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プロフィールに描く、自分。Identityのありか。

的をついたおもしろいシリーズ記事を読んだ。

「便乗」する日本人。所属する組織に便乗して、自分を名乗る日本人。「便乗」という言葉の意味。池永氏の記事はどれも読みがいがある。それこそ、「大阪ガスエネルギー・文化研究所」という彼の肩書きが、彼の書く文章のテーマとどうつながるのか。このシリーズを読みながら、ちょっと思考がズレて自分のアイデンティティをどこに見出すのかと考えていた。

ちょうど同じタイミングで、ある記事がプロフィールになぜ何歳の子の親だと名乗るのか、子供が成人したら年齢を書かなくなるのかと、問いかけていた。こういうのを読むと、私の片眉が上がる。

ある銀行に勤めているとしよう。窓口、ローン審査担当、営業かで仕事内容はまるで違う。製薬会社。開発、営業、会計監査、広報。学校の先生。幼稚園、小学校、中学、高校。美術、社会、数学、で先生のイメージは全然違う。親業だって同じ。赤ん坊、幼児、小学生、中学生、高校生、大学生、成人した子供。子供の性別。男三人か、女三人か。一人っ子。歳の離れた二人の子供。年子。双子。子供がいて、主婦か主夫か働いているか。子供を育てることで、その子がどこまで育っているかで、親としての、人としての成熟度、自分以外の他人への理解と視点がまるで違ってくる。若い頃に産んだ子か、年をとってからか、でも違う。

プロフィールに子供の年齢を書くのは自然だし、書きたくなるのは当然だと私は思う。書いてくれると、その人の記事を読むときの背景理解になる。その人の子供が自分の子よりも大きければ、あと数年後にはそういうこともあるのか、と思って読めるし、小さければ、そんなこともあったなぁと懐かしくなる。

子供がいないことで見えないことも見えることもある。子供がいることで見えなくなることも見えるようになることもある。

そして、プロフィールというのは、自分をどう「宣伝」「説明」するかだと思う。

noteのヒントに「プロフィールを充実させる」とある。

プロフィールページは、みなさんのことを読者が最初に知る場所です。自己紹介をすることで、書き手の人となりを知った上でフォローして読んでもらえるため、みなさんの伝えたいメッセージがより伝わりやすくなります。

noteの記事を読んで、どんな人なのかな、と思ってプロフィールを確認する。食べ物とか読んだ本とか旅行とか、一つの分野に絞って書いている人もいれば、私のように日々の生活で考えたことを幅広く書いている人もいる。漫画とか小説とか、ある特定のスタイルの「書く作業」に限ってる人もいる。どこに(どの国に)住んでいるかとか、何歳くらいの人なのか、子供はいるのか、いくつくらいなのか、(どんな)仕事をしているのか、という情報を私はまず探す。そして、どんな趣味や興味があって、さらに特定の趣味だけにこだわって書く人なのかを見極める。もちろん、一瞬のうちに文章のスタイルに惚れ込んで、即座にフォローしてしまうこともある。

卒業した大学をプロフィールに載せる人がいる。学歴社会の日本だからわからなくもない。私の出身大学を書いたら、なるほど、と思う人がいることもわかっているが、ちょっと考えて私は書かないことにした。卒業して30年以上がたつ。あの大学の卒業生だったから、今の自分がいると素直に思っているが、今更それをプロフィールに載せるほどのことでもない。業界では名の知れた米国企業と、同じく名の知れた日系企業に合わせて10年ほど勤めたが、今更それをプロフィールに載せるほどのことでもない。でも、今の私はそういう過去の経験を主婦業にフルに活かしているから、そういう話を記事の中で触れることもあるだろう、とは思っている。が、プロフィールに載せるほどのことではない。

自分のアイデンティティがどこにあるか。私は、アメリカに住む日本人であり、二人の子供の母親だ。誇りを持って楽しく主婦業をやっているし、極めたと思っている。そして、もともと独立心旺盛だったのに加えて、極めたという自信が重なって、自分だけを、自分のやりたいことをただ優先させた(させることができた)夫が、出て行っても大丈夫だろうと思う結果になったのだろうと思う。

ある会員サイトでのプロフィールの写真を選んでいた時、なんの写真だったか覚えていないのだが、すでに会員だった友達に「そうじゃなくて、アナタという自分を表現する写真にしなきゃ」と言われて、なるほどと思った。趣味のサイトだったから尚のこと、私という人間を表現しなきゃいけない。私を表現するものは何かな、とその時考えて、子供の送り迎えに明け暮れ、食料品の買い物に出かける日々だった私は、まず車の鍵、と思った。車なしには私は機能していない。そして、財布。どこへいくにもお気に入りの財布を持っていく。車の鍵と財布。もう10年以上使っているサイトの、そのふたつを合わせて作ったアイコンを私はとても気に入っている。

noteに選んだアイコン。あと数年で子供が手を離れ、独り立ちに向かって進んでいく。noteは、それからの私の居場所、「私」が書く場所だから、そのままのアバターを選んだ。髪型が変わっていけば、アバターも変えていくつもり。そして、子供が旅立っていっても、私は母親であり続ける。いずれ、孫ができたら祖母になる。

でも、出身大学や勤めた会社を書く必要ないと思うようになったように、いつか子供のことも彼らの年齢も「載せるほどのことではない」と思う時が来るのかもしれない。その時の私の生活に彼らの存在がどのくらいの比重を占めているか。その時の私のアイデンティティにどのくらい関係した存在なのか。

子供がいないことで見えないことも見えることもある。子供がいることで見えなくなることも見えるようになることもある。これに尽きる。

子供をもつ人が、プロフィールに子供の年齢を書くのは自然だし、書きたくなるのは当然である。どういう職種かではなく、ただ勤めている会社名に「便乗」するのに比べたら、何歳の子供、何人の子供の親であるとプロフィールに書くのは、立派なアイデンティティの表現だと思う。





ただただ好きで書いています。書いてお金をもらうようになったら、純粋に好きで書くのとは違ってくるのでしょうか。