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ストロベリーフィールド:第十五幕 指輪の行方

塀に沿って見える街路樹の大きな木々は、春だというのにすっかりすべての葉を落としていた。

要塞のように屋敷の周りをぐるりと囲む高いレンガ造りの壁の向こう側にも、同じような木々が見えている。その中でもひときわ目を引く大きな木は、この国で起こった二度の戦火をも生き抜いてきたものだ。太く張り出した幹から幾つもの枝が突き出ていて、まるで手の甲に張り巡らされた血管のように重なり、屋敷の窓に濃く暗い影を作っていた。

「まったく、厄介なことになりそうな匂いがプンプンするね」

屋敷の正門から少し離れた位置に立って、しばらく屋敷の様子を見つめていたパトラの視線の先には、慌てた様子で正門から飛び出してきた影と、そこから遠くない場所でゆらゆらと動くもう一つの影があった。

パトラはその様子を、遠くから聞こえてくる明るい声の大合唱に胸騒ぎを覚えながら見つめていた。正門から飛び出してきた影をもう一度確認し、それがハンナであることが判ると、パトラは安堵の溜息をひとつついて、正門の方に向かってゆっくりと通りを横切った。

「あ、パトラばあ様。今からレオの指輪贈呈の儀式に立ち会われるんですか。中はすごい人で盛大なパーティです。私はなんだか気分が良くなくて、今から帰るところ……」

ハンナの全身から漂う妖気が、これから行なおうとしていることへの警告のような気がして、パトラは一瞬立ち止まった。

何かがハンナにとり憑いているのは明らかだ。

強い《嫉妬》、《憎悪》と表現すれば簡単だが、それ以上の力だ。とり憑いたもの自体が、その念の正体を把握できていないのだろうと、パトラは全身で感じていた。その強烈な悪意のような感情を取り込まぬよう、ハンナと目を合わせず、口を開くこともせず、細心の注意を払って、パトラはハンナの心に直接呼び掛けた。

精霊使いのハンナは、パトラの予想通りその心への呼びかけに気づいた様子だった。それを確認してから、『すぐに家に戻り、ここで何があったか母親に伝えろ』というような内容をハンナの心に告げ、パトラは屋敷へと歩みを進めた。

あの子は賢い子だ、きっとまっすぐ家に帰って言われた通りに母親に伝えるだろう。

怯えながら走り去るハンナの後姿を目で追った後、パトラはもうひとつの影を探した。
もうひとつの影はやはりまだ同じところにあった。暗闇の中、大きな木の枝の上に奇妙なかたちの影が揺れている。しばらくするとその影は二つに分離した。小さな楕円形と大きな楕円形だ。

ひとつの大きな影がするすると大きな木に沿って降りてくるのと対照的に、もう一つの影はゆらゆらと上へと登って行く。その先には、屋敷の自家発電用の電線が青黒い空に揺れているのが見えていた。もうひとつの黒い影は、地面に降りてくると、あっという間に屋敷の玄関へと消えていく。

地面を走る楕円の影は、フラスコのように下に大きく膨らんでいて風船を逆にしたように見えている。

バースデーソングはいよいよ最後のフレーズになり、歌が終わると同時に大きな拍手の音と、クラッカーがはじける音、今日の主役へのお祝いの言葉が大きな声で飛び交っているのが聞こえていた。

「お誕生日おめでとう、レオ!」

その大きな声の合唱の前から、屋敷中の灯りは消えていた。蝋燭の火を吹き消すまでの演出かと誰もが思ったはずだ。
が、最後の大合唱の後も、すぐにつくはずの灯りは灯らなかった。非常用電源を付けろとの声が聞こえた後、空から微かに焦げたような匂いがして、妙な音が聞こえた。クラッカーの残りが割れる音かと思ったがどうやら違うようだ。

