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冥道(ハザマ)の世界:第十二話 心の中の鬼

 廊下に面した襖を少し開けて中を覗くと、部屋の中から吹き出してくるいい香りの理由が百香には分かった。

 座っている人たちはほとんどがひとりで、誰もがその手に花を一輪持っていた。沢山の花のそれぞれの香りが混ざりあってこの部屋の幸せの香りができているのだ。幸せが充満しているような香りだ。

 ふたりで座っている人たちの中には見た目が女の人同士、男の人同士のふたりもいる。親子のような人たちもいた。よく見るとひとりだと思って見ていた影も実はふたりだったりした。それくらいひとつに見えるほどにしっかりと寄り添っているのだ。

「あなた! あぁ、ようやく会えた……」

 突然、優しく泣いているような震える女性の声が聞こえて来た。

「ほんとにやっと会えたなぁ、長いことお疲れさん」

 若い男性にかなりの高齢に見えるおばあさんが歩み寄る姿が見えた。ずいぶんな年の差だなと百香が思っていると、おばあさんの姿がみるみる若返っていく。ふたりの手の中には同じ黄色の花が握られていた。ひまわりだ。

「ここで会うべき人と再会すると、自分が戻りたいと思っている頃の姿まで戻ることができんねん。大抵はふたりが出会った頃か、一番幸せだった頃の姿やろな。ロマンティックやろ」

 ボッコ姉さんはうっとりして部屋の中を眺めている。さっきのふたりはしっかり寄り添って、何も話さずぴったりとくっついている。後ろから見るとまるでひとりの人間のようにも見える。《ハザマの間》よりも少し狭いくらいの部屋の中には、多くの人が座っていた。

 ふと、水仙の香りがしたので、百香がもう少し奥まで頭を部屋に入れて覗いてみると、少し離れたところに見覚えのある優しい顔が座っていた。

「……おばあちゃん!」

 あれは絶対に自分のおばあちゃんだ。百香は何故かそう確信していた。

 百香は思わず叫んでその人に声を掛けたのだけれど、その部屋の誰も百香のことを見ようとはしなかった。百香には多くの事は思い出せなかったが、薄い水色のワンピースは確かに見覚えのあるものだった。それを見て百香は、ただ直感的に、《おばあちゃんだ》と思ったのだ。

 百香は部屋に踏み込む寸前で、ボッコ姉さんにぐいっと横から腕をつかまれた。鋭い目つきで百香を睨みつけている。

「部屋には入ったらあかんっていうお局様との約束、もう忘れたんかいな。あんた、よっぽどハザマの世界を延々と彷徨いたいんやな。この部屋に入れんのは、好きだった人との思い出の花を持ってる人だけや。関係ない人が入ったらえらいことになる。中の人たちは、たったひとりの人としか会えない決まりや。それに出会ってもお互いにひと言しか言葉を交わせないってことになってる。まぁ、言葉が要らんからやけどな。

 ここはな、先に逝った家族や、これから来る家族と三十三時間を過ごすことよりも、たったひとりの人を待って、ひと言だけを話し、後から来るかたわれとの最期の一時間だけ一緒にいることを待ち続けた人たちの為の部屋や。むやみに近寄ったらあかん。花を持ってない人がやって来たら、奈落の底行き決定や」

 そうボッコ姉さんが話していたまさにその時だった。

「ヒロくん」

 という、か細い声が聞こえた。驚いたことに、ひとりの白髪の老婆が、襖を開けて、隣の《ハザマの間》から入って来たのだ。

 あの襖、開けていいんだ……。

「あかんに決まってるやろ」

 ボッコ姉さんが、百香の心の声に小さな声で答えた。

 ヒロくんと呼ばれたその男の人に、その女の人は近寄って行った。造られたような老婆の顔が、少しずつ形を変え、変形し、若返っていくことに百香は驚いていた。

 男の人の方は、百香たちに背中を向けて座っていたが、大きな花弁の匂い立つような香りのする白いユリを持っているのが後ろからでも見て取れた。頭には白髪がたくさん見えている。自分の方に近寄ってくる女の人に気づいた男の人は、何も言葉を返さずに、深く俯いたように見えた。

 隣の《ハザマの間》から現れた女の人は手には何も持ってはいなかった。

「こんなところで会えるとは思わなかったわ。隣の部屋にいたんだけどさ、いい香りがするなと思って襖をあけて中を覗いたら、ヒロくんがいたから、びっくりしちゃった」

 女の人はそう言いながら、ヒロくんと呼ばれた人の前で立ち止まった。

「ねぇ、どうしてそんな花持っているの。私はいつもヒロくんがくれていた赤いバラの方が好きだったな。ほんと久しぶり。ねぇ、奥さんは?」

 そう言いながら女の人が手を伸ばした瞬間、
「やめろ!」
 と、男の人が叫んだ。

 男の人の手は小刻みに揺れている。いや、震えているのだ。女の人が男の人の手に触れたとたん、大きなユリは見る間に萎れて真っ黒になった。

「……ぁあああ……」

 男の人は突っ伏し、低い声で唸った。

「どうしたの? ヒロくん」

 女の人は、うすら笑いを浮かべている。そうしてじっと彼を見つめたまま動かない。

 《一の間》で色々な説明を受けてから来てるはずなのに、なんでやっちゃいけないこと平気でやるんだ。やっぱり大人って変だ。

「そうやな。だから人間界からの追放も早い」

 ボッコ姉さんが小声で呟く。

 人間界からの追放って、どういう意味だろうと百香が思っていると、廊下の突き当り、はるか遠くに見える大奥の扉が、ゴゴゴォ……ギイイイイ……ときしむ大きな地鳴りのような音を立てて開き、大きな影が三列に並んだ。

 その隊列が、お腹に響くような揃った足音を立て、徐々に百香たちがいる方に向かって近寄って来る。その歩き方はまるで訓練された軍隊のようだ。皆長い棒のようなものを持っている。今まで賑やかだった全ての部屋が静まり返り、それぞれの部屋の襖は次々にぴしゃりと閉まった。

 何事だろうと見ていると、百香はボッコ姉さんにぐいと腕をつかまれた。急いで《家族の間》の方へ後ずさりすると、百香はボッコ姉さんの後ろにぴったりとくっつくようにと言われた。ただ事ではない気配を感じ、百香はただ頷いた。

「できるだけ息をひそめてあたしの後ろに隠れときや」

 そう言うボッコ姉さんの指示通りに、百香は息を殺して固まってじっとした。暫くすると、全身に響くような振動を足元から感じ始めた。ザッザッという行進の音が徐々に大きくなっていき、《ふたりの間》の前で止まる。人のように見えたその一団は、全員が頭に奇妙なかたちの角を持っていた。

 ……鬼。

「そう。鬼」

 百香の頭にボッコ姉さんが答える声が響く。

「あんたの心字、今から消すで。私にぴったりくっついとき!」

 震えながら、百香はボッコ姉さんの背中にぴったりとくっついた。先頭の鬼は、怒りの形相で顔中に赤い血管が浮き出ていた。全身には奇妙な模様が浮かんでいる。人の大きさをはるかに超えた大柄な鬼が、《ふたりの間》の引戸を乱暴に開き、男の人の真横まで近寄ると、低く沈むような、抑揚のない太い声で言葉を放った。

「お前、来い」

 鬼が声を発すると、百香は重たい振動を地面からお腹に感じた。大きなスピーカーが震えるときのような、周りにある空気全体を吸い込んで話をしているような音だ。百香のいる位置からはボッコ姉さんの肩越しに鬼の大きな身体と、鬼を見て立ち尽くしたまま引きつった顔の女の人の左半分だけが見えている。

