冥道(ハザマ)の世界:第八話 二度目の夏期講習
七月に入ると、塾は受験を目指す子供たちでいっぱいになっていた。去年から勉強を始めていなかったら、百香なんてとても入塾できなかったかもしれないと思える程のすごい人数が、毎日入塾申込みカウンターの前に並んでいた。
その中には、百香と同じ公立小学校の子たちもいた。ママやパパのことについて、学校の教室で百香に何度も聞いて来た子たちだ。百香が算数特進クラスに通っていると聞いてその子たちがとても驚いている様子を見て、百香は少し気分がすっきりした。
パパが消えてからは、百香は学校の同級生と遊ばなくなっていた。色々なことを聞かれても説明できないのに、毎日のように同じことを聞かれるのが面倒になったのだ。もともと習い事をやっている子が多く、一緒に遊んでいる子はほとんどいなかったが、百香が塾に通いだしてからはますます小学校の友達とは遊ばなくなっていた。
けれどその同級生たちが、その日を境に「百香は実はすごく頭がいい」という噂を学校で広めてくたおかげで、自分が学校の中で一目置かれる特別な存在になったような気がして、学校内では自分はあやちゃんのようだと百香は心の中で秘かに自慢していた。
特進クラスにいる自分は誇らしかったが、現実は甘くなかった。六年生になってからは、これまでと同じ勉強量では、百香はどんなに頑張っても、特進クラスの最後の順位辺りをうろうろしていたし、他の教科もあまり成績が伸びなかった。そのせいかは分からないが、百香のママの機嫌は最近ずっと悪かった。
せめてママの機嫌を取ろうと、百香が晩ご飯の片づけをしている最中に電話が鳴った。めったに鳴らない電話なので驚きながら百香は電話に近寄った。最近の連絡は、皆携帯だ。しばらく放っておこうと思っていたが、電話は鳴りやまない。
ママはまだタカシと一緒にお風呂に入っていたので、百香は仕方なく電話に出た。
「もしもし、狭間です」
「ああ。百香ちゃんかい? ママは?」
声の主は、おじいちゃんだった。
「あ、おじいちゃん。今ね、ママ、お風呂」
「ああ、そうか、じゃあ、フリコミが大丈夫だったかってママに聞いておいてくれるかな」
「え?」
「そう言えばママにはわかるから。じゃあね。また遊びにおいで」
電話が切れたタイミングで、ママがタカシと一緒に風呂場から出て来た。
「あれ、電話あった?」
「うん、おじいちゃん。なんかね。フリコミ大丈夫かって」
「わかった。後で電話するね」
そういうとママはタカシお願い。といって自分の髪を乾かしに、もう一度、洗面所に戻っていった。
また《フリコミ》だ。
先週、百香はこの《フリコミ》とやらのせいで、とんでもなく辛く絶望的な気持ちになったことを思い出した。郵便局までの坂道をママの背中をひたすら追いかけた時のことだ。
一体何なんだろう。ママ、なんだかそわそわしてた。
不安な気持ちを消し去ろうとするかのように、百香はタカシにパジャマを着せて、キッチンの椅子に座らせてからストローの付いたカップに冷えたお茶を入れてタカシに与えた。火照った頬のタカシが嬉しそうにそれを飲む姿を確認してから、百香は流しに残っていた泡のついた食器を、考えを巡らしながら再びゆっくりすすぎ始めた。
おじいちゃん(ママのお父さん)は、とても無口な人だった。必要以上のことは話さない人で、百香はあまりおじいちゃんと遊んだ記憶はないが、百香の言うことは何でも聞いてくれる人だった。百香が花や虫と話をしていても笑顔で一緒に話を聞いていてくれる。田舎に住んで、国が出している年金というお金で暮らしているらしい。
「年金って何?」と百香が尋ねると、
「おじいちゃんが、毎月国に払っていたお金が、その何倍にもなって毎月返って来ているんだよ。長生きすればするほどどんな銀行に預けるより増えるんだよ」と、百香に教えてくれた。
「じゃあ、いっぱい長生きしないとね!」
そう百香が言った時のおじいちゃんの少し寂しそうな、それでいて嬉しそうな笑顔が、百香の記憶に残っている。
