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オリジナル漫画

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58才、アラ還で始めたマンガ描き。液タブ使うのも、悪戦苦闘しながら、一つ一つ習得。子供のころから、大好きだったマンガを、今こうして描いているなんて、夢みたい💛
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#にまめちゃん

【オリジナル漫画】 看護婦という仕事

看護師を退職23歳で、2年続けた看護婦の仕事をやめた。 解放感しかなかった。 挫折や屈辱感、コンプレックスは それまでに十分満喫したから やめる時は すっきりと ”婦長さん、やめまーす”と 笑顔で。 どうしても自分に合わない仕事、 または 職場環境はある。 私の過去7回の転職は そのたびに教訓を与えてくれる。 ”石の上に3年もいる必要はない。” ”石の上にも3年” と、昔の人は言ったけれど 3年も我慢する根拠は何? 私はこの職場を2年続けたけれども、 2年も我慢す

オリジナル漫画 【私が専業主婦になるまで】 

私は過去に8か所の職場を経験しました。本当に、いろんなことがありました。 子育ても終わっている今は、専業主婦というよりリタイアメントと言った方がいいかもしれませんね。 かなり簡略化したマンガです。おいおい、私の職場経験などを紹介できたらと思っています。

【6コマ漫画】今、紅茶キノコがコンブチャとして??

日本での紅茶キノコブーム 私が小学生の頃なので、1970年代。 紅茶キノコが流行っていましたね。 母方の祖母が 棚の奥から大事そうに出してきて みんなにふるまってくれました。 大きな調理ビンの中に 何かフワフワしたものが浮いていました。 ちょっと不気味。飲めるのかな、これって感じ。 ニュージーランドで そんな昭和の思い出、紅茶キノコ。 最近ニュージーランドのスーパーに普通に売られていた。 その名は ”kombucha"’ だから、当然 昆布茶なのだと思っていた。 実は 

【ショートマンガ】売られていく豚たちにも愛をこめて 祖母の豚飼育

私たちの祖父母の世代。 生きていれば100才を超える年齢。 明治の終わりか大正時代に生まれて、若い時に戦争を体験しています。 私の祖父母は幸い戦死することもなく、 また農家だったので 都市部の人ほどには 食糧難も厳しくありませんでした。 そんな時代を経て、平和な戦後を過ごしていたわけですが 彼らは 物もお金も とても大事にします。 ある時 祖母は 飯台にたれた醤油を  人差し指でこすってはなめていました。 ”もったいないから”と 言ったかどうかは覚えていませんが、 多分

【ショートマンガ】昭和の北海道で のら犬のチビ

50年前の北海道。 野良猫や野良猫をよく見かけました。 そもそも、私たち姉妹は凶暴な犬を見たことがありませんでしたから、 犬に対しても全く警戒心はありません。 姉は、たまたまウロウロしていた犬に給食の残りのパンをあげると そのままついてきてしまい、しばらく飼うことに。 飼うと言っても、保健所には届もせず狂犬病の予防接種もしません。 ただ、あまりご飯をあげていただけでした。 この人なつっこいチビは、変な癖もあって、 ”バカだな~”と思いながらも  随分楽しませてもらいまし

【ショートマンガ】昭和の北海道 足が冷たかった、でも母があたためてくれた

50年前、冬にはいていた長靴は 防寒用には作られていなかった。 普通の長靴に 手編みの靴下を2枚。 それでも、足が冷たい。 確か、小檜山博氏のエッセイで 冬の夜布団の中で 母親が彼の足を股の間に挟めて温めてくれた、 という一節があったと思う。 私は母親の その素朴な行為に感じるものがあったが、 それは きっと私のこの時の体験があったからかもしれない。 多分 ご本人である母の記憶には残っていないだろう。 でも案外子供はいつまでも覚えていて、さりげなく感謝している😊

【6コマ漫画】昭和の北海道で 冬の珍味ホッケ🐟 干物をストーブで焼きながら

都市の北海道グルメレストランに行くと 必ず大きな焼きホッケがありますね。 私が小さい頃によく食べたのは 小ぶりのホッケ。 良く焼くと骨も皮もパリパリになって、スナックのように食べました。 このホッケが 小さい種類なのか 大きいホッケの稚魚なのかはわかりません。でも、きっと小さいので割安または破格の値段で買っていたのでは。 この箱で買ったホッケは 冬の初めに 外でさばいていたと思われます。 さばいた大量のホッケを 二階のベランダに干していました。 厳寒期の日本的な農村か漁

