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”寛容”は誰に対してなんだろうか。

ヤマ・ニヤマのひとつ。

クシャマー(寛容)。

寛容というと、”自分以外に対して”というイメージがある。私の中では。

妻に寛容でいる。子供に寛容でいる。仲間に寛容でいる。でも、自分には厳しい。は寛容がある人なのだろうか。

寛容という漢字の由来を調べてみると、広い。多くのものを入れる。という意味があるようで。心の広さの単位(=1kanyo)としても使えそう。


私のように自分に対して厳しくしがちの人(甘さはありますよ)を、50kanyo(100kanyoがMAXとして)とすると、キャパがそれしかないので、他人にも50kanyoまでしか耐えられない。これを超えるとイライラが生じてくる。50しか入らない容器に60は入らないですよね。この溢れた分がイライラなどのストレスとなって現れてきます。

と、書いていて確かにそうだな。と一人で納得しました。(タイトルの問いが解決してしまいました。)


ということは、他人に対して寛容であるためには、

私という器の容量を寛げていく”ことが必要ですよね。


私は何でも許せないと思う人でした。他人がきっちりやらないと許せません。自分はきっちりやれないのに。食器の洗い方だったり、洗濯物のたたみ方だったり、”自分の家ルール”を勝手に作って、それを求め、妻のやること・やり方を縛っていました。目を吊り上げて言っていたのではないでしょうか。ホント、10kanyoくらいしかなかったんじゃないだろうか。

10kanyoしかないのに、外面よくしていると、もう家に帰った時点で容量ゼロなので、常にイライラしてしまいます。いいことがあったり、褒められたりすると、一時的にkanyoが増量します。そんな時は家に帰っても楽しく過ごせますが、波が大きいですよね。kanyoがいっぱいある中での波であればある程度安定するのですが、kanyoがないと…ね。どんな家庭になるか想像できますよね。

そんな私でしたが、今では50〜60kanyoくらいはあるでしょう(あって欲しい)!

子供がご飯をこぼしてもイラッとしないし、水こぼしてもワーワー喚かないし、ケンカしていてもニコニコ見ているし、妻がどう家のことをやろうとも「こういうやり方もあるか」と受け止められるし。

でも、まだまだ伸び代は多くて。

妻に運転してもらう時に車線変更や右折のタイミングが許せないと思うし、手をかける必要があることは苦手だと今日気づいたし、パッと思い浮かばないけど、まだまだたくさんあるということはわかっている。(あれ。まだ40kanyoくらいか!?)


私が実践していることは、

んー、まっいっか。

べつに死ぬほどのことではない。

というスタンスを持つこと。

あとは、

過去に縛られないこと

昔からこうだった。実家ではこうだった。私はこう教わってきた。というものを捨てる作業をしています。

こういう考え方もあるよね。こういう方法もあるよね。

と、とりあえず一旦受け止める方法。いいものがあれば随時アップデートしていく。逆に提案することもあります。こういう方法はどう?って。そうしたら、相手がその方法をいつも選択する理由がわかりますよね。「こうこうこうだから、いつもこうしているんだよね」『なるほど!それでいつもその選択をしているんだ!』と相手を理解するきっかけにもなると思います。

あとは、いろいろと経験していくってことなのかな。これが一番大事なのかもしれない。


許せないって、相手のしている行為が許せないのではなくて、”その行為を許せない自分”なんだろうな。って思います。自分はその行為を許せなくても、他の人は全然気にならないなんてこともたくさんありますよね。

そんな自分に気づいていくと”kanyo”が増えていくんじゃないかな。

そうしたらさっ 思いやれますよね。相手も自分も。



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