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1Q84と、どこにも行けない人間のこと(しかたなく月を見る)

 この記事はこれから本書を読む方のために極力ネタバレを避けるが、話の筋で要となる部分について多少の言及を含むので注意願いたい。

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 村上春樹『1Q84』を読みおえた今、自分が何処にいるかというと、多分どこにもいない。現実的に言えば自宅にいるが、そうだと思える確信がない。じゃあ1Q84年の月が二つ存在する世界にいるのかというと、決してそういうわけでもない。

 物心がついた頃に(この言い回し、あまり好きではないが他に思いつかない)この世が自分のために作られた虚構なのではないかと考えはじめてから、いまだにその疑念を捨てきれずにいると言ったら人は苦笑する。生命が宿っているのは自分だけで、あとは世界を安定して維持するために用意されたものだと。生命がある者は個々の世界の中に一人きりで生きている。生命がある者の意思を世界はクッションのように受け止めるだけで、そこに跳ね返りはないのだと。なんだかヤク中のