ボヘミアン

フレディぐらいに。

この記事には、映画『ボヘミアン・ラプソディ』のネタバレが含まれています。ご覧になっていない方は、よかったら観た後にお読みください。

いっそ生まれて来なけりゃよかった
って、思ったりしてる。

クイーン最大のヒット曲であり、今回の映画のタイトルにもなった『Bohemian Rhapsody』の一節だ。

I sometimes wish I'd never been born at all

いっそ生まれて来なけりゃよかった。

僕はこの映画から「自分が自分であること」を認められない苦しみを強く感じた。

フレディ・マーキュリーは、現在では周知のとおり、ゲイ(一説によるとバイセクシャルであるとも言われる)であり、後年はエイズを患った。

でも、それだけではない。若い頃からファルーク・バルサラという出生名を捨て「フレディ・マーキュリー」という別の自分になろうとした人物でもある。

映画は、その名前を捨てる場面からはじまり、恋人ができ、クイーンとして大ヒットを飛ばし、結婚して、やがて、妻の前でゲイであることを認めざるを得なくなるシーンへと進む。

Goodbye, everybody I've got to go
Gotta leave you all behind and face the truth
(みんな、さようなら。僕はいかなくちゃならない。
 あなたたちを残して、真実に向き合わなくちゃいけない。)

『Bohemian Rhapsody』において「人を殺してしまった」と母に告白する息子は、ゲイであることを認め、過去の自分を殺そうとしているフレディ自身のことだった。

しかし、曲を書いたからって、すんなりとはいかない。なにしろ、時代は1970年代半ば。LGBTという言葉だってない。

映画で観た限りでも、その苦悩は凄まじかった。奥さんの気持ちは離れ、バンドのメンバーともギクシャクし始め、享楽に溺れ、ダメになっていくフレディ。実際はもっと壮絶だったろう。

「自分が自分であること」を認められない苦しみ。それは彼だけのものではない。濃淡はあれど誰だって「こんな自分でいてはいけない」と思うことがある。そうして、周囲の期待に答えようとしたり、自分を捻じ曲げて人とつながろうとしたりする。

フレディもそうだった。でもダメだった。
彼には真実をパフォーマンスすることしか許されなかった。

「変態」とまで言われた彼のステージは、しかし強烈に人を魅了した。
華やかなステージと退廃し転落していく自分。

そんなフレディを救ったのは、彼の生涯の友人と言われるメアリー・オースティンだった。恋人同士だったときに、ゲイだと打ち明けられた、まさにその人物だ。

この話は、もちろんフレディ・マーキュリーの自伝的ミュージカルだが、同時に時代の先を行き過ぎた存在を支えるメアリーとクイーンのメンバーの物語でもある。

フレディは劇中、彼らを何度も「家族」と呼んだ。苗字も名前も捨てた彼は強く「家族」を求めた。

しかし、ゲイである自分を認められず、苦しみの中で歪んでいくフレディは自らの手で関係を壊し「家族」は離ればなれになる。

彼らが再び結集するのは、フレディがボロボロになって、すべてを認めたとき。メアリーの必死の説得で、彼はゲイであることを心底受け入れ、エイズに感染していることもメンバーに伝える。

「俺が誰であるかは俺が決める」

フレディがバンドのメンバーにそう語るシーンは、圧巻だった。
そして、映画はクライマックスを迎える。

1985年の「ライブエイド」。
ここで歌われた『We are the champions』にはこんな一節がある。

I've done my sentence
But committed no crime
(報いは受けたさ。
 何の罪も犯してないのに)

ゲイ、エイズ、過剰な才能。
周りと違うこと。
同じようにはいられないこと。

自分が自分であること。

現代でも、そうした逸脱が報いを受けることがある。
何の罪も犯していないのに。

フレディは確かに類稀なる才能の持ち主だ。
しかし、同時にフレディは僕であり、あなたでもあると思う。

映画の最後に置かれた「ライブエイド」の再現シーンは、素晴らしかった。
フレディを追体験した僕たちにとって、彼の声、しぐさ、存在そのものが奇跡のように思えた。何度も震えがきて、涙がこみ上げた。

We are the champions, my friend
(友よ、僕たちが勝者だ。)

会場となったウェンブリー・スタジアムの天井に穴を開けるとフレディは言う。メンバーに「ウェンブリーに天井はないよ」と諭されると、彼はこう言う。

「じゃあ、空に穴をあけてやる」

突き抜けた変態は空に穴をあけ、偏見を超越する。
彼はゲイでもエイズ患者でもなく、フレディ・マーキュリーであった。

そして、フレディがフレディとして生きたことが、同じようにゲイであることやエイズに感染していることに苦しむ人たちの、また、ありのまま、真実の自分を生きたいと思うすべての人たちの救いとなるように思えた。

「フレディはあんなふうに生きたじゃないか」と思うことによって。

映画を観終わった後、重い余韻が残っていて、あまり寝付けなかった。なにも話せる気がしなくて、今朝、出勤して、同僚の顔を観たら言葉が後から後から溢れてきた。

「あのさ!フレディがさ!」

自分が自分であること。
その真実をパフォーマンスすること。

それはフレディだけに与えられた使命ではなく、僕たち一人ひとりが本当は必要としているものなのだと思う。僕たちも「フレディぐらいに」やってみたらいいんだと思う。

でも、それはたった一人ではできない。
その真実を認め、受け入れる「家族」であり「友達」が必要だ。

僕がフレディぐらいになって、君がそれを聴いてくれる。

You are my best friend

そういう関係があったら、変態は偏見を超越し、空にだって穴があく。

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