「嫌だ……ぼ、僕は……ここで、み、美加子を待つって決めて、この部屋を選んだんだ」

 男の人の姿は、鬼の大きな体に隠れてその姿がよく見えないが、突っ伏したまま咽び泣く声だけがずっと聞こえていた。

「……面倒くさい奴だ」

 そう言うと先頭の鬼は、睨みつけるような表情のまま後ろを振り返り、後ろに立っている鬼たちに目で合図を送った。

「面倒くさい奴だ」

「面倒くさい奴だ」

 後ろにいた鬼たちは、繰り返しそう言いながら、先頭の鬼と同じ言葉を繰り返すと男の人を取り囲んだ。

「嫌だ……」

 泣き叫んで廊下に走り出ようとした男の人を、表情を一切変えずに並んでいる鬼たちが捕らえ、そのうちのひとりの鬼が、その異様なほど大きな掌で、後ろからその男の人を即座に押しつぶし、廊下からはバリバリという鈍い音が聞こえた。

「一の間で何を聞いて来たんだか。……面倒くさい奴だ」

「面倒くさい奴だ」

「面倒くさい奴だ」

「捨てなきゃ」

「捨てなきゃ」

 他の鬼たちは無表情だった。先頭の鬼と違って、その声は異様に高い音だ。後ろから押さえつけられて、廊下に突っ伏して動けなくなった男の人の両腕を、別の鬼が片手で握りつぶすように持ちあげる。

 その鬼の背丈は、先頭にいた鬼よりも少し小さいが、それでも二メートル以上はありそうだった。沢山の鬼がつまみ上げた男を下から見上げるように見つめ、また、「捨てなきゃ」と繰り返した。

 男の人の体はだらりと宙に浮き、あがったままの腕は抜けているようにも見える。骨が折れているのか、痛みで気を失ったのか、その頭は前にがくんと落ちていた。が、鬼はお構いなしだ。男の人の手にあった美しいユリは、廊下に粉々に砕け散っていた。そのすぐ横にいた女の人は、男の人の両腕が握りつぶされて吊り上げられたのを目撃して、恐怖のあまり座り込んで動けなくなっていた。

「さて、お前も来てもらう」

 先頭の鬼の手の親指と人差し指の爪は、くさびのように長く曲がっていた。その爪の先端で肩をつかまれた女性は、その尖った爪が肩にぐさりと食い込んだ瞬間、気を失ったようだった。

 鬼は汚いものでも拾うようにその女の人を爪の先端でつまんだ。それを渡された別の鬼は、悲しそうな顔で「された、られた、された、られた」と言いながら顎を左右に振り続け、女の人をつまんだ爪の先でぶらんぶらんと揺らした。

 鬼たちは、ゴミを拾いに来て、それをゴミ箱に捨てに行くというような様子で、ふたりを摘んでいた。そうして、振り返ると、後ろに固まっていた他の鬼の中央をかき分けてどしんどしんと進み、元来た廊下を戻って行った。

 さらに他に数名いた鬼たちも向き直ると、「捨てなきゃ」と呟きながら、またザッザッと行進し、その後をついて行く。

 この屋敷の廊下の幅や天井の高さは、この鬼たちのサイズに合わせてあるのだと、百香は気が付いた。鬼が三列になっても余裕のある幅の廊下だ。

 鬼たちが全員、奥の間に入ると、また扉はぎいいと不吉な音を立ててゆっくりと閉じ始め、最後には地響きのような大きな音を立てて完全に閉じた。

「危なかったな。あそこまで赤い顔、久々見たわ。透明になる術、有効活用できた」

 ボッコ姉さんが百香を振り返った。百香は緊張しすぎて、呼吸もまともにできない状態で固まっていた。何より本物の鬼というものを生まれて初めて見た恐怖と、人間をゴミや害虫のように扱うその残酷な扱い方とその迫力に、百香は暫く言葉が出てこなかった。

