①

フラワーバレーの春の朝、夜明けの時間は、ライラが思っていたよりもずっと早かった。西の国よりも日の出の時間が早く、気温はとても寒い。

それでも、腕をあげられないほどに服を着込んで店にやって来ていた身体は、パンを作り出して三十分もすれば汗をかくくらいになり、一時間後にはライラは半袖ブラウス一枚になっていた。

「このオーブン、凄いわ。こんなものを簡単に作る国と戦って、勝てるわけがないのよ」

ライラはグリーングラスの国旗のマークの付いたオーブンを苦々しそうに睨んでからそう呟くと、お腹にたまったうっぷんを晴らすかのようにパン生地を作業台に力強くたたきつけた。

パンをこねる音が響き渡っている厨房にはライラしかいなかった。
オーナー、兼店長のはずのトリーゴは、一昨日のテストでライラが作ったパンを味見して、大きく頷き、まだまだだけどオッケーだなと言ったきり姿を見せていない。

週三日、ライラはここで働かせてもらえる約束を取り付けた。故郷で使っていたオーブンと違って、ここの近代的なオーブンは発酵時間を自動で判別し、ライラの想像以上の火力で、しかも焦がすことなくあっという間に次々とパンを香ばしく焼き上げてくれていた。

オーナーのトリーゴは、焼き時間とオーブンの使い方、この店で売れているパンについてライラに説明した後、気候変動に応じて小麦粉やミルクの量を調整するようにとだけ言い残しただけで仕事の初日からいきなりライラひとりだけにして出勤しなくなっている。

ライラの目の前の調理台の上には作るべきパンのリストがあった。ある程度ライラは確認していたのだが、相変わらず汚いその文字は、読むだけでも一苦労だった。文字を読むことをすっかり諦めたライラはおおよその勘で、昨日聞いていたパンを数種類、日が昇る前から作りあげている。

一昨日焼き上げたパンの方はオーブンを使いこなせなかったせいで硬さがいまひとつだったわ……。

トリーゴは、致命的な失敗が無けりゃいいよと全く手を貸してくれなかったので、ライラは自分が作っているものが正解なのかどうかさえ分からないままだ。

うまくできなかったと感じたもう一つの理由が別にあった。ライラは、あの日、あやうくテストに遅刻するところだったからだ。時間ギリギリに来たせいで、オーブンの使い方もろくに教えてもらえず、ライラはいきなりパンを作るよう言われたのだ。

それは先週末、ボバリー家での事件があった日だった。新聞でも大きく取り扱われた事件だ。

その出来事を思い返しながら、ライラはふと時計に目をやった。もうすぐ6時だ。

このパンが全部売り切れたらいいのだけれど……。

パンを作っている間は、集中しなければいけないとライラは首を振った。6時5分前になる頃には下ごしらえをした終えたすべてのパンが焼きあがった。それらを棚に並べると、ライラは厨房に戻り、また一枚ずつ服を体に重ね始めた。

「ごめん! 遅くなっちゃって。すっごい、完璧ねライラ。あなた一体、何時に来たの?」

元気な声で、アミが外の扉の鍵を開けて入って来た。厨房まで慌てて入って来たアミに、ライラは紙を差し出した。

「3時半。だから、だいたい4時。あの、これ、読めない……」

トリーゴの書いたメモを見て、アミはやれやれという顔をして、右手を顔の前でひらひらさせた。

「いいって、あいつ、勝手に理想を描いてんのよ。あたしはね。そのうち、ライラの考えたパンが食べたいなって思ってるの。
なんて言うか……新作ってやつ? マンネリ化しててお客も減ってたしさ」