パトラが人影のない暗い屋敷前玄関に立ち、その様子を怪訝な顔で見上げていると、屋敷の玄関から小さな影が勢いよく飛び出して来て、パトラと危うくぶつかりかけた。

パトラは誰かが出てくるのは想定内の出来事だったかのように、ふわりと紫のマントを広げて後ろに一歩下がる。

「来てくれてありがとう。パトラばあ様!」

「話は後だ」

「うん。こっち! 早く!」

屋敷の中では、人々がざわつき始めている気配がしていた。真っ暗になっている屋敷にちらりと目をやってから、パトラは小さな影の後ろについて暗闇を進んだ。

「僕ね、今朝から何回も廊下を走って、少しでも早く走る練習してたんだ。さっきは今までで一番うまくいったよ。入り口の花瓶を置いてる台が、すごく邪魔だったけど……」

前を歩く影は、自慢げにパトラにそう告げた。

どうやら何度も何度も動線を確認して練習していたようだ。目を閉じていても歩けそうな勢いで、この真っ暗闇を進んでいる……。

小さな背中を追いながら、ある小屋の前に到着すると、その重い空気にパトラは思わず立ち止まった。

「パトラばあ様、ちょっと待ってて」

小さな影がその手にしていたランプに灯りを付けると、今日の主役、レオの顔が暗闇に浮かび上がった。

ランプを横に置くと、レオはエサ入れの藁を外に出し始めた。エサ入れの下には真新しい板が見えている。

「なるほどそういうことかい。けど、そんなに時間はないよ。あんたが消えて、今頃みんな大騒ぎだ」

「大丈夫。ちゃんと考えてあるから」

その言葉が終わる前に、大きな何かがはじける音が遠くから聞こえてきた。

「始まったみたい」

パトラは音が聞こえた方向を見つめた。弾ける音は、しばらくしてまた鳴り響き、それから何度も何度も繰り返された。しかも一か所からではなく、屋敷のいたるところで鳴っているようだ。

銃声のようにも聞こえるが、恐らくは風船が割れる音だろう。直後に女性が叫ぶ甲高い金切り声が聞こえると、屋敷の中で、今度は怒号が飛び交い始めたようだった。

「パトラばあ様、早く!」

パトラが振り向くと、レオは板の下から顔を出しパトラを呼んでいた。急いでレオの後に続きエサ入れの下に隠されていた石の階段を降り、通路の突き当りの壁までパトラは全力で走った。

「百歳の年寄りを走らせるんじゃないよ。まったく……」

声を出すのも精一杯の様子で息を切らしていたが、パトラは階段も廊下もレオにほとんど後れを取らずについて来ていた。その姿は百歳だとは、にわかに信じがたい。が、レオはその事には一切触れずにパトラを急かした。

「ごめんなさい。だけど、急がないと。誰にも気づかれちゃいけないんだ」

「で、どこなんだい?」

「あ、そっか」

レオが、一か所だけ色が変わっているレンガを押すと、壁は少しだけ横へとスライドした。

「たまげたねぇ。まったく手の込んだ……」

「僕、上で待ってる。急いでね」

レオは、パトラの言葉を遮り、笑顔を見せてからパトラにランプを手渡すと、暗い通路を来た方向へと走り去った。

「僕は慣れてるから大丈夫だから。とにかく急いで!」

走りながら小さくなっていくレオの声と反対に、地上の怒号や足音が地下まで響いてきている。

パトラは、やれやれと言った表情で少し開いた壁の隙間から部屋の中を覗き伺うように、ゆっくりと部屋の中へ一歩、足を踏み入れた。

「……あなたは、だあれ?」

部屋の隅から澄んだ声が聞こえてきて、パトラは一瞬たじろぎ、声の方向を見た。天窓から斜めに降り注ぐ月明かりに照らされた小さな子が見えている。歳の頃は、レオと同じくらいだが、背格好はひとまわり小さいようにも見えた。

その子は怯えた様子も見せず、澄んだ瞳でパトラの方を見つめている。

「人に名前聞くんなら、自分から先に名前を言うのが礼儀だよ」

「礼儀……って、なあに?」

「やれやれ、礼儀も知らないのかい? 全く、なんでこんなところに……」

「礼儀……って、なあに?」

部屋を見回していたパトラは、ふうと溜息をつき、ランプを床に置いた。
それから羽織っていたローブを脱いで、傍らにあったベッドに放り投げると、部屋の隅にいる小さな子に近寄って行った。

パトラは《礼儀》を、この小さい子にどうにかうまく伝えようと言葉を選ぼうとしたものの、すぐそばまで近寄って覗き込んだ小さな子のあまりに可愛らしい笑顔に一瞬言葉を詰まらせてしまった。

「いいかい、礼儀ってのはね、え……っと、つまり、その、簡単に言うと、だね……自分以外の誰かが、嫌な気分にならないようにすることさ」

「じゃあ、あなたは、今、嫌な気分なの? 僕が、名前を言わないから?」

「そういうことだよ。目上の人から先に名乗らせるもんじゃないよ。全く、礼儀がなっていないね」

小さな子は、悲しいとも、困ったとも違う表情をパトラに見せた。

「じゃあ、僕は、ずっとあなたに嫌な思いをさせるよ。だって、僕には名前がないもの」

パトラは驚いて、小さな子を凝視した。

「名前が無いだって? そんなこと……」

そこまで言ってからパトラは、この子がこの部屋に閉じ込められている事実とその理由を頭の中で猛スピードで整理し始めた。

「まぁいいさ。あんたの名前ね、確認する方法が、あるにはあるんだがね」

「本当! 僕にも名前ができるの?」

「できるというか……。まぁね、とにかく、急がないと時間が無いんだよ。ここに連れて来てくれた子にね、頼まれたんだ」

「うん、知ってる。レオはさ、僕に秘密にしてたつもりらしいけど、僕には全部聞こえていたもの」

小さな子は、前にされ下がっていた耳を一瞬ピンと立ちあげて、パトラに見せた。

その様子を見て、パトラは驚きながら、その子の着ている緑の服に思わず目をやった。そして呆れ顔になった。その子の過去を思い、どうしようもなく不憫な気持ちになったのだ。

何も言わずに準備に取り掛かりながら、こんなひどい仕打ちをするボバリー家に対して、吐き気がする思いをパトラは必死で抑えていた。

「レオが言っていた僕へのプレゼントって、これのことだったんだ……」

小さな子は頬を赤らめ、こんなに嬉しいことは無いという表情を見せ、幸せそうに天窓を見つめて微笑んだ。

間もなく午後六時だ。懐から懐中時計を取り出し時刻を確認すると、パトラはその小さな子に近づいた。

もしもレオが言っていたことが事実ならば、この子は……。

パトラは、頭の中に芽生えた疑念をこの場で確認しようと決心していた。レオのために持ってきていた古い指輪の箱をポケットから取り出すと、箱を開けて中の指輪が確かにそこにあることを確認した。
そうしてから再びそれをポケットに丁寧にしまうと、パトラはその小さな子に自分の右手の掌を上にして差し出して、優しく話しかけた。

「右手を出してごらん。ご飯食べる時の方の手だよ」

パトラがそう言うと、その子はすっと左手を差し出した。

「おやまぁ、左利きかい? こっちじゃないよ。反対の手だよ」

小さな子はまたパトラに言われるがまま、今度は右手を差し出した。
パトラの言うことに、小さな子は一つ一つ素直に従った。

月の光が柔らかく天窓から射し込み、パトラの掌に重ねた小さな子の手に重なる。

パトラは揺れる光を纏う小さな手の甲に向かって、古代から伝わる言葉を使い、厳かな声で唱え始めた。

パンパスグラスの精霊たちよ。

この者の《経験者》となりうる時を疑わぬなら、
その力を以ってこの者に試練を与え、
超えさせたまえ。

この者の《守り人》となりうる時を疑わぬなら、
その力を以ってこの者に試練を与え、
超えさせたまえ。

パンパスグラスの精霊たちよ。
この者が、試練を受けるにふさわしい者ならば、
この者が、あなた方を守り続ける者ならば、
この者に希望の指輪を与えたまえ。


パトラは、掌を重ねたまま、何度も古代の言葉で呪文を唱え続けた。パトラの声が少しずつ大きくなっていくに連れて、パトラの手に重ねた小さな子の掌の下、パトラの掌とその子の掌が重なる部分から強い光が漏れ始めた。