「まぁ、無理ないか」

 そう言いながらボッコ姉さんは百香の背中をさすってくれた。

「あのひとたち、どうなるの?」

「そうやなぁ。あの鬼たちが、ふたりを主様のもとに連れて行って、それぞれのやったことが白日の下にさらされる。ひとつ残らずな。あの会話内容からして、あの男は奥さんおるのにあの女に手を出した。あの女も奥さんおるあの男と繋がった。奥さんがおるって知っててから繋がったんか、知らずに繋がったんかで裁きはかわると思うのは人間の世界だけや。

 ここでは、知っててやったんか、知らんとやったんか、なんか関係ない。罪は罪や。罪として、カウントされるだけ。個人の事情なんか、何の言い訳にもならんからな。ま、嘘ついても事実はもう記録されてるから、主様の前で嘘ついて更に罪が重くならんよう祈るわ。主様にはお見通しやからね。

 あの男も、家族の間におらんかったってことは、家族には愛されてないってことは自覚しとったんやろうな。あの男の心にあったのは「面倒くさい奴だ」という思いと、「捨てなきゃ」という思いだけやったみたいやな。あの鬼たちが発していた言葉はな、あの男の心字を読んだだけや。

 あ、間違えたらあかんで、別に複数の人を愛することは、悪いことと違う。問題は、愛してなかったことや。己の欲だけを満たしたことやな。愛と執着や独占欲は別もんやからな。あの男と女の罪の重さを変えることができるのはひとりだけや」

「奥さん?」

「ちゃうちゃう。奥さんへの裏切りの罪は、一旦カウントされたら消えることはあらへん。つまらん欲望の方が愛より強かった、人を傷つけることを分かってても、止められんかった。もしくはそれを何とも思わんかったっていう罪やな。

 人間が人間を「捨てる」なんてことはあり得へんからな。ゴミじゃあるまいし。その後、どんな償いをしても消えることはない。消えるとしたらな、その罪に気付けた時や。

 どうやら、あの男はそれは無いままやった。ここで、あの女にあっても「面倒くさい奴だ」って思ってたようやからな。

 ここで裁きができるんは、大王様だたひとり。つまりは、ここの主様やな。鬼たちは、主様の指示でここへ来て、連れてくるように言われた奴の心字を声にして表して、それを主様に見せに行く。それから、主様のいいつけどおり最も効果的な処罰を実行する。まぁ、女の方には特級クラスの鬼が来たから、次に人間界に生まれ変わるのは無理やろうな」

 お局様が、「主様なら百香を元の世界に戻せる」と話していたが、その主様だろうか。百香はさっきまでは今すぐにでも主様に会いたかったのだが、あの鬼のボスってことなら会うなんてとんでもないことだと百香は思った。

「ああ、言うとくけど、昨日から、明日までの三日間は、どっちみちあんたが主様に会うのは無理や。今日来るのが決まってたほぼ全員と会わなあかんから、主様は大忙しや」

 百香の心字を読んでボッコ姉さんが答えた。

「あの女、ハザマの間から出て来たやろ。てことは、生涯愛してもらえる人もなく、自分が本心から真剣に愛した人もおらんかった。ってことや。
 つまりはあの男に対する気持ちは愛じゃなかったってことや。
 だから《ハザマの間》に自ら入ってた。

 どんな打算であの男と付き合ったかは知らん。が、あの男はそれを見抜いたからあの女と別れて他の女を心底愛することができるようになったんかもしれんな。だからあの花を手に入れることができた。その相手が奥さんなんか、奥さんと別れたあとにできた別の女なんかはわからんけど」

 ボッコ姉さんは床に散らばって砕けた真っ黒のユリの花びらの破片を集めながら話を続けた。

「あの男は、心から愛してもらえたと思っていた人には最期には会えんかった。っていうお裁きやな。でも、自分以外の人を愛せたと思ったからあの部屋には座れてた。だから、あの女より罪は軽いねん」

