怒りのチネイザン

男はなにをしておるのか。

11月24日(土曜日)開催のワークショップ『魂と繋がる歌の唄い方®️』(魂うた)の準備をしていて気づいたことがある。

それは、こうした「本当の自分」や自分の本質と繋がろうとする場にいるのが、9割方女性であること。

『魂うた』をしているファシリテーターも、僕ともう一人を除いて、全員女性だ。

男は、どこへ行ってしまったのだろう。

たとえば『魂うた』では、自分の大事ななにかを取り戻そうと、参加者が全身全霊で歌い、表現する。その表現を聞き手が涙しながら受け取り、新たに誕生した「本来のその人」の証人となる。

たかが歌とあなどるなかれ。
そこには、その人の生きてきた人生が投入されている。必死である。

何度もつまずいてきたところを突破する瞬間には、堰を切ったように感動と涙が広がる。そのエネルギーに抗うことはできない。

そうして女性たちは自分の本質を取り戻して、パワフルに、きれいになっていくわけだけれど、男にだって取り戻すべきことはある。

たとえば、それは強さだったり、力だったり、野性だったり、厳しさだったりする。そこから権威が生まれ、威厳が出てくる。僕は父親ではないけれど、父性にだってそれらは必要だろう。

以上は、たったいま、僕が取り戻そうとしていることだ。

本質と繋がろうとする場の少数派として、僕は「男であること」を強く求められてきた。

『魂うた』では再三にわたって「もっと前に」「もっと大きく」「もっと力を」と促された。ファシリテーターが変わっても「男を出せ」という要求は一貫していた。

家庭生活においても、妻から「男であること」を強く要請された。
それはしばしば大ゲンカの火種になるほどの強烈さだった。

その経験を通して、思うことがある。

男は狩りをして獲物を獲り、女や子供を喜ばせる。
そして女は家を守り、男の傷を癒す。

人類はそうした生活を、歴史上長くつづけてきた。

いまは「古い」とか「ステレオタイプ」と言われてしまうかもしれない。
けれど、その名残りは身体の中にはっきりと残っているのではないか。

そして「イクメン」「家事メン」とか「女性の社会参画」といった男女の垣根を越えてなにかをすることよりも、本当は女性は男に「男であってほしい」と猛烈に願っているのではないか。

どうして、こんなことを話しているのかというと、本質と繋がろうとする場にいた女性の多くが「男性のようになろうとして」苦しんでいたから。

<男はなにをしておるのか。>

彼女たちの苦しみは、僕にそう言っているように聞こえた。

空耳だろうか。

僕にはそうは思えない。

<男はなにをしておるのか。>

今度開催する『魂うた』。いつもどおり女性に参加してもらうことを念頭に準備を進めていたのだけれど、ちょっと考え直す必要があるのかもしれない、と思いはじめている。

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