おばあちゃんは、ママが小さい頃に病気で亡くなっていた。おじいちゃんはとても長い間、ひとりぼっちで暮らしていたが、おばあちゃんがいるから、ちっとも淋しくないんだよ。といつも言っていた。ママはボケるには早いわよと笑っていたが、百香はおじいちゃんが本当におばあちゃんのことを見えているのではないか。と思ったことが度々あった。
タカシがまだ生まれていなかった頃、おじいちゃんのところへ、ママとパパ、百香の家族みんなで遊びに行った時のことだ。おじいちゃんは、朝一番に、おばあちゃんの写真におはようと声をかけ、ご飯を持っていき、庭に咲いたお花を摘んで、写真の前に飾っていた。まるで、そこに誰かがいるようだった。写真の中のおばあちゃんは、ママよりも、うんと若く見えた。ママにも似ているが、百香にも似ている気がした。
パパがいなくなってから初めての春休みに、おじいちゃんの家へ行った時には、朝起きると、ひとりぼっちで自分だけが預けられていたので、百香は自分が捨てられたのではないかと不安で仕方がなくて何時間も泣いていた。
おじいちゃんは困り果てて、最後にはママに電話をしていたが、ママは一向に迎えに来る様子はなかった。十日ほど経ってママが迎えに来てくれた姿を見ても、百香はなんで、ひと言帰る前に声をかけて起こしてくれなかったのかと腹が立ってしようがなかった。それからは夏休みに塾に通いだすようになるまで、ずっとふてくされていて、ママと口を利かずゲームばかりしていたのだ。
その後、その年の年末に三人で訪れた時は、塾に入って頑張っていた百香のことをママがおじいちゃんにずいぶんと自慢していたが、それでもまた置いて行かれるのではないかとずっと百香はびくびくしていた。おじちゃんは大晦日ということもあり、いろいろ楽しませようとしてくれたのだが、何を言われても百香は、「いらない」と言って、ご飯もろくに食べずにかなり長い間、玄関に靴を履いたまま座っていた。
おじいちゃんはママとふたりで一生懸命お正月のごちそうを作っていた。が、お節料理というものは子供が食べても美味しいものではないだろうということで、小さな頃から百香の家の食卓には無かったものだったので、百香の目には少しも美味しそうには見えなかった。
百香は、年越しそばを少しだけ食べ、「もういらない」と寝室に戻ったが、また置いて行かれないようにと実は寝室で寝たふりをしていた。隣の部屋からは、テレビから聞こえてくる年越し番組の音に混じって、おじいちゃんがママに話している沈んだような声が百香の耳に聞こえていた。
「百香がすっかり変わってしまった。子供らしくない。百香のことが心配だ」
おじいちゃんのその言葉の後は、暫く沈黙が続いていた。
「……私の心配はしないのね」
ママの沈んだ声が聞こえると同時に襖が開き、ママがやって来たので百香は慌てて目をつぶった。幸い、前のようにママは独り言を呟くこともなく、線香を付けることもしなかった。百香の隣の布団に入ると、ママはすぐに眠ったようで、あっという間に寝息が聞こえ始めた。百香もそれを聞いて眠りにつくことができたのだけれど、それから百香たちはおじいちゃんの家へ行くことは無くなっていた。
おじいちゃんの家にある仏壇の前のおばあちゃんの写真はずっと変わらなかった。若くて、超が付くような美形ではないのだが、そこそこの美人だ。頬に大きなえくぼのある温かいホッとする笑顔の写真だ。淡い水色のワンピースを着て、水仙の花畑を背景に笑っている。百香はママがこの人の娘であることが信じられなかった。
もしも百香がこの世界から消えたら、このおばあちゃんの写真のように永遠にその時のままでいられるのだろうか。
できることなら、四年生の夏の誕生日、子供らしい百香に戻って時間を止めたかったと、おじいちゃんの家の布団の中で、悲しげな除夜の鐘の音を聞きながら、百香は声も立てずに目を閉じて泣いていた。
それから半年、百香は塾の中に自分の居場所をようやくみつけることができた、そう思っていた。
全ての洗い物を終えて、食器を戸棚に仕舞ってから、百香は辞書で《フリコミ》について調べたのだが、知らない意味の言葉が多すぎで読むことを途中で諦めた。