「え? そうなの? 逆じゃなくて?」

「あの女の方はな、人を愛するいうことを一切せずに生きて来た。誰かを無条件で幸せにするってことを全くせんかったんや。自分が幸せになることのみ考えてた。恨むことや、自分を一番愛してほしいとねだることはあっても、愛することはただの一度もせんかった。

 相手のことを考える能力が無いんや。いつでも相手より自分や。だから、《ハザマの間》にいたわけや。いつでも、私のことだけが一番。愛せる人に出会えなかったとかいう言い訳、主様には通用せんよ。人間の形をした執着と煩悩の肉の塊や。殺生の次くらいに重い罪や。
 可哀そうなのは、本人が、それに気づける脳の回路が欠落してるってことを、理解する魂の知性が無かったことや」

 首を傾けて百香が難しそうな顔をしていると、ボッコ姉さんは、まだ心が子供の百香にもわかるように説明してくれた。

「あの女はな、生きている間、ずーっと、幸せになりたい、幸せになりたいって思ってたはずや。人に羨ましいって思われたいってな。だからいつも幸せなふりをしてた。

 でもここへ来て、自分が入れる部屋がどこにも無いことに気がついた。いつでも周りが自分より上か下かが気になって仕方ない。だから、簡単に襖を開けて隣を覗く。知的好奇心で覗いたんじゃなく、どちらの方が上かを知りたかっただけや。

 そういう人間は、大抵人から羨ましいと思われるのが大好きな強欲の人間や。何故か? 羨ましがられる人の方が勝者で上、という間違った思い込みを植え付けられているからや。

 自分には人を幸せにできる能力が欠けている。という重大な事実には最期まで気づかんかった。どうしたら相手が嬉しいかも理解できない。簡単に言えば脳の欠陥や。
 
 自分ではない誰かを無条件で幸せにすることで、自分が幸せを感じられるとはどういうことか、人間の魂の知性が最も試される領域や。これはな、IQとかの話とは違う。脳に発達の障害がある子供でも、生まれながらに持つことのできるものや。たまにどんな逆境でもめっちゃ人を幸せにできる子もいてるしな、こればっかりは分からんね。本当は嫌なのに無理やり尽くす、そんな自己犠牲とは違う。

 あんたも見たやろ、あの女の最期の薄ら笑い。
 時々あるのよ。本来はかなり下の世界に転生するはずやったのに、たまたまご先祖様の貯めたポイントがあって、人間界にワンチャンで生まれたってケース。ま、次は本来いるべき世界に戻るだけや。

 あの女は、せっかく人間界に来たのに、生きてる間に課題はクリアできんかったんや。きっと、自分がなぜそうなったのかも自覚してない。
 「された、られた」と、原因は自分以外の人にあると思ってる。

 主様にとっては、その人が罪を自覚しているかどうか、その人の生い立ちがどうかなんて、実は大したことではないけどな。罪を罪として容赦なく切りつけるだけや」

 ボッコ姉さんは、またひとつため息をついた。

「あの女は、主様が与えた、このハザマの世界の最期のチャンスを無駄にした。これまでもずっと自分の欲だけを満足させるためだけに人を利用して一緒にいたんやろ。

 だから、私は裏切られた。愛されなかった。この心の傷のせいで幸せになれない。って、「られた」、「された」を言い続けて生きてきた。だから、最期にここでも、人の幸せをつぶして笑えてた。鬼たちは、その心字を読み取って声に出してたやろ。何をされたのか、分からんけどな。原因が相手にあるって思い続けてたってことやろ。

 復讐したつもりかもしれんけどな。これからあの女の行く先は、おぞましい世界や。見たやろ、さっきのゴミのような扱い。次に輪廻転生する世界は……」

 言いかけて、ま、決めるのは主様や。とボッコ姉さんは言い、大きく深呼吸をしてから話を続けた。

「《ふたりの間》に入れるのはな、誰かを心底愛せた人だけや。その証としてここに来る前に花をもらえる。たいていの場合は一輪やな。あの男がどれくらいの期間をここで待ってたかは分からんけど、さっきの女の方に先にここで出会ってしまった。