ライラは、それを聞いてほっとした笑顔になった。

「では、帰る。おつかれ」

「それも言うなら、『それではお先に失礼します。お疲れ様でした』だね。トリーゴの真似してると、ろくなことになんないよ」

アミは笑いながら木の椅子を厨房の真ん中に二つ並べて置くと、ライラに手招きをした。

「ねぇ、店を開けるまで、まだ一時間もあるんだからさ、一緒に朝ご飯しようよ。沢山作って来たんだ。お野菜のスープだけど好きかな?」

「お金、ない」

「やだ、もう。お金なんか取んないわよ」

アミは手早くカップと小皿を並べた後、店からいくつかパンを持ってきてトレーに並べ、いたずらっぽい笑顔を見せライラに聞いた。

「さ、どのパンを召し上がります?」

ライラは、迷う素振りを一瞬見せた後、レーズンとクルミがたっぷり入った全粒粉のパンを指さした。

「オッケー。じゃあ、それ、カットしよ」

アミができたばかりのふわふわのパンを上手にスライスしていく。その笑顔を見て、ライラは自分にもそんな笑顔の時期があったことを思い出し、もう一度未来を見られるかもしれないという淡い期待を持ちそうになっていた。

「はいどうぞ。で、この残ったこの半分はライラの特別手当ね。寒い中本当にありがとう」

「ありがとう……アミ」

ライラは、まだ熱々のパンを受け取り、スライスしたパンを口に含んだ。

故郷の味にこの前よりはかなり近づいてきた……。

感慨に耽るライラの横で、アミが声を上げる。

「うわっ。これ、すんごい美味しいわ。うちの奴の作ったやつよりいいかも。あ、これオフレコね。オフレコってわかる? 誰にも言わないでねってこと」

「オフ、レコ……誰にも言わない」

ライラが、そう言うとアミは笑顔で頷いて、唇の前で人差し指だけを立ててあてた。

「そう、オフレコ。それにしても、ライラのパンって世界一かも。まだ二回目なのにこの出来でしょう。末恐ろしいわね。独立して店でもオープンされたら、最強のライバル店になっちゃうわ」

ライラは、自分の未来に、パン屋さんという未来を思い描き、幸せな気分が体中に広がっていくのを感じた。アミの持って来たスープもとても美味しく、ふたりは美味しいを互いに連呼しながら、大きなパンの半分を食べきった。

空腹が満たされた二人は口数が減り、まったりとした時間が店の中に流れ始める。

「ああ、お腹いっぱいだと眠くなっちゃうわね。ね、コーヒー飲む? 目、覚めるよ」

ライラは、コーヒーという単語に反応して、首を左右に振り、明らかな嫌悪感を顔いっぱいに表して見せた。

「え? コーヒー嫌い?」

「苦い」

「まあね。でもそれが良いんだけどさ。ミルクと砂糖入れてみたら?
カフェオレならいけるんじゃない? 胃にもちょっとは優しいし。ちょっと待ってて」

「カフェオレ……?」

ライラは、土曜に訪れたカフェのメニューの真ん中あたりに書かれていた文字を思い出した。

確か、価格は二千グランドルだった……。

「お金、ない」

「もう、ライラ、あんたいい加減にしてよ。お金取らないってば! それにね、カフェで飲むのと違って、家でなら二十グランドルもかかんないわよ。
それと、今後『お金、ない』って言うのは禁止。
それ言ってると、金に嫌われるって、うちのお婆ちゃんが言ってたもん」

アミは少し気分を害したという顔で、持ってきていたポットを開けた。
そうして蓋部分のカップに黒い液体を注ぎ、その香りを嗅ぐと幸せそうな顔でそれを口に含んだ。

「うん。おっけ。今日のもうまく淹れてある。
ライラには、甘い味のちびっこアレンジね」

アミは厨房にあった大きなカフェオレボウルにもコーヒーを注ぐと、その上から砂糖をこれでもかという程入れてから泡立てた温かいミルクを注ぎ、少しかきまぜてからライラに手渡した。

「あたしは、ブラック派なのよね。あ、砂糖もミルクも入れないってこと」

ライラは、あまり気が進まなかったのだが、黒い液体が、白い泡に包まれて柔らかなベージュ色に変化していることに少し安心してそれにゆっくり口を付けた。一口だけ飲んで、ライラは驚愕した。この前飲んだ千グランドルの飲み物とは別物だった。

甘いものとミルクが好きなライラは、驚いた顔のまま再びカップに口を付けた。甘いミルクの香りが口に広がり、最後にほんのりと苦みが残る。
強い香りは変わらずあるのだけれど、味は完璧にライラの好みだった。

