つがいに向かない私の話

 「つがいになる」のに向かないと、ひとみはいつも思っていた。

 種が繁栄するため雄と雌がつがいになり、子を産み、人類の遺伝子が紡がれて行くのだと理解はしている。けれど、受け入れがたい。
 きっと自分は進化の過程で淘汰される個体のひとつだろう。ひとみは結婚をしたいと、あまり願っていなかった。

 ひとみは27歳で、某大手銀行を関係会社に持つアセットマネジメントで経理事務をしている。無難で偏差値も普通の女子大を卒業してから5年あまり、日系企業の古い体質ながらも穏やかな環境に頭から爪の先まで浸かってしまった。
 手取りの給料は低いけれど、生きて行くのに困るわけでもない。だいたい高給がもらえるほどの仕事を任されていないのだ。当然のことだと思っていたし、粛々と受け入れていた。

 取り立てて大きな出来事もない日々で、去年あたりからだんだんと同世代の結婚ラッシュがはじまった。周りの女子社員たちもご多分に漏れず、結婚したり婚活にいそしんでいる。
 ひとみも最初のうちは合コンや婚活パーティーへ足しげく参加した。結婚をしたくない、と思いつつ後悔するかもしれないと不安な気持ちがあったからだ。
「これだけ頑張ってだめならば、晴れやかに独身でいられるだろう」という確信が欲しくて、週に2回は合コンで埋める生活を半年続け、マッチングアプリに登録だってした。
 男性とたくさんデートもしたし、たくさん連絡も取った。しかしいざ良い雰囲気になると途端に嫌気がさすのだ。
 相手と話を合わせることも、信頼関係を築こうと努力することも、心にどこか違和感があった。「それでいいの?」と背後から声がして、ぞわぞわと生ぬるい両手が首筋を這う。「あんたそれで幸せなの?」と何度も囁かれて、「うるさい!」と大声で叫びたい衝動を抱えた夜もあった。
 ずっと両親にとっての「親の言うことを聞く自慢の娘」であったひとみは、渋る彼らを説得して家を出て以来、ひとり暮らしが気に入っている。この聖域にどんな異分子も入れたくはない。
 過保護気味に、もっと言えば過干渉であった母親から離れることができて、ひとみはやっと自分の人生を生きている気さえしていたのだ。

 だから今夜に予定されているお見合いパーティーにだって、本音は行きたくなかった。同僚の女の子にどうしてもと同行を頼まれて、断るに断れなかったのだ。
「婚活には飽きました」と言えない空気が、この会社の独身女性たちにはあって、変わり者あつかいをされるのは少し面倒だった。

 婚活パーティーには必ず開催にあたってテーマがある。
 今回は「ハイクラス男子×アラサー女子」で、男性の参加条件は年収が500万以上であること、正社員または公務員であることなどだった。女性はとてもシンプル、26歳から34歳であることだ。この34歳までという足切りラインが妙に生々しい。自分たちの価値に「まだ若さが残されている」と奮闘する、四捨五入したら30歳の女性たちの姿がひとみはどこか痛々しく映る時があった。
 年収やキャリアがどれだけ輝かしくても、そこを評価されないなど悲しいと思う。会社から「雑用も嫌がらずやり、いつも笑顔でコミュニケーション能力だけを求められるだけ」の自分とは違って、彼女たちは立派だ。それなのに同等のスペックを持った男性を求めようとしたら、要求されるのは年齢だけなのだ。
 そしてひとみだってギリギリ20代という若さしか切り札のない存在だと、みずからを憂いている。たったひとつの手札を握りしめて、もう擦り切れてしまった。