その小さな子は、声も出さずにその様子をじっと見つめている。その瞳は恐怖の色ではなく、未知の者に対する好奇心で満ち溢れていた。掌の下の光は徐々に大きく強くなり、強力なフラッシュライトのような線光が部屋全体に広がっていく。

光と共にパトラの掌の上に二つに割れた指輪が現れると、重ねられた小さな子の手指に光を放ちながら蛇のようにゆっくりまとわりつきはじめた。その光は、薄暗い部屋に暮らしていた小さな子には強すぎる光だった。小さな子が反対側の腕で目を覆うよりも早いタイミングで光が広がったせいで、小さな子は、うう……と唸り声をあげて下を向き、ついにはその場に座り込んでしまった。

指輪が小さな子の指にリングの形となって収まると、パトラはその手を解いて天に向かって両手を広げ、そして大げさなお辞儀を5回した。
それから小さな子の肩に手をかけ、再びその右手をやさしく両手で掴んだ。

小さな子の右手には、さっきまでパトラの掌の上にあったリングがちょうどぴったりのサイズで光っている。パトラの思ったとおりだった。

この指輪は、この子のものなのだ。

リングに刻まれた古代の文字を確認しようとして、パトラは男の子の掌を上に向けた。
掌側にあるリングの表面を見たかったのだが、先ほどの光の直後に訪れた暗闇のせいで、そこに書かれているはずの古代文字は暗すぎてはっきりと読み取れなかった。何しろ百年以上の間、眠っていたリングだ。細いリングに刻まれた文字は小さく細かった。
小さな子は、されるがまま手をパトラに預けて、しゃがんだままの状態でじっとして動かない。

「やれやれ、可哀そうなことしたかね。でも、もうひとつだけやんなきゃいけないことがあるんでね」

パトラは、そう言うと部屋の入り口の床に置いていたランプを取りに行き、それを手に再び小さな子のところへ戻ってきた。

「さ、あんたの名前を見せておくれ」

小さな男の子は、《名前》という単語に反応して立ち上がった。
まだ目を細めたままで、まぶしそうに目を手で何度も目をこすっている。細い目つきをしたまま自分の手を見つめた小さな子は、自分の右手の薬指に何かがあることにやっと気が付いたようだった。

パトラは小さな子の手を取り、掌の横にランプをかざし、右目に胸ポケットから取り出した拡大鏡をあてがった。そこに書いてあった古代文字は、まだうっすらと朱色に光って燃えているように見えている。

そこに書かれた文字を確認したパトラは一瞬たじろぎ、そうしてまた天に向かって震えるような声を絞り出した。

今度は古代語ではなく、今の言葉で。

「今日、齢、六歳となった《レオ》に指輪を授けた精霊たちよ、どうか、この祈りをお受け取りください。精霊たちの想いに背くとき、指輪は元の場所に、この者は、この世界に戻したまえ」

小さな子は、驚いた表情でパトラを見つめている。どうやら視界が戻ってきたようだ。パトラは小さな子に向かって言った。

「さぁ、レオ、あんたの名前はレオだ。その指輪にそう書いてあるからね。後に続いて、一緒に祈りなさい」

小さな子は、慌ててパトラを真似て天を仰ぎ見た。天窓の向こうには、月が雲の合間から覗いているのが見えている。

パトラと共に祈り終えると、小さな子は弾けるような笑顔でパトラに問いかけた。

「ねぇ、僕、レオっていうの? あの子と同じ? 指輪がもらえるなんて夢みたい。指輪は誕生日にもらえるものなんでしょ? 僕とレオは同じ誕生日で同じ名前なの? すごく不思議な気分。
ああ、本当に、名前があるって、すごく不思議な気分」

そう言った後、小さな子、もう一人のレオは、耳の先をピンと立ちあげて、もう一度、天窓を見上げた。

「上の世界でたくさんの人が、痛い、痛い、って言ってる声が聞こえる。
それとあの子、レオが上で呼んでるよ。
急いでって言ってるよ。
あなたの名前は……パトラばあ様?」

