脱獄希望。
友人が「自分を責めること」について、こんなことを書いていた。
自分を責めていると、その責め(自分が作ってるんだけど)からどう身を守るかばかりに頭がいってしまい、結局大事なところは思考停止になって「これからどうしたらいいか」に全く頭がいかなくなる。
さらに関係してる人がみんな自分を責めてくるような妄想に取り憑かれて、自分からはなかなかその話題にさわれなくなったり、相談したりとか、どうしてこうという話自体がしづらくなってしまう。
僕はこういうふうになることが時々ある。
なにもない時でさえ「こんなことをして怒られたらどうしよう」とありもしない批判を頭で造って怖がったりしている。
同じような妄想の中にいる人と関わることもある。
そういうときの人は、檻に入っているみたいに感じる。
上の話で言えば「みんな自分を責めてくる」妄想をその人だけが生きている。実際には違っても、その人の中ではリアルなので、僕も「責めてくる人」の一人とみなされて関われなくなる。
昨日、たまたまとった電話で話したのが、そんな感じの人たちだった。
一人は怒りをぶつけてきた。
事実とかけ離れた見方で腹を立て、理不尽な主張を繰り返していたが、理屈で話そうとしても受け付けない。むしろ、怒りに薪をくべることになった。
妄想を怒りで正当化する人は、ある意味強いなと思う。
こちらの言い分は聞かないまま憤怒をぶつけるので、聞いている側はとても疲れる。それが続くと、聞き手はやり取りを終わらせることにしか意識がいかなくなって、結果的にいくらかは怒る人の主張が通ったりする。
もう一人は、電話口で別の人を怒鳴っていた。
そんな状況は初めてだったので驚いたが、怒りを鎮める助けになればと「まあまあ」などと話しかけたりしてみた。即座にはねつけられた。何の意味もなかった。
なぜ僕と電話をしながらそうしているのかは分からなかったが、とにかく腹を立てているらしかった。僕はそれを聞き続けることしかできなかった。
二人の妄想は、それぞれの中ではリアルだ。
でも、そうでない世界に生きる僕としては、そんなふうに怒らなければならず、そこから脱け出せなくなっている人たちに接して、なんとも言えない遠さを感じる。
訴えたいこと、聞いてほしいことは、怒りではなく、その奥にあるなにかのはずだ。
でも、妄想を正当化しているうちは、僕たちはそれを聞くことができない。その人は苦しいまま、報われない扉をノックし続けることになる。
では、どうしたら自らつくった牢獄から脱け出すことができるのだろう。
自分から目覚められればいいけど深い夢(妄想)ほど自分からは起きれない。誰かに起こされて、揺さぶられて、怒鳴られて、ハッとしたとき、自分が妄想の中にいたことに気づく。
起こしてもらえたことの有難さは、時間をかけて込み上げてくる。
と、友人は書いていたけれど、僕も同感。
僕自身もそうして引っ張り出してもらった経験があるからだ。
そこには他者がいる。どうしてもいる。
でも、妄想の中にいる人と付き合うには、気力も体力もいる。
「結果にコミット」するくらいでないと跳ね飛ばされてしまうが、かける労力に対して実りはあまりに少ない。
だからこそ、それをしてくれる人は文字通り「有難い」人なのだ。
先の電話口の二人は赤の他人なので、僕にはなにもできない。
でも、あのままだと孤立してしまう(実際にしている)だろうな、と思う。
牢獄を抜けたら、そこには現実の世界がある。
そこは「現実」だと思い込んでいたところより、ずっと安らかで、やさしいはずだ。
といった思いがよぎりつつ、電話を切る。
そしてまた、それぞれの人生が続いていく。
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