 開始前に配られるプロフィールカードを眺めつつ、ひとみは回転寿司のように入れ替わる男性たちと会話をする。参加者の男性はのきなみ年収が高く、職業もコンサルタントや経営者ばかりだ。
 とある男性との会話時、趣味欄を見ると「外車」とだけ書いてあり、ひとみはなんとなく「どこの国の車がお好きですか?」とたずねた。
 男性はふふん、と笑って「あなたにわかりますかねえ」と言う。
 ひとみは驚いて、「興味はありませんけど、聞きます」と、真顔で返してしまった。会話を交わすためのカードに書いたのだから、そんなことを言うなら、書かなければいいのに。ただ単に「素敵ですね! 今度、乗せてください」と言い寄る子を望んでいるのだろうかと、目眩がする気持ちになる。
 またとある男性はひとみが趣味欄に書いた「料理」の項目に目を留めて、「ぼく、オムライスを作ってくれるような人が好みです」と言った。
 ああ、とひとみは内心どうして自分はこうなのだと思いつつ、「私の苦手な料理はオムライスです」と返してしまう。男性はどう反応して良いかわからぬ、という顔をしていた。
「上手に料理をつくり続ける妻」を望まれているようで、あなたの期待に応えられない、と拒絶をしてしまったのだ。考えすぎだとわかっている。自分だってさっきの男性と同じだ。料理が趣味だなんて、書かなければよかった。どう取り繕っても、自分こそがこの場では異分子だ。もう帰りたいと願った。



「ひとみはおもしろいなぁ。また、懲りずに婚活しに行ったの!」

 
 あはは、と愉快に笑いながら蘭子は手を叩いた。ひとみはバツが悪そうに肩をすくめる。誰ともマッチングしないままお見合いパーティーから逃げ帰って来たのだ。
 蘭子はひとみが借りているアパートに住んでいる女の子で、24歳の美大院生だ。布やら毛糸やらを使って空間のアートを表現するインスタレーションというものを学んでいるらしく、ひとみは蘭子に出会ってそういうアートが世の中にあることを知った。

 去年の二月に東京で大雪が降ったとき、ユザワヤの大きな袋をいくつも抱え重たそうに四苦八苦してアパートの心もとない鉄骨の階段を登る蘭子に遭遇し、ひとみは思わず「持ちましょうか?」と声をかけてしまった。
 こんな雪の中、蘭子はなんとヒールのパンプスをはいていて、今にも転んでしまいそうだったからだ。
 それからお礼にと蘭子の実家から送られて来た野菜をもらったことが縁で、よく話すようになり、いつの間にか近所のファミレスでご飯を食べるほどに仲良くなった。ついにはひとみが夕食をつくる時、蘭子もいそいそやって来るようになったのだ。
 ひとみも蘭子も女子校育ちで、女同士の距離感がお互いに近かった。
 なにより、ひとみは女性に対して心の関所をあっさり通過させてしまうところがある。「この人は仲良くなれる」と確信してしまうと、すぐに信頼できてしまうのだ。男性には厳しく通行手形をよこせ、ないなら出て行けとかたくなであるのに。
 男性不信とまでは言わないけれど、自分勝手なふるまいをする父親の姿に耐える母親をずっと見続けて来たひとみにとって、「男は信用ならない」という勝手な虚像が出来上がっていたことは否定できない。
 そのトラウマのようなものを解消したくて恋活だとか婚活だとかに勤しんで来たのに、やっぱりわだかまりを溶かす決定的なものはやって来ないのだ。

 蘭子はひとみの人生の中で、あまり接点がないタイプの人間だった。大胆でずばずばと言う。思いつきでなんでもやるし、失敗をおそれない。
 大人しく聞き分けの良いひとみは、両親に薦められた通りの女子大を卒業し、彼らが自慢できるような会社へ就職したつまらない人間だと自分で思っている。
 なので蘭子がいつも「ひとみはおもしろい」と言うのをいぶかしんで聞いていた。
「常識人の皮を被って、けっこうぶっ飛んでるよ」と指摘されるけれど、ピンとは来ないのだった。