「ああそうだよ、レオ。まったくグリーングラスの血は争えないね。その耳は、聞きたいことだけじゃなくて、聞きたくないことも聞こえちまうんだ。だから、こんな深いところに……。
ああ、要らんことを言ったね。
もっといろいろとお話してあげたいところなんだがね。今日のところはここまでだ」

パトラはそう言って、ランプを手にすると部屋を出た。

上で待っているレオに教わった通り、手探りでレンガを押すと壁はゆっくり閉じ始めた。振り返ると、好奇心で膨れ上がったような瞳を持った柔らかな笑顔のもうひとりのレオの顔の半分だけが見えている。

「ありがとう。パトラばあ様」

パトラには、その柔らかい優しい笑顔が、とても不吉なものに思えた。この子、もうひとりのレオは、決してそこから出ようとしなかった。
どのような洗脳がなされていて、この部屋にいるのか、パトラにはその想像すら、耐えがたいものだった。

屋敷の入り口で会ったハンナに憑いていた妖気はこの子のものではなさそうだとパトラは感じていた。それでは一体どこから出ていたものだろうかと思い巡らせながら、パトラは狭い廊下を走り抜け、石の階段を駆け上がった。

地上近くまで階段を登ると、ボバリー家の長男、今日の主役である別のレオがエサ入れの縁から下を向いて顔を少しのぞかせているのが見えた。

パトラはその顔を見て一瞬大きな不安が押し寄せてくるのを感じたが、考えている時間は無かった。
慌てて外に出たあと、レオが乱雑に草を板の上に乗せるのを見届けると、今度は台所の勝手口の方へとレオに続いて再び走った。

正面玄関側では怒号が飛び交い、助けてという声が幾つも重なり合うように聞こえている。

一体何が起こっているのか、パトラには分からなかったが、とにかく人目に触れないよう屋敷の中に入らなければと考えていた。

パトラは、ふとポケットに手を当てた。持って来た指輪は、ひとつだけだ。ポケットにあった箱を引っ張り出して開けてみると、やはりそこには指輪はもうなかった。

指輪があの子、別のレオの方を選んだのだ……。

この屋敷には代々伝わる指輪があるとボバリー伯爵は言っていたが、なにせボバリー伯爵自身が《経験者》にも《守り人》にもなっていないのだから、この家に代々伝わる精霊の指輪が眠っているわけなどなかった。

ボバリー伯爵のことだ、精霊の指輪ではなく、海外で買い付けて来た骨董品があるに違いないと、そうパトラは思っていた。

『誰にも言えない秘密の宝物を見つけたけれど、名前がわからない』とレオから言われた時、パトラは、新しい子供の悪戯かゲームか何かだと思っていた。

何かの力が、この村を脅かそうとしている。
消されないためには、最初から無かったことにするしかないのだ…。

必死に裏口へと走って行く暗いレオの後姿を追いかけながら、これから始まる二度目の指輪授与の儀式を思い、パトラの心は重く沈んでいった。

「パトラばあ様、早く!」

前を走るレオは、自分に指輪が授与されることを一ミリも疑ってはいない。けれど、おそらくそれはないだろう。

「レオ、ちょっとだけ、あたしに時間をくれないかい。ここへ来てご覧」

レオは立ち止まると怪訝そうな顔でパトラに近づいてきた。パトラは、レオの右手を取ると長い呪文を呟きだした。けれど、さっきのように指輪が突然現れることも、ここにいるレオの掌が光ることもなく、呪文だけが空しく、暗闇に響き続けた。

「パトラばあ様、何やってるの? 見つかっちゃうよ。早く行こうよ!」

レオはそう言うとパトラの手を振り払い屋敷の中へと走っていった。パトラは真っ暗になったままの屋敷から止まずに聞こえ続けている悲壮な叫び声を遠くに聞きながら、かつてこの国でグリーングラスの軍人たちによって語られていた恐ろしい言い伝えを思い出すように、小さく声を発していた。

呟くように小さな声で。

『異形異端のものに名前を与えし者には、死神が付きまとう……』

(第十六幕へつづく)


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