冥道(ハザマ)の世界:第十七話 クチナシの庭
「どうだった?」
白い犬が百香に声をかけて来た。
その声にはっとして、百香は自分が今どこにいるのかを確認した。暗い部屋の真ん中に、正座の姿勢で座っているようだ。
「早く追い出せ。俺は人間は信用しない」
黒い犬が、そう言う声が聞こえた。何が起こっているのかを理解しようとしたが、まだ百香の頭はぼんやりしている。寝不足で夢を見て起きた時のようだ。しかもかなり嫌な夢を見た時の気分だ。
百香はゆっくりと立ち上がると、紫色の着物がまたはだけていることに気がついた。何ともなかったはずの腰やひざの痛みが再び脳に届き、体中を支配する。どうやら、お年寄りの年齢に戻ったようだということが分かった。
夢だったのか。いや、どちらの世界が夢で、どこからが現実だったのだろう。
現実などひとつもなかったのだろうかと百香は頭を振りながら、ふらふらと立ち上がった。
「じゃあ、気を付けてね」
白い犬が、お地蔵様と同じことを言うのと同時に百香の背後で引戸の襖が開いて、よろけるように振り返った百香の視線の先に、廊下と前の部屋の襖が見えた。挨拶の言葉ひとつ発することができないまま、遠くに目の焦点を合わせながら、ゆっくりと百香は部屋の外に出た。お局様が、着物が擦れ合う音を響かせて、廊下を急いで小走りでやって来るのが遠くに見える。
「おかえりなさい。思ったより早かったですね。《夢と現実の間》はどうでしたか?」
まだ全身の力が入らず、百香は答えることもできなかった。そして、また同じ場所に戻って来たことに安堵と失望の両方の気持ちを抱いていた。お局様は、百香の身体を後ろから支えながら、
「あら、杖をどっかに忘れましたね、まあいいですよ。後で探しておきますから」
と言い、お局様は百香の左後ろに立ち、左手を後ろから支えていた。その右手は、百香の腰の後ろあたりに回されている。その手を優しく左右に揺らし、背中を撫でながらお局様は百香に寄り添っていた。《ハザマの間》まで来ると、お局様はまるで介護が必要な人に言うように百香に声を掛けた。
「段差があるからね。気を付けてくださいね。畳の縁もつまずきやすいから」
お局様はそう百香に注意を促しながら、ゆっくりと部屋に入って行った。百香は頭がぼおっとして、強烈な眠気が襲ってきて全身にまとわりつくのを感じていた。
お局様は百香を布団の位置まで連れて行くと、少し横になりましょうねと百香に促した。布団は相変わらず同じ位置に敷いてある。
黙って頷くと、百香は無言のまま布団に入り横になった。
「かなりお疲れだと思うので、一度休んでから出発しましょうね。歳をとると、昼間は眠いもんなんですよ。だから朝早くから目が覚めるんですけどね」
お局様の笑うような声が、いつもよりもずっと遠くに聞こえるように百香には感じていた。今さっき起こった全ての出来事を、眠気と戦いながら頭の中で追う。
自分を正当化しようとして、思いがけず自分の命を差し出してしまった。全部差し出すと言えないところが自分らしかった。そうだ、自分を正当化している。
本当はタカシなんかいなくなればいいのにと思ったことが何度もあった。それを誰かに気づかれたことも、指摘されたことも一度も無かった……。
今まで生きてきて、こんなに自分のことを悪く言われたことはなかった。
津曲先生の顔で告げられたことが、百香には想像以上にショックだった。確かに、自分より成績の悪いクラスメイトから言われたのならここまでショックはなかっただろう。
それはつまり、主様が言ったように、百香が自分の物差しで人を見下し、自分の方が上だと考える愚かな人間だということの証明に他ならなかった。
何よりも衝撃だったのは、百香はママのコピーだと言われ、ママのことを非難され、ママの全てを否定されたことだった。自分の親が、自分以外の誰かから否定されるなんて、百香は思いもしなかったのだ。
「タカシ……」
百香はぽつりと呟いた。
「何か言いましたか?」
お局様が尋ねるが、百香はもう一度声を出すことはなかった。
「すぐに温かいお茶を持ってきますからね。」
そう言うとお局様は、今入って来た襖を静かに閉めて出て行った。
どれくらい眠っていたかわからないが、百香が目を覚ますと、お局様が微笑みながら百香のことをを見つめていた。部屋には柔らかなクチナシ茶の香りが漂っている。
「あら、やっと目が覚めましたか。ずいぶん眠っていましたよ。と言っても小一時間くらいですけれど、こっちの時間でね。えっと、あなたの時間では……」
「一年ね」
百香はよいしょと言いながら体を起こした。一年間眠り続けた身体は、あちこちが痛んだ。
「もうすっかり、こちら時間で過ごせますね。さっきまでお召しになられていた紫のお着物は、ずいぶん汚れていたので、失礼ながら寝巻に着替えさせていただきましたよ」
そう言われて、百香は両袖を上げてみた。ガーゼのような薄い寝巻を着せられている。ママがタカシを産んだ時に来ていた物に似ている。とにかく軽いので体に負担がなくて心地よかった。