 今夜も婚活パーティーで誰ともマッチングせずに終わったひとみが、蘭子を夕食へ誘った。
 近所のスーパーで少し良い卵を買ったのだ。材料をキッチンへ並べていると、蘭子がのぞき込んで、「今日はオムライスなんだね」と言った。
「でもうまく巻けないから、半熟に平たく焼いたのを乗せるだけだよ」
 ケッチャップと安売りのベーコン、あらかじめ細切りにして冷凍していた玉ねぎ。一パックなんと380円の有機卵。オムライスは苦手な料理だけれど、味は好きなのだ。
「私の母ね、料理が上手なんだけど、オムライスだけは苦手なの。いつも固く焼きすぎて、スクランブルエッグみたいになってね。卵焼きなんて、とてもきれいに作るのに。私も同じで、何度やっても上手に包めないの」
「へえ、遺伝してるってこと?」
 そうかもね、とひとみは答えた。
 会うたびに「いつかぜったいに結婚できるよ。大人として一人前にならなくちゃ」と、心配げに話す母親の顔を思い出す。あんなに父親から苦労させられたくせに、「結婚なんてするものじゃないよ」とけして言わない。
 悪気がなく心の底から娘を思いやっている言葉だからこそ、ひとみはいつも煮え切らない思いを抱いていた。
 こうして立派に一人暮らしをして、働いて、投票にも行くし税金だって払っている。国民の義務と権利をきちんとはたしているのだから、認めて欲しい。
 たいした反抗もせずに、良い子であり続けたひとみにとって、「ひとり」とはやっと望んだ自由なのだ。
 誰の顔色を伺うこともない、自分の好きな時間に寝て起きて、好きなものをつくって食べる。こんなに楽しいことはない。この上、誰かと暮らして、完全な世界を壊されることがこわいとすら思う。
 もう運命の人を信じるような年齢でもない。婚活をしている同僚や友人たちの「結婚と恋愛は別もの」だとか、「男が苦手なの? セックスなんて目をつぶれば、終わるんだよ」という言葉も理解できない。安定した生活やリスクヘッジとしての結婚をするくらいなら、独身でいたほうがずっとマシだ。
 料理をしながら、ひとみは湧き出る怒りが治まっていく感覚を覚えていた。そうだ、料理は自分のためにする。自分自身を癒すためにするのだ。

 バターをたっぷり溶かしたフライパンに溶き卵を流しながら、ひとみは「母がまたがっかりするな」と、つぶやく。
 結婚を望んでいないくせに、たまに「本当にしたくないの? 後悔しない?」と再確認せねばどこか不安なのだから、自分でも自分がわからないのだった。
 ゆらゆらとあてもなく広い海を漂っている不安な気持ちがあった。自分の行き着く先がわからない。
 オムライスを上手に包めないところだけ似てしまった、母のようにはなれない。このままでいいのか、悪いのか。オムライスは包むべきなのか、そうでなくてもいいのか。

「ひとみはやっぱり結婚したいわけ?」
 蘭子がこちらをじっと見つめてくるので、ひとみは眉をしかめる。望まれていることを叶えるだけで、自分の存在が肯定されることは楽なのだ。
 結婚してしまえば、両親は満足して自分を褒めるだろう。自慢の娘で居続けられる。結婚ができたらいいのに、できない自分が出来損ないに思えてくる。
 今この時、ひとみが送るありのままの人生を肯定してくれるのは、蘭子ただひとりなのだった。
「……今が幸せなの。蘭子ちゃんとこうして話してるだけで楽しくて。結婚してもっと幸せになるなんてこと、あるかな」
 ひとみには蘭子が眩しい。自分のやりたいことを見つけて、そして叶えていくだけのエネルギーがある。広い海で目指すべき場所があって、懸命に船を漕いでいる姿が清らかに感じた。
 望むものがはっきりしている人生を、ひとみだって送りたいと願っている。
「なら、しなくていいじゃん」と、蘭子はあっけらかんと言った。
 半熟の黄色い薄焼き卵の布団をかぶったチキンライスがふたつ、テーブルに並べられてぴかぴかと光る。蘭子は椅子へ嬉しそうに座ると、ケチャップでオムライスにきれいな模様を描き、ほがらかに笑った。
「それはアートで言うところの、調和が取れているってことだよ。調和とは、美しい。理想の美しさは人それぞれなんだよ。ひとみにはひとみの、美しさがあるんだから」
「──美しいって」
「オムライスだって無理に包まなくたっていいんだよ。こうあるべきを疑うことは大切。新しい価値観や芸術は、いつもそこから生まれるの」
「……そっか」
 日常で美しいなど、あまり使うことはない。ひとみは戸惑いながらも、ありのままの自分をことほぐ蘭子が大切だと思う。蘭子は自分だけの世界で、自分だけを神様にして生きている。
 ひとみもつがいになることが向かない自分を受け入れて、進化の中で淘汰されることを良いと思えるのだろうか。それを美しい生き方なのだと、肯定できるのだろうか。
「そのケチャップの模様、すごく美しいね」
 少しだけ泣きそうになりながらつぶやいたひとみを見て、蘭子は「そうでしょう」と、得意げに微笑んだ。


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