黒いままで飲むほうが、味の違いが分かるのだとアミはライラに伝えたが、甘党のライラには砂糖とミルクが必須だった。

「こうやってさ。ちょっと固くなったパンにつけると、美味しいよ」

そう言うとアミは、お弁当にと持ってきていた固くなったパンをちぎって少しライラに手渡し、自分も小さな欠片をコーヒーに付けてみせた。パンの開いた気泡にするすると吸い込まれ少ししんなりする。頃合いを見計らい、アミはぱくりとそれを口に入れた。

「おやつ感覚!」

元々食いしん坊のライラは、しんなりしたパンを見てたまらなくその味を知りたくなり、すぐさまアミの真似をしパンをカフェオレに浸し口に入れた。
カフェオレが、スポンジケーキと合体したような食感になる。ライラはすっかりカフェオレにはまってしまった。

「ふふ。その顔は気に入ったって感じね。よかった。でもこのカチカチのパンは、あたしのランチだから、家に帰ってから古くなったパンで試してね」

ライラは、笑顔で頷いた。

これからは、パンが固くなっても楽しみだわ……。

ふと、店のガラス窓に映った笑顔の自分を見て、ライラは慌てて笑顔を真顔に変えた。

ここまで来た目的を忘れるんじゃない!

ライラが急に険しい顔をしたタイミングで、アミは昨日の事件の話をちょうど始めていた。そんなライラの表情を見て、アミはライラが事件に対する嫌悪感を表したのだと勘違いした。

「ほんとに、パトラばあさまもそろそろまともな思考が出来なくなったらとしたら危ないわね。
一体どう言うつもりで、あんな怪我人だらけの場所で平気な顔で贈呈式なんかしたのか……」

ライラはそれには答えず、思い耽った表情を崩さず、声を発することもなかった。
ライラの声ではなく、店の外からの騒々しい話し声に気づいたアミが厨房から店の方を覗くと、お客さんが店の外に列を作っているのが見えた。

「え? え? どういうこと? こんなこと、今までなかったんだけど」

そう言うと、アミは、大急ぎでエプロンを付けて店の中へ向かいながら一瞬振り返り、慌てた様子で、ライラに声をかけた。

「ライラ、ありがとう。朝早かっただろうから、しっかり睡眠とってね。じゃまた。お疲れさま」

「おつかれさま……でした」

7時にはまだ十分ほどあったのだが、アミは店を開けた。外に列を作っていた数名が、雪崩のようにアミに挨拶をしながら店内に入ってくる。

「アミ、今日、どうしたの? 朝からいい香りで起こされたわよ」

「そうそう、これまで8時前まで匂いしなかったからさ、時間を間違えたかと思って慌てたわよ」

「いや、それは……」

アミが苦笑いする横で、お客さんたちは、ライラがさっき焼き上げたばかりのパンをあっという間に買いあげて行った。その姿を見ていたライラは、天にも昇るような幸せな気持ちになった。自分が作ったものが、こんなにこの村の人達に買われていく。パンを手に取る誰もが笑顔だ。

ライラは、ゆっくりとお客さんたちの間をすり抜け、アミと目を合わせ、軽く会釈をしてから店の外に出た。驚いたことに、まだまだ多くの人が、細い路地を通り抜け、パン屋をめがけてやって来ている。

「やだ。7時前に開いてる!」

「え? じゃ今度はもっと早く来なきゃ。全粒粉パン、残ってるかしら。うち大人数だから」

ライラと同じくらいの歳に見える二人の女性が、大ぶりのかごを抱えて店内に入って行く後姿を、ライラは目で追った。

ライラは自分が誇らしかった。

≪ウエストエンドの小麦粉の扱いなら、誰にも負けないわ!≫

ライラは小さく異国の言葉で呟いた。ユラ様が愛した味だ。

最後にもう一度お届けしたかった……。
ここまで来た目的を、私は忘れない。

ライラは上を向いて涙を止め、ゆっくりと決意した顔で広場とは反対の図書館がある方向へと歩き出した。

(第十七幕へつづく)


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