 このあと、一番気の毒なんは、あの男の想い人が、同じようにあの男を想ってここに白いユリを持ってやって来た時やな。あの男を探しても、もう、ここにはおらんからな」

「じゃあ、その人はどうなるの?」

「この部屋に入った途端に花が枯れる」

「えっ? それひどすぎる」

「それはもうしゃあないなぁ。でも部屋に入る前には、自分の持っていた花が咲いていた以上、相手は自分を待ってたはずって分かってる。だからそのあとすぐに奥から黒鬼がお迎えに来るよ。花が枯れた理由はおいおいわかるよ。何のために、ここが《ハザマの間》の隣にしてあると思う? 
 自分が傷つけたかもしれん相手が隣で見てるって、ドロドロの韓流ドラマばりに怖いで」

 ボッコ姉さんはニタリと笑う。恐怖から解放されたのか、遠くから子供たちの明るくはしゃぐ楽しげな声が聞こえ始めた。

「ここに座ってる人の花、みんな綺麗やろ。みんな、ずっと咲いたままの花を見て、自分が愛した人から愛されていることを感じてる。自分の愛する人がいつか自分に会いに来ることが分かってるから、座って待つだけで幸せやねん。何日か待って、あ、あんたらの世界の何年か待ってになるけど、自分が心底愛した人が自分のところに同じ花を持ってきてくれたら、幸せのお裁きや。悪いことしてたら、もちろん減点されるけど、この部屋で同じ花を持って出会ったふたりは来世でも繋がるようにできてる」

「ふたりがくっついた後はどうなるの?」

「一時間はここで過ごせるよ。もっとふたりでここにいたい。みたいな欲が出た時点でアウトやな。花が枯れる。そして若手の黄鬼が迎えに来る。呼びに来られたら、ふたりで奥の間の前に並んで扉が開くのを待つだけや」

「え? そうなの? 結局あの奥の部屋に?」

「そういうこと」

「愛し合うふたりが、違う花を持ってるってことはないの?」

「愛し合ってたら同じ花持ってるな。ご夫婦で同じ頃に亡くなって、ふたりが違う花を待って座ってるっていうのはよくある笑い話よ。何人も愛するってことは罪ではないねんけど、相手を傷つけてたら罪になるから、なかなかこの部屋に来るのは難しいね。

 あの男みたいに、心から愛する人を見つけられたとしても、人を傷つけているという事実は変えられんから、さっきみたいなことになるね。
 だからここの部屋に最後までいられる人は、たいていはひとりの人だけを大切に思って待ってる人やな。

 ああ、でも一回あったなぁ。一人のおっちゃんが違う種類の花を三輪持っててさ。三人のお姉さんがみんな別々の花持ってて、全員仲良しで、幸せで、誰も傷ついてないし、誰も妬んでないっての。おっちゃん結婚は二回やったから、二回で鬼のお迎え来るんかと思ってたら、いやもう一人若い子来るから待っててねって、ふたりに話してんねん。面白かったわぁ。ええ話やろ?」

 ボッコ姉さんは時々意味不明になる。

「もしも、百香がさっき、この部屋のおばあちゃんに飛びついてたら……」

「おばあちゃん、ショック死で、お迎え来るわ」

 ここ笑うとこやで~と、ボッコ姉さんが言っているのを無視し、絶対にお局様の言いつけは守ろうと百香は心の中で反省した。

「そやね、でないと、怒った鬼にあの奥に連れて行かれるで」

 間違ったことをしなくてよかったと、百香はほっとしていた。
 だっておばあちゃんは、あれほどに慈しむような顔で水仙の花を見つめ続けている。花が咲いている限り、おじいちゃんはおばあちゃんを想って生きているってことだ。