【5コマ漫画】昭和の北海道 草むらで見つけたクモの芸術

パソコンは 無事修復されました🤣 故障中は 慣れない ipadで作業。 マンガソフトもいつものフォントも入っていない状態だったので、 今までと違った感じになりました。 (自分だけが気にしているのかもしれませんが、、) さて この種のクモ 細い葉を折って、その空間に卵を産みます。 蜘蛛は嫌いだけれど、こういうものを見つけると つい引っぱってみたくなるものです。 いつもは親グモが あたふたするだけで それを見て楽しんでいたのですが たまに、しっぺ返しのように こんな目にあいま

[ショート漫画] 先生からのいじめを受けたあと、帰宅して。両親に支えられた❤️

両親の子育て 幸運にも、私は両親に勉強しろと言われたことがありませんでした。 当時 学習塾は 近くにはなかったし、ピアノなどの習い事もしませんでした。 参考書を買うためのお金をくれたリ、参観日には母が必ず来ていましたから、まったくの放任というわけでもなかったのですが。 家は農地が広く周辺農家の2倍くらいあり、 おまけに核家族でしたから、祖父母の協力もほとんどありません。 現実的に 子供にかまっている時間がなかったのではないかと思います。 実際 私は 手のかからない子供

【4コマ漫画】ノリノリで歌う先生、冷めた目で見る私

一度失った信頼関係は取り戻すのは難しい。 それは大人の人間関係でも、生徒と先生という関係でも同じ。 小学校の5,6年の担任の先生は自分で歌集を作り、朝の会では先生の弾くオルガンに合わせてみんなで歌った。 児童唱歌もあれば、先生の好きな歌謡曲もあった。 記憶に残っているのはダークダックスの”銀色の道” それは 先生にとって青春の歌だったのかもしれない。 歌っている時の先生はノリノリで 薄茶色でサラサラの髪を振り上げながら歌っていた。 ちょっと古臭い歌だったけれども、私は歌謡

【4コママンガ にまめちゃん】子供は新しいものが好き

50年前、携帯もビデオカメラもなかった 携帯電話が一般に普及したのは30年前。 多分、今40才以上の人は公衆電話を使い、カセットテープレコーダーを使った経験があると思います。 当時の私たちは、スマホがなかったからといって、不便だという感覚もなく過ごしていました。 人は与えられた環境の中で、それなりに楽しく生活できるものです。 NHK放送センターで 私たち家族4人は、このNHK放送センターの撮影セットに、感心し、感動していました。テレビ画面の中に自分たちが写っているので

【4コママンガ】 子どもにとって”感じること” が財産

50年たっても、心に残る ”楽しかった” 感覚 家族で東京へ行ったとき、私は7才でした。ですから、その記憶もあいまいで断片的。 浅草や東京タワーなど 一通りの東京観光をしましたが ほとんど記憶にありません。その時にとった写真を見て こんなところに行ったのか、とやっと理解できます。 豪華カツランチも 私にはほとんど記憶がなく、2才年上の姉に聞き、そういえばそうだったかな、と。 7才の子供、感じる力 それなら、7才の私が東京に行った経験は、私にとって意味がないのかと言

【4コママンガ】子どもに対して謙虚でありたい

子どもの前では真摯でありたい 子どもが 真面目に質問をしたり答えたりした時には、笑わずに聞いてあげたいな、と思います。 何故なら50年前の、この笑われた体験を子供ながらに屈辱的なものと感じ、今でも覚えているからです。 大人は子どもだったころのことを忘れる 悲しいことに、ほとんどの大人は 自分が子供だった時に、何を感じ何を思ったかを忘れてしまいます。 子どもの視点を忘れてしまった大人は、子どもに対して傲慢になってしまうのではないでしょうか。 子どもは自分より、未熟で劣って

【4コマ漫画】北海道の駅伝マラソン 私一人で応援

北海道の駅伝マラソン 50年前 昭和の国鉄の時代のこと。 北海道で駅伝マラソンがあった。 国道の100キロくらいの区間、国鉄駅に近いところを  選手交代の場所として 数人の選手が交代しながら走る。 この年、私の担任の先生が 偶然 私の家のそばの国道を走ることになった。 多分、先生は 私の家の近くを通る時間を あらかじめ教えてくれていたんだろう。 私はその時間に 国道沿いで待っていた。 静かな駅伝マラソン 視界のぎりぎりまでまっすぐの国道は その日がマラソン大会とは思