不安定とは_生きている_ということではないか_

不安定とは「生きてる」ってことじゃないか。

自己否定が、流行っている。

いつ頃からだろう、見かけるようになったのは。
会社をやめた30代前半くらいからかな。

児童館でも流行っている。
「わたし、バカだから」「どうせ無理でしょ」「おれにはできない」といった言葉がすこしも深刻そうでなく、常套句のように出てくる。大人でもそういう言い方をする人がかなりいる。

それは、日本文化において美徳とされた謙遜とは、だいぶ違う気がする。
奥ゆかしくもなんともないし、むしろ自分を否定することが「自分らしさ」をアピールしているように聞こえる。「NOと言えない日本人」だったはずなのに。

そして、その「自分はダメだ」と固く信じている自分に対しては、驚くほど肯定的だったりする。

僕は人が語ること(ナラティブ)には、強い力があると思っている。
だから、自分を否定することを言い続ける人は「そういう自分」になっていくのだと思う。

自己肯定感を上げたいと声高に言われる昨今、あまり得とは思えないのに、なんでそんなことをするのか。損得だけで言ったって「ダメな自分」よりも「素晴らしい自分」に定位しておいた方がよさそうなものなのに。

と、考えていたら「安心しやすいのではないか」と思いついた。

「自分がダメだから」という説明は、さまざまな困難の回答になりやすい。なにが起きても「自分がダメだから」とすることで、一応、理解できた感じがする。そして「わかった」という安心感が得られる。

親や先生など外部の権威者から怒られるような状況では「自分が悪い」と認めてしまった方が、批判から逃れやすい。それもつかの間の安心につながっていく。

「素晴らしい自分」だとこうはならない。なぜ素晴らしい自分なのに、こんなことが起きたのか。その説明がつかないし、怒られたときには怒られっぱなしだ。逃げ場がない。

もちろん、誤ったことは直した方がいい。でも、その吟味をする以前に、考えることを止め、批判から免れるために「自分はダメだ」ということにしてしまっている。そして、そこに安心感を覚える。

でも、その安心感のためには「自分がダメである」というところにい続けなければならない。

それは安心ではなく、ただ低位に安定しているだけなのだと思う。
「ダメな自分」でいることに安定すること、それによって得ている安心感はかりそめのものだと僕は思う。

そもそも安定というのは、思考の産物だ。
本当は自分も、細胞も、まわりも絶えず変わっている。

そのようにいのちの本質が変化なのだとしたら、不安定というのは「生きてますね」ということになる。そして、安定というのは錯覚ではなかろうか。

僕のまわりの数少ない本当に安心している人は、そのたえざる変化の波をサーファーのように軽快に乗りこなしているように見える。一瞬たりとも安定しないサーフボードを巧みに操りながら。

情緒不安定というのは、あまりいい意味で使われないけれど、感受性が豊かなことの別名だったりする。同じように「よい」とされている安定の中に、不自然なものが混ざっているような気がしてならない。

気持ちを、状況を安定させようとして、人は否定にとどまる。
で、それをずいぶん経ってから、心屋さんだとかスピリチュアルの分野の人がほどいていくことになるんだよな、と思うと救いはあるけれど、でも、ま、もうちょっと前でなんとかできないもんかなとも思う。

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