 長いこと待っているんだね、おばあちゃん。

「いやこっちの時間でまだ一日半くらいちゃうかな」

 百香が心で思っていることにボッコ姉さんがまた答えた。

 一日半、三十六時間として、百香のいた世界では三十六年か……。

「ほな、今日はそろそろ日が暮れるから、解散ということで、残りの四つの部屋は、また明日以降に廻ろか」

 そう言い残し、ボッコ姉さんはさっと姿を消した。さっきの術を使ったようだ。

 百香はひとりで廊下を歩き、《ハザマの部屋》へと戻った。部屋の中には誰もいない。さっきまでは、あの女の人、いや老婆がいたはずだった。

 けれど、そんな老婆を見た記憶が百香には無かった。そもそもこの部屋には、最初から百香以外はずっと誰もいないのだ。
 位置的には布団の右側が《ふたりの間》と隣り合わせになっているはずだ。頭側がお局様の控室につながる廊下。左側が《一の間》につながる廊下とクチナシの庭。
 百香はいつも無意識に《一の間》の方の引き戸を開けていた。

 何故だろう……。

「それがねぇ。私も不思議でね。やっぱりまだ、あっちの世界寄りの人かね」

 お局様が、呟くようにそう言いながら、お膳を持って入って来た。

「さ、どうぞ。あったかいにゅうめん。ここではいつも一日一食なんだけど。特別ね」

「いただきます」

 柚子と香菜(シャンツァイ)が入った香りが強めのにゅうめんだ。この香りはいい香りで好きなのだけれど、これは和食なのか? 中華なのか? はたまたエスニック料理なのか? 百香がそう思いながらにゅうめんを啜っていると、百香の頭上を見つめていたお局様が、笑いながら答えた。

「そうね。香菜(シャンツァイ)って思いながら食べると中華になるし、コリアンダーと思いながら食べると、洋風かアジア料理な気もするし、パクチーって言っちゃうと、完全にタイ料理になっちゃうから不思議よねぇ。同じ薬草なのに。

 あんたたちの時代でいう紀元前から伝わる薬草だけどね。アレルギーの子もいるから最近は気も遣うのよ。ま、いい香りって思えることは、大丈夫そうだし、鼻がいいってことよ。

 この薬草の《いい香り》の部分だけなぜか感じることができない鼻を持った人間がいるらしいよ。葉っぱの《臭い部分》だけを感じてしまう気の毒な鼻らしいからね。同じものなのに人によって同じ香りには感じなさせいって、主様は何考えてそんなことしたんだろか。何かの罰かご褒美かねぇ」

 お局様は、クチナシとか、コショウとか、長々と体にいい薬草の話を次々としていた。今日はやけにお話をしたがるなと思いながら百香はその話を聞いていた。お局様は、そんな百香の心は頭の上の心字でお見通しだったはずだ。

 そして百香がにゅうめんを食べ終わるころになると、百香のママと同じ顔と声を持つお局様は急に、ママと同じことを聞いてきた。

「きょうはどうだった?」

 その声に何故かふと懐かしさを覚え、百香の目には思わず涙があふれて来た。

「あら、どうしたの?」

「《ふたりの間》で、おばあちゃんを見かけました」

「あら、いい話ね」

「はい」

 それだけ答えると、百香は後は何も言えなかった。お局様は黙ってお膳を下げ部屋を出て行った。心字を全て読むまでもないと思ったのだろうか。今日の昼から見たことを、順に百香は思い返していた。

 この部屋にいるってことは、人を愛せていなかったってことだってボッコ姉さんは言ってた……。

 あちらの世界で自分はどれくらい勉強したのだろうか。やらなければいけないという気持ちで勉強をしてきた記憶がうっすらある。けれど、この世界に一日いただけでも、こんなにたくさん知らないことがある。

 何かに興味を持って自分から知りたいと思う心って、今まであっただろうか。心から大切にしたい人は見つからなかったのか。《ふたりの間》で待つことのできる思い出の花はできなかったのか。そんなもうひとりの自分を想うと、百香は涙があふれて止まらなくなった。

 朝から十二時間は経っている。ということは百香は今は三十八歳くらいか。明日の朝になったら五十歳近くになっているはずだ。

 何もしないまま、あっという間に五十歳を超えてしまう。

 この部屋にいるってことは、自分もあの女の人と同じなの?