お局様は、百香の様子を見つめて何か言いたそうにずっと微笑んでいる。
「さて、と」
お局様は、改まったようにひとつ「コホン」と咳払いをした。
「傘寿(さんじゅ)おめでとうございます!」
お局様は、誇らしそうに黄色のものを百香の目の前に差し出した。
「傘寿には、この島国では黄色のものを贈る決まりですからね。黄色が《死》をイメージする国もあるんですけれども……。あら、余計なことを言いましたね」
手渡された黄色いものを手に取って見て、百香は何か懐かしさを感じた。それは間違いなく百香のキッズ携帯だった。誕生日に買ってもらった黄色のやつだ。
これって、幼稚園の子の帽子の色じゃん。歳を取っておばあちゃんになるとまた黄色に戻るのか。年を取るっていうことは子供に戻るってことなのかもしれない。でもこれ、贈り物って、そもそも私のものだったような……。
携帯の画面は真っ暗だった。時計の表示も消えてしまっている。
「こちらもちゃんと見つけましたよ」
百香はお局様から水色のリュックをぽんと手渡された。
「自転車はね、屋敷の塀の外に立てかけてあります。ボッコが、枕返したちにお願いして、ピカピカに磨くように言っていたみたいでしたけど。お礼が高くつくと思うんだけどねぇ。あとは、これ、こちらに来られた時に身に付けられていたものです。体型的には最初のころと同じくらい小さくなってお痩せになっているんで着られると思いますよ」
そんな馬鹿なと思いながら、百香は白いデニムと黄色のTシャツに着替えた。すると身体は本当に縮んでいたのか、本当にすっぽりと着ることができた。
嘘でしょ?
鏡を見ると、黄色のセンスのないハート模様のついたTシャツを着て、白いデニムパンツをはいているファンキーな白髪の老婆が、驚いた顔で自分を見ていた。
「完全に、やばい人じゃん」
まぁ。こういうおばあちゃんがいても面白いかも。と考えて百香はぷっと噴き出した。あやちゃんなら何て言うだろう。あやちゃんを思い出したら、ボッコ姉さんも連動して頭に浮かんだので、お局様に聞いてみたが、もうここにはいないと言う返事だった。
ちゃんとお礼を言いたかったな。
そう百香が心で思っていると、お局様が、きっとお気持ちは届いていますと言ってほほ笑んだ。そして、さぁ、行きましょうかとお局様に誘われて、ふたりはゆっくりと立ち上がった。
「ねぇ、私ここにずっといられないの? だって、戻ってもこれじゃ……」
元の世界に戻ったところで、どうなるんだ。お局様のいつも以上の優しさに、百香の心は揺らいだ。そんな不安そうな百香を見て、お局様は優しく微笑みながら、百香の手を取った。
「主様は、外に出ることを許されたんですよ。主様は、あなたと大切な約束をしたとおっしゃっていましたよ」
百香は、しばらく考えてから、コクンと頷いた。百香の頭上の心字を読んで、お局様は何度も頷いている。
元の世界に戻れる確証はなかった。元の世界に戻ったところで、もう誰もいないかもしれない。それでも主様から与えられた課題は終わってないのだ。百香はそう感じていた。
お屋敷の中は、さっきまでの《夢と現実の間》の騒がしさとうって変わって、しんと静まり返っていた。そういえば、お局様と百香以外の人も神様も妖怪も精霊もひとりも見かけない。百香が不思議に思い辺りを見回していると、その心字を読んだお局様が、百香に教えてくれた。
「お盆が終わって送り火で皆さんをお送りしたら、もうここにはいないんですよ」と。
「ねぇ、お局様、私サンジュとかのお祝いしてもらったけど、いくつになったのかしら?」
「八十歳ですよ。黄色の携帯嬉しかったですか? その黄色のTシャツもお似合いですよ」
それには答えず、百香は続けた。
「本当に三日で七十年以上過ぎたのねぇ。ねぇ、こちらのお盆は来年もあるの?」
「ここがなくなると厳しいですねぇ。それにそちらの来年はこちらでは同じ日ですよ」
お局様が笑う。
「毎年お盆はあったけど、ここではみんな同じ日だったのねぇ。ほんとに不思議」
「私も、今回ばかりは初めての経験で、驚いています」
「謎がいっぱいのままね」
ふふふとで笑いながら、百香とお局様は入って来た玄関の方へ向かった。玄関でお局様が奇麗に洗ってくれていたスニーカーを百香が履こうとしていると、突然、百香が手に持っていた黄色の携帯がぶるぶると震えだした。
そんなはずは……。と思い百香は手の中の携帯を見た。何故か携帯の上にある文字が全く見えない。百香が目を細めて驚いていると、お局様が「もっと肘を伸ばして、携帯画面から顔をうんと離すと見えますよ」と百香の様子を見ながら笑った。
《Rebooting……Warning……》
顔から遠ざけてようやく見えた携帯の真っ黒の画面には、何度も繰り返される英語の表示が見えた。今までこんな画面を百香は見たことがなかった。そもそも、電池はとっくに切れているはずだ。
何だこれ? 日本語で書いてくれなきゃ意味わかんないし。やっとの思いで見たのにこれかよ。てか、なんでこんなに近くが見えなくなってんの?
百香は腹立たしい気持ちで画面を見つめた。
こんなにおばあさんになっても腹も立つし、お腹もすくんだ。人間って外見や身体機能が変わっても、中身はそんなに変わらないものなのだろう。
靴を履いて滅入った気分で玄関の外に出て、百香は来た時にはそこにいたお地蔵様がいないことに気が付いた。そして、ふとボッコ姉さんがくれた、この屋敷の見取り図を思い出した。手元にあったものはどこかにいってしまってどこにもない。百香は頭の中の記憶を必死で探った。
「どうしたんですか?」
お局様は心配そうに百香を見つめている。
「この玄関から元の世界に帰れる保証はあるんですか?」
そう問うと、お局様は少し慌てた様子を見せた。
「なにせ私も初めての経験で、元の場所に戻れるかと言われると、何とも……」
お局様は言葉を濁した。背中に置かれた手は、一刻も早くこの建物から全ての人を追い払おうとしているようさえ百香には感じられた。
そうだ、「コ」の字の廊下……。
「ちょっと、忘れ物」
そう言うと、百香はもう一度靴を脱いで建物に入ろうとした。お局様は、『私が取りに行きますから』と言い、百香について来るが、百香は聞く耳を持たず、スニーカーを指に挟んで持ったまま部屋の中へ戻っていく。
玄関を入り、左に曲がる。少ししか歩いていないのに、足も腰も限界に痛くなって来て、百香は何度も立ち止まった。
十字の廊下を通り過ぎ、《ハザマの間》も通り過ぎた。建物の角まで来ると。やはり廊下は右にしか行けなくなった。後ろからついてきていたお局様が心配そうに百香に尋ねてくる。
「何をお忘れに?」
「ちょっとした確認をね。あちらの方には行けませんかね?」
左側の庭を指さして百香が尋ねると、お局様は驚いた表情を見せた。
「クチナシの庭を歩くってことですか。まぁ、縁側の下に大きな石があって、そこから庭には降りられますけれども……」
お局様はまた言葉を濁している。
百香が縁側の下を覗くと、そこにはお局様が言ったとおりの大きな石があった。
「よっこらしょっと」
百香はゆっくりと石の上にスニーカーを置き、時間をかけてそれを履いた。
全く歳をとると、全速力でやっているつもりなのに、全ての動作がスローモーションだ。
そう思いながら百香は膝の痛みをこらえてなんとか庭に降りた。お局様は、「何をするつもりですか」と、大慌てで後ろからついてくる。
もうすっかりクチナシの花は無くなって、赤い実がついていた。地面をよくよく見るとクチナシの木の間には飛び石が置いてあって、歩けるようになっていた。クチナシの群生のせいで見えなかったのだ。
いつだったか、男の子がここを夜中に歩いて反対側にわたっていたのを百香は思い出した。ついさっき、お地蔵様は、帰り道を間違えないようにねとも言っていた。
……あれはきっと帰り道へのヒントだ。
「ひとつ聞きたいことがあるのだけれど」
立ち上がって後ろを振り返り、百香はお局様に声をかけた。
「はい、何でしょう?」
お局様も百香の後ろに続いて、草履を急いで履いている。百香には、お局様の表情が一瞬曇ったように見えた。胸騒ぎを覚えた百香は、庭の飛び石をゆっくり歩き進めながら、前を向いたまま尋ねた。