隣の部屋では、ママがおじいちゃんと電話で話をし始めた気配があったので、百香は、そ知らぬふりで冷蔵庫に飲み物を取りに行くふりをしてママの隣を往復したのだが、
「うん。うん」
という声しか聴けなかった。そうして百香のママは、
「今年の夏休みは、百香が受験前だから、とてもそれどころではないわ」
というような話を最期に電話を切っていた。
電話の会話に《フリコミ》という単語が出てくることは一度も無かった。百香は、ママがわざとその言葉を出さずに話しているように思えていた。
翌日、百香が塾であやちゃんに《フリコミ》について教えてもらおうと尋ねると、とても簡単な回答が帰ってきた。
「お金を、銀行や郵便局から、支払うように言われた所へ送ること」
おじいちゃんがママに、《フリコミ》について聞くってことは、おじいちゃんからママへお金を送ったってことなのか。ママ、お金が無いのかもしれない……。
「振込って、郵便局には四時までの特別な窓口があるの?」
百香の問いに、あやちゃんは、淡々と当たり前のように答えた。
「ゆうちょのネット口座があったら振込はいつでもできんねんけど、郵便局だけは、口座を持ってへんかったら、ATMから現金で他の銀行には振り込みできひんようになってるから窓口でしか取り扱いできひんはずやね。郵便局によって違うかもやけど、四時までちゃうかな。その点は、銀行より一時間遅くまでやってて便利なんやけど手数料が高いって親が言うとったな。
相手から送ってきたバーコード付きの振込用紙が無かったら、ゆうちょ口座に現金をいれてからでないと相手には振り込めんようになってる。振込用紙もゆうちょ口座も持ってない人は、現金振込は窓口でしかできんはず」
あやちゃんも美加ちゃんも何でも知っていると百香が驚いた顔をしていると、様子を察したあやちゃんが、百香に説明した。
「うち、東京大学に行く気満々やから、早々に家族揃ってこっちに引っ越して来てんけど、引っ越して来てからも、お父さんだけはまだ単身赴任してんねん。せやからよく《授業料》とか、特別にお金が必要な時は、連絡して振込をお願いするんよ。父の威厳、保ったらなあかんからな。昔は近くに銀行無いと不便やったけど、今はネットで何でもできるから便利になったってお父さん言うとったよ」
「授業料?」
その言葉に百香は思い当たることがひとつあった。夏期講習の申し込みの締切が、先週までだったのだ。
「今年は、夏期講習は受けないの?」
算数クラスの先生にそう言われたことを百香からママに伝えたのが、先週の事で、そこからママは機嫌が悪くなったような気がするなと百香は記憶をたどった。
そもそも百香自体が、夏期講習に行くべきかどうか悩んでいた。二科目だけは行かせてもらえるかと思い、何度かママに話そうとしていたが、すっかり伝え忘れていた。もしかしたら、ママは去年と同じように今年の夏期講習の授業も無料だと思っていたのかもしれなかった。
百香が持って帰った案内も読んだのかどうかわからないが、とにかくそれを忘れていた。そして百香から、『夏期講習には来ないのか』と先生に聞かれたよと言われ、途方に暮れたママが、おじいちゃんにお金を借りたのかもしれない。夏期講習申し込みの締め切り直前に。
先週ちょっと不機嫌に見えたのは、もしかしたら、全部百香の塾のせい……。
「百香頑張ったね。夏期講習も頑張ろうね。夏が一番大切らしいよ」
翌日塾が終わって、どんよりした気持ちのまま百香が家に帰ると、机の上に置いておいた一学期の成績表を見たママが笑顔で、どんな言葉よりも先に、百香に向かってそう声をかけた。
ママの髪は伸び放題で色が抜け、金髪のようになっていて、生え際からは白い毛が幾つも見えている。顔の両側には小さな黒いしみが幾つも見える。お化粧も最近はしていない様子だった。そのママの姿を見て、いつもならそのセリフを聞いて舞い上がるほど喜ぶはずの百香の心は、逆に深く深く沈んだ。
夏期講習の為に、おじいちゃんからお金を借りたのかどうかを確認したかったのだが、百香は結局ママには聞くことができないまま、それから数日が過ぎた。学校での成績は良くても、塾での成績は下がる一方だった。