 息苦しくなって、百香は涙をぬぐいながらいつもと同じ《一の間》の方に立ち上がり、庭に面した引戸障子を開けた。
 すっかり日が落ちていてクチナシの香りが部屋に満ちてくる。ふうわりと生暖かい甘い香りの風が部屋に流れ込む。

「何でそんなに泣いているの?」

 突然の高い声にぎくりとして、百香は辺りを見回した。誰もいない。昨日見た黄色い沢山の目を思い出し怖くなって、百香が障子を閉じようとした時、ふううと頬に風が当たった。

 百香はゆっくりと首を回して風が来る方向を見た。廊下の縁側に誰かがいる。月明かりを背にして立っていて、暗くて顔がよく見えないが、膝の高さくらいの子だ。昼間に出会ったウサギかとも思ったが、足元まで伸びる影には耳がない。百香は思い切って声をかけてみた。

「誰……ですか?」

「覚えてないのか。つまんないの」

 憤慨したという声と共に、チッと言う舌打ちのような音が聞こえた。声の感じが小さな男の子のようだった。それからは、百香が何度読んでも声はしなくなった。その代わりに風もないのにさわさわとクチナシの葉と枝の揺れる音が聞こえていた。

 雲の切れ間から斜めに月の光が差すと、誰かがクチナシの花畑を歩いているのが分かった。そうして向こう側までつくと、《一の間》の縁側にポンと何かが飛び乗ったのが見えた。間違いなく昨夜百香が行った《一の間》の前だ。さっきまでこちら側の廊下の縁側にいた影は消えてしまっている。百香が目を凝らして見ていると、影が百香のほうに向けて手を振った。百香が手を振り返すと、「夜は鬼の時間だよ」と向こうから声が聞こえた。

 そう言われて怖くなった百香は、慌てて障子を固く締め布団にもぐった。昼間にあんな怖い鬼を見たのだ。昨日も同じことを言われた気がしたが、実物を見る前と後では恐怖の度合いが違う。あれが夜に出ると思うととんでもない恐怖だった。

 あの男女はどうなったんだろう。明日も主様という人には会わせてもらないんだろうか。それにしても《一の間》にいる子は誰だろう。トッケビは日本語を話さないしな。と考えて、もしかしたら、自分が会いたかった誰かかもという気がしてきた。外に出たいのだが、怖くて一ミリも動けない。

 明日、お局様に聞いてみよう。ボッコ姉さんでもいい。夜に出歩く小さな男の子について。多分、昨日のいたずらも同じ男の子だ。昨夜倒れる寸前に一瞬の月明かりの下で顔を見た気がするのだけれど。

 思い出せ……ない……や……。

 クチナシの香りが漂う中、ふと水仙の香りが混じった。オルゴールの音色が遠くに聞こえている。その音をどこかで聞いた気がすると百香は記憶を辿ろうとした。怖さが勝っていたせいで百香の涙はようやく止まっていたが、泣きはらした目はとても重かった。

 遠い記憶の中で、声を出さずに泣き疲れて眠っていた日々が一瞬光っては消え、また光っては消え、幾つも見えた気がした。

 元いた世界って、そんなに辛いことばかりだったのかな。ずっと胸が痛いのは何故なんだろう。会いたかった人の名前は思い出せない。でもおばあちゃんの顔は一目で分かった。覚えていることと、忘れてしまうことの違いは一体……。ボッコ姉さんは、それは私の心が選んでいると言っていたけれど……。

 そんなことを思いながら、百香は脳がぐったりしたままで眠りに落ちた。

 記憶がゆっくりとばらけて溶けていく。

(第十三話へつづく)↓


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