「初日と、二日目の夜、夕方に私の膝くらいの背丈の子が縁側にいてね、顔は見えなかったんだけど……。初日は、《一の間》の前の縁側、二日目は《ハザマの間》の縁側から、ちょうど今のようにこの庭を横切って、また《一の間》の縁側へ歩いて行った子がいてね。ふたりとも同じ子だと思うの。あれは……弟のタカシ?」
そうでないことを祈りながら百香が尋ねると、お局様は、後ろから百香の質問に、なんだそんなことかというような明るいトーンで答えた。
「ああ……それなら多分お地蔵様です」
「えっ?」
「お地蔵様、の姿をされている時は、お地蔵様って呼んでます」
「どういうこと?」
百香は立ち止まって後ろを振り返った。
「あ、あの方は、こちらの主様であり、お地蔵様であり、奥の間の大王様でもあります。変幻自在なんです。全部でいくつの姿をお持ちなのかも私たちにも分かりません。ここを歩かれていたのなら、やはりお地蔵様でしょう。ここは主様、いえお地蔵様の道なので、他に歩こうとする勇気のある者は、おりませんので」
なるほど《夢と現実の間》にいたのは、百香とお地蔵様、いや、大王様、いや結局は主様しかいなかったのか。
そう考えると色々なことに百香は合点がいった。この道の話をボッコ姉さんも避けた。大人から歩いてはいけないと言われると、絶対に歩く子供の心理を知ってのことだろう。
しばらく庭をまっすぐ進むと、飛び石が二手に分かれるのが見えた。左の小さな飛び石は、《一の間》の下にある大きな石まで繋がっているようだ。もう一方の塀の方に進む道の敷石の方は、ずいぶん幅が狭かった。二手に分かれる場所で、百香は再び《一の間》の縁側に目をやると、あることをふと思い出した。
「あ、それとね、ここに来た最初の夜、そのお地蔵様に《一の間》の縁側で声をかけられて、そのあと誰かに口を塞がれたんです。あれ、誰だったんでしょうかね?」
百香はまた振り返ってお局様をじっと見つめた。するとお局様は申し訳なさそうに頭を下げた。
「まさか、覚えておいでとは。本当に手荒なことをしてすいませんでした。あの時間は鬼の時間で、騒ぐと鬼が怒るんですよ。それに《一の間》には……」
「まだ隠し事が?」
百香がぎろりとにらみつけると、お局様は覚悟したように、言葉を発した。
「来られたばかりの日の夕方、あなたのお父様が《一の間》にいらっしゃいました。まだ四十歳とお若く、重い病気で亡くなられたようでした。ハザマの間から出て来たあなたの姿を《一の間》から偶然ご覧になり、あなたのことを悲しませたくないからと、どうか娘から見えないようにしてくれないかと頼まれたのです。
ちょうどあなたが《神々の間》の方へひとりで無断で行っていたころです。そのあと、お父様は希望されて《家族の間》へと移られました。《生と死の間》の方が、すぐに奥へ行けますよとお伝えしたのですが、『私は病になってからも家族に愛されてとても幸せでした。親や親戚に会えるかは分からないけれど、ゆっくり《家族の間》で過ごしたい』とのご希望でした」
百香はそれを聞いて愕然とした。
ここに来てすぐパパがいた? パパ、ずっと病気だったの?
「あの、最初の夜にあなたがお召し上がりになられたものは、お父様へのお供えものだったんです。勝手なことをして申し訳ありませんでした。お父様が本当にあなたのことを心配されていて、
『どうして娘が《ハザマの間》にいるのか? 娘は大丈夫か?』
と、それはそれは心を痛めておられましたので、特別な事情でここにおられるので心配ない。誰かを探しているのかもしれないとお伝えしたところ、自分について来ないよう、探さないよう、気づかれないようにしてくれと頼まれました。
私はまだ貴方様のこともよくわかっておりませんでしたし、大事な時期で何かあると大変なことになると、とても怖かったので、お父様の頼みを聞いて夕方までに《一の間》とあなたの布団の周りにだけ結界をはり、あなたから見えなくした次第です」
クチナシの庭の真ん中で、お局様は、申し訳なさそうに俯いて丁寧語を続けている。百香の方がずっと年上になってからは、心からいたわってくれる。
お局様のせいではない。パパの最期の願いなら聞いて当たり前だ、叶えてあげられてよかった。今ここで泣いたら、お局様を困らせてしまう。
泣いちゃ駄目だ……。
溢れそうになる涙を、百香は必死で止めた。
もしかしたら、もう一度会えるかもしれないんだ。ここで諦めたら駄目だ。それでも……もう会えないとしたら。ここで、パパに……会いたかった。
お局様は、そんな百香の心字を読むと、目を潤ませ着物の袖で目頭をぬぐっていた。百香は涙を見せまいと、決意した表情で塀の方へ向き直り飛び石の小道をそのまま塀に向かって数歩進んだ。
塀の前には背の高い木があった。《ハザマの間》から見えていた桜の木だ。ツクツクボウシが鳴いている声が聞こえる。その後ろに伸び放題で二メートル位はありそうな背丈のクチナシの木があった。
百香がその木を手で押しのけると、木の下から、不格好な、この家に全く不似合いなアルミサッシの引戸が出てきた。埃をかぶって真っ黒になっている。百香の思ったとおりだった。
汚れすぎて遠くからは塀と同化して見えるが、百香が掌で少しだけこすってみると、明るい水色がそこから顔を出した。
「こんなところに引戸が?」
お局様は驚いたという声をあげた。どうやら演技ではなさそうだ。百香が引戸に手をかけ、横へ少し押すとガガッという音を立ててドアが少し動いた。鍵はさび付いて壊れてしまっているようだ。百香は不用心だねと心の中で思った。
「まぁ、ほんと不用心なこと」
お局様が後ろで同意の声をあげた。後ろを向いているから心字を読んだわけでも無いのだろうが、思うことが同じで可笑しくて、百香は思わず笑みが出た。
最初の頃は、心を読まれることに抵抗があったのだが、この数日で、もう心を読まれることに慣れすぎて、百香は口数がどんどん減っていた。何も言わなくても分かってもらえる心地よさも好きになってきていた。
元の世界へ無事に戻れたら、ちゃんと自分の心で思ったことを口に出そう。自分が住むべき世界は、口に出さなければ心が見えない世界なのだから。たとえ、口に出したとしても、その本当の心は見えないかもしれないけれど。
引戸は長らく使っていなかったようで立て付けが悪くなっていて、横にはなかなか滑らなかった。今ある全ての力を込めて、百香が引戸を少し上にあげてみると、ガガガとまた少し横に動いた。おじいちゃんの家の雨戸で学んだ方法だ。
「そこから、出るおつもりで? 大丈夫でしょうか? お手伝いしましょうか?」
お局様が後ろから声をかけてきた。
「きっと、大丈夫。だめでもともと。お願いします」
百香はお局様に持たせているリュックを、自分に背負わせてくれと頼んだ。そして背負う前にリュックから青い水玉模様のレインコートを取り出した。
「何もお礼ができないので、これ良かったら使ってください」
百香はそう言うと、お局様にレインコートを手渡した。リュックの前ポケットに携帯を入れてもらい、リュックを背負う。先ほどのReboot…の表示は、ずっと携帯の画面の上で点滅している。
「この引戸ね、少し上に持ち上げてから、横へ引くと開きやすいと思います。私が反対側から押しますので、そちら側を押し上げてもらってもいいですか?」
それから、と、百香はお局様の方に向きなおり、これまでで一番真面目な顔で伝えた。
「あの、これから先、私がどうなっても、お局様に責任はありません。本当に良くしていただきました。言葉に出さず黙って多くのことを支えてくださったこと、心から感謝しています。いただいたお食事は、どれも心がこもっていて美味しかったです。ありがとうございました。どうかお元気で。そして、また機会があったらお会いしたいので、ずっとキャリアウーマン続けていてくださいね」
百香はにっこりと笑って見せた。心からの笑顔で。
「はい。お待ちしていますよ。ハザマ様」
そう言うと、ふたりは目を見あって頷き合った。お局様がありったけの力を込めて引戸を持ち上げたのに合わせて、百香は引戸を横に力いっぱい押した。
ガガガガガーッ!というレールと何かの金具が擦れあう音が聞こえ、ドアの上半分だけがいびつに斜めに開いた。その隙間から百香は勢いよく外へ飛び出した。足が折れてしまうかもしれないと思いながら。
「お待ちしていますよ! きっと、またどこかで!」
飛び出した百香の背後からお局様の声が聞こえた。
斜めに開いたドアの向こうへと百香が身体を宙に投げ出し、空高く飛び跳ねながら見た四十五度に傾いた景色の中には、見覚えのある自動販売機があった。少し高い位置から見下ろす視線の先には、車とタカシ、ママも見える。
そしてその自動販売機の足元には、百香の方を見あげニタリと笑うお地蔵様がいた。
(第十八話へつづく)↓
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