そんな成績のためにお金を使って、老婆のように見えているママを見るのが百香は辛かった。もう辞めたいという気持ちと、辞めたらママはどれほどがっかりするだろうという気持ちが、百香の心の中で毎日入れ代わり立ち代わり、現れたり消えたりしていた。
成績が上がらないのは、百香の努力が足りないというよりは、それまで怠けていた子たちが、本気を出し始めた為だった。半年前から本気で全力疾走していた百香に余力はなく、例えるなら伸び切ったゴムのようになっていた。これ以上やっても成績が伸びないのは分かっていた。塾を辞めたいと言えばよかったのかもしれない。けれどママの笑顔を見ていると、百香にはそんなことは言えなかった。百香は早めに家を出て、神社に立ち寄り祈ることが多くなった。
「ママがこれ以上無理しませんように。私立は落ちてもいいです。これからも勉強は約束したからちゃんとします」
本当は辞めたいんです。という本当の願いは、合わせた手をほどいてから小さく呟いた。
私立に行けなかったら、自分は一体どうなるのか。
『もう頑張らなくていいんだよ』
その一言を言ってくれる人が百香は欲しかった。何よりも聞きたかったその言葉を言ってくれる人は、どこにも、ひとりも、いなかった。
六年生の夏期講習前の選抜試験は五年生とは活気が全く違った。受験模試も実試験さながらになり、あやちゃんは、選抜試験でも模試でも相変わらず首位を独走していて、これならどこの私立でも入れますねと言われていた。が、それに反して百香は、希望の私立ではずっとD判定が続いていた。受験科目が四科目の学校を第一希望にしていたのだが、塾で習っていない他の科目の勉強が疎かになっていて点数が伸びなかったのだ。チューター先生に相談すると「二科目受験の学校に変更すればいい」という、百香の予想通りのそっけない返事が返ってきただけだった。
全科目の授業を受けることができる家に生まれ、全てトップでいる余裕のあるあやちゃんと話すと自分が嫌になるので、百香はだんだんとあやちゃんとも話をしないようになった。心配したあやちゃんが、時々声をかけてくれてはいたのだが、「別に」と、百香が作り笑顔でそっけない返事だけを返すことが続き、そのうち、あやちゃんも百香に声をかけてこなくなった。きっと百香から悪いオーラが出ていて、それを見たのかもしれないな。と、百香は皮肉っぽく思っていた。
先月まで、英検特別準備クラスは超満員だったが、今はまたひっそりとしていた。毎週のように会っていた美加ちゃんは、少し前から、またいなくなった。
唯一の心のオアシスだった美加ちゃんは、この前の検定試験で、準一級を見事合格したとかで、英検一級クラスに通うことになったために、塾の日が変わり会えなくなっていた。幸せなお喋りの時間も無くなって、百香の生活は塾と家での宿題をするだけの、往復ルーチンの生活となっていき、必要だと思っていたスマホはもう全く必要なくなって、コンビニでお金を使うことも無くなった。あんなに関心のあった新作のスイーツにも興味が無くなった。コンビニは、もしかしたら、幸せな人が来るところなのかもしれないなと百香は思った。それからは、百香はママに口紅か洋服でも買ってあげようと、少しずつ小さな貯金箱にお金を貯めるようになった。
皆がどんどん自分の目標をクリアしていく中、百香は自分だけがひとり取り残された気分だった。やっと自分の居場所を見つけたと思っていた塾も、結局は自分の居場所ではなかったということだ。何とかあやちゃんと同じ特進クラスのまま夏期講習を迎えることができたものの、小学校生活最期の夏休みを自分がロボットになったような気持ちで毎日必死に課題に取り組むだけの日々が続いていた。鏡を見たときの自分の顔が、去年テレビで見た塾の子たちのように無表情になっていることにも気づいても、百香はなんとも感じなかった。
そうして、去年より更に過酷な夏期講習が始まって暫くした頃、もうすぐお盆という時に、百香は塾の受付で呼び止められ、今度は《受験専門クラスのご案内》というまた別の用紙を手渡された。
