見出し画像

【2023年10月16日、福島取材その2 浪江町津島へ】

「有料」とありますが、基本的に全て無料で読めます。今後の取材、制作活動のために、カンパできる方はよろしくお願いします。
〜〜〜〜〜

<続き>

 10月16日は、本来は鵜沼久江さんが双葉町の農業委員会に参加するはずだった。しかし議題がないということで、この日の会議は中止となった。特に予定もないのに双葉町の方である鵜沼さんに頼んで浪江町津島を巡るというのは、実は少し後ろめたいところもあった。しかし、震災直後に津島にも一時避難したことがあったと聞き、それなりに意味はあったのだと胸を撫で下ろした。

 津島稲荷神社での件を役場に尋ねても素っ気ない返事しか返ってこなかったことは少し残念だった。しかし、お役所仕事とはそういうものである。地方だからといって特別フレンドリーかといえば、そんなことはないのかもしれない。そんな役場を後にして、津島中学校へ向かう。

津島中学校。

 津島中学校は思ったよりも大きな校舎だった。最盛期はここに一体何人の中学生が通っていたのかわからないが、その大きさには若干驚いた。敷地内の空間線量は、0.5〜1.0μSv/hほど。今年3月末まで帰還困難区域であった割には、さほど高くない…といってもそれは相対的な話で、この数値は「放射線管理区域」レベルの数値であり、本来は避難指示解除していい場所ではない。高線量地帯に何度も通っていると、どうにも感覚が麻痺し「線量インフレ」状態になりがちだ。

避難時のメッセージなど、当時の連絡事項がそのまま残されている。

 正面入り口の窓から中を覗くと、黒板2枚とホワイトボードが置かれていた。よく見るとそこには、ここが避難所になった当時の生々しい文言がいくつも並んでいた。「連絡してください」「津島小にいます」「TELください」。外部から探しに来た人が見やすいように、おそらく当時からこの場所にあったのだろう…何ともいえない感情が噴き出る。

浪江町の山間部で避難指示解除されたエリアは、全体では非常に僅かなものに過ぎない。

 津島中学の体育館には、「スクリーニング場」の紙が貼られていた。まさか震災直後の、と思ったがそんなはずもなく、どうやらここは津島地区の除染作業が行われていた時の臨時スクリーニング場だったようだ。今現在は、この津島中学の入り口の方に、広い敷地のスクリーニング場が出来ている。

津島地区の特定復興再生拠点区域の除染時は、ここが臨時のスクリーニング場になっていたようだ。

 津島中の次は、福島県立浪江高校津島校へ。一階には全てベニヤ板が張られてあり、中の様子を見ることは出来ない。校庭は除染がされており、柔らかい砂でふかふかだ。除染は結構なことだが、正直言って、こんな校庭で授業を再開することはおそらく不可能だろう。これは空間線量を下げるための除染であって、決して学校再開のためのものではない。柔らかい土の上には狐と思われる足跡がついていた。

福島県立浪江高校津島校。
「飛翔」して全国散り散りになってしまった。

 津島中学ではずっと車の中にいた鵜沼さんが、車からおりてきた。「少しだけど、ここにいたこともあったんだよ」。ここで隠れるように過ごした時期もあったという。当然ながら、その時はここが高線量だったことなど知る由もない。次の目的地、津島小学校へ向かいながら、「こんなところにいたんだねえ。あの時は周りを見てる余裕なんてなかったよ」と漏らした。

津島小学校。

 津島小学校。震災からちょうど10年の時、テレビユー福島はここから中継を行っている。放送を仕切った木田修作記者から送ってもらったDVDが手元にある。ここは当時は帰還困難区域であったが、アナウンサーが防護服を着ずに中継をしていて、そこだけ注文をつけた記憶がある。それから2年半、今の僕は帰還困難区域や中間貯蔵施設エリアでも防護服を着ずに入るのが普通になってしまった。放射線防護について、こんな惰性の対応ではいけないのだが、完全に「線量インフレ」状態の自分がいる。

紅葉が綺麗だ。ニノキン像が切ない。
校舎内は綺麗に掃除されている。

 かつてテレビで見た津島小学校が目の前にある。除染は行き届いており、空間線量は0.3〜0.8μSv/h程度。しかしここに子どもたちが戻ることはおそらくない。そのことを、一体日本中のどれだけの人が知っているのだろう。帰れない土地があることさえ忘れている人たちや、震災を知らない子どもたちへ、どううまく伝えていくか。難しい言論や科学だけでなく、もっとわかりやすく、深く食い込むもの。それがアートであり絵本だと思う。

<続く>


ここから先は

0字

¥ 300

サポートしていただけると大変ありがたいです。いただいたサポートは今後の取材活動や制作活動等に使わせていただきます。よろしくお願いします!