「家に帰ったら、必ず保護者の方に渡してくださいね。この塾に既に通っている特進クラスの生徒は、優先的に受験専門クラスへ進むことが可能です。受験専門クラスを希望する場合は、来週までに申込書をお願いしますね」
そう言われて渡された案内の中身を読んで百香は目を疑った。封筒の中には、六年生の二学期からは私立受験に特化した専門のクラスと、受験を希望しない生徒に向けた普通クラスを選択できると記載された申込用紙が入っていた。受験専門クラスに進むには別に授業料が必要で、そこには普通クラスの倍近い授業料が書かれていたのだ。
塾からもらった申込書は、暫く百香の鞄の中にあった。ママに渡すべきか二日間悩んだあげく、塾で遅くなる日にキッチンのテーブルに置いておくことにした。きっとまたママが不機嫌になると百香は思っていたが、前に、超進学塾の授業料の金額を聞いてママが諦めたように、今度も諦めてくれるかもしれないという淡い期待が百香にはあった。が、そんな期待も空しく、塾が終わって家に帰ると、百香はママから申込書を渡された。
「書いておいたから出してくるのよ」
渡された用紙には、受験クラスの方に丸印がつけられていた。
「ママね、明日は早めにタカシのお迎えに行くわね。お盆の買い物があるのと、また郵便局へ行かなきゃいけないから。でね、悪いんだけど。荷物が多いから、手伝ってくれると嬉しいんだけど」
疲れた顔で百香のママは呟くように言った。百香はいたたまれない気分になった。
「うん。明日は塾もないから平気だよ。ねぇ、ママ……」
「何?」
「郵便局って、塾の授業料のフリコミ? 百香、普通クラスでいいよ。夏期講習で、いっぱいお金がかかったばかりなのに」
「そんなこと子供が気にしなくていいの。百香が、いっぱい頑張って、自分自身の力で特進クラスに入ったんだから、当然の権利よ。受験まであと半年くらいなんだからママも頑張っちゃうから。あ、でも今年はお誕生日プレゼントはケーキだけになっちゃうなぁ。お局様も呼んでピザパーティしよっか? いいよね?」
百香のママは小さく笑った。笑った時の頬がげっそりとへこんでいて、口の両側にはくっきりと縦に線が入っていた。顔の周りの白い毛は一層伸びて、蛍光灯の下できらきらと光っている。
百香は作り笑いを浮かべて無言で部屋に戻ると、貯金箱をまず確認した。まだカラカラという音が聞こえるくらいの軽い貯金箱を手に、百香はため息をついた。
あんな姿になっているママをお局様が見たら、きっとびっくりするよ。
あんな姿でピザを奢ってなんていうつもりなの? ママはいつの間にこんなおばあちゃんになっちゃったんだろう。ママ、自分の姿に気づいてないのかな。別に誕生日だからって、何かを貰えなくったて構わない。
このどうしようもなく嫌な気持ちさえなくなれば……。
その翌日はお昼ごろになっても空の色が薄暗く、気温はじっとりと蒸し暑かった。大きな台風がこちらに近づいて来ています。と、テレビのニュースが何度も同じことを告げていた。
「土砂崩れの危険性のある地域にお住いの方は、早めに安全な所へ避難してください」と何度も呼び掛けている。
天気予報では、この辺りは夕方から雨模様と言っていた。約束通り早めに家に帰って来たママは、大急ぎでタカシを保育所へ迎えに行き、一旦家に戻ってからは、雨が降りそうだからとタカシにお友達のお家で留守番をするようにいろいろ説得していたが、タカシは一緒に行くと言ってきかなかった。
すっかり大きくなっていたタカシは、先週、百香が小さいときに乗っていたお古の自転車をもらってからは、とにかく外に出かけたいと駄々をこねるようになっていた。ママの最強武器の電動自転車の後ろのチャイルドシートは既に取り外されていて、代わりに大きなカゴがつけられている。
「困ったわね。ママたち急ぐんだけど。亮くんママにももうお願いしているのよ。断らなきゃいけないわね。本当に、いい子にしていられる?」
「いい子にしてるから、ぜったい、ぜえったい、一緒につれてって!」
タカシは泣きながらむくれていた。ママは、何をするにも時間のかかるタカシを置いて行きたかったのだろう。百香でさえ、ママとタカシが消えた日は絶望して泣いていたくらいだから、甘えんぼうのタカシには、たとえお友達がいたところで、よその家で待つことは到底耐えられそうにないだろう。ママは時々悪魔みたいに冷たくなるのだ。特にこういう何かをしなければならない日には。
泣きわめくタカシを置いていくことを諦めて、ママは自分から離れないようにと何度もタカシに言い聞かせながらレインコートを着せていた。レインコートを着せられたタカシは、暑い暑いと文句を言っていたが、これを着ないと連れて行かないと言われ、口をへの字にしている。
空は鈍い銀色だった。百香は急な雨で汚れてもいい服を着ようと、この前も履いていた白のデニムを履いた。自転車の油と埃の混ざった、グレーの汚れがうっすらと付いたままだ。洗っても綺麗に落ちなかったわ。と、ママががっかりしていて、それからはタンスの奥で眠っていて一度も着られていなかったものだ。お気に入りだった袖にフリルのついたシャツは、そればかり着ていたのでくたくたになって捨てられてしまっていた。百香の大切なものはどんどんなくなっていく。最近は、身長も伸びなくなり、新しい洋服も買ってもらうこともほとんど無くなっていた。
百香はクローゼットにある中で一番汚れても後悔しなさそうな、ママが買ってきていた黄色のセンスのない赤いハートが胸の真ん中に付いたTシャツを着て、リュックの中には青地に白の水玉模様がついたレインコートを入れた。
こうして結局、百香は、百香のおさがりの自転車に乗ったご機嫌のタカシを後ろから見守るようについていくことになった。なんとかママに、これまで通り普通クラスで十分だともう一度話そうとしていたが、百香は結局ずっと言い出せずにいた。ママは百香がお金の心配をしていると思っていて、百香の本心は伝わっていない。ママに失望されるかもしれないという怖さのせいで、進学クラスにはもうついていけないので辞めたいという事実を、百香はなかなか言い出なかった。勉強のできない百香なんて、おそらくママには無価値だ。百香はそう思っていた。
蛇行運転をしているタカシと、その後ろにいるママの後姿を見ながら、ついこの前、同じようにママとタカシのあとを郵便局まで自転車で追いかけたことを百香は思い出した。あの時、百香は後ろから絶望的な気分でタカシの揺れる頭を見つめていた。
あの日、ママは何かにずっと怒っていた。あれはきっと、百香の夏期講習のための振込だったんだ。前の日の夜に、どうしてもっと早く言わなかったのかと叱られた。きっとそうだ、間違いない……。
おじいちゃんにお金を借りるということは、パパがいなくても大丈夫と啖呵を切っていたママにとってはプライドが許せないことだったのかもしれないと百香は想像した。あの時、一度も振り返らなかったママの背中を思い出しながら、何故、そこまで塾や私立校に固執しながらお金を費やすのかが、百香には理解できなかった。
塾に行くことよりも、ママが綺麗な格好をして笑ってる方がずっといいのに。パパはどうしてるんだろう。こんなにママが大変なのに。こんなに百香が苦しいのに……。
湧き上がってくる、恨む気持ちが止められず、百香の心に深い渦を巻く。
あんなの、父親じゃない。
公園の角まで来ると、ママがタカシと共に、郵便局とは反対の方向へと曲がった。百香が不思議に思っていると、ママが少し振り返りながら叫んだ。
「百香、タカシはあの上りの坂道は無理だろうから、国道をぐるっと回ってからいくわ。時間かかるから先に行って、郵便局の振込窓口で、番号札だけ取って待っててくれる? 悪いわね」
「わかった!」
そう素直に返事を返すと、百香はママたちと離れて坂道を上った。
タカシの蛇行運転っぷりはパパにそっくりだ。あの坂道は確かに無理そうだし、当分時間がかかりそうだ。
番号札ってなんだ?
ともかくママとタカシが来るまでに、なんとかママを引き留める方法を考えなければと、何も思いつかない頭のままで百香は坂道を上って行った。
ついこの前と同じように。
(第九話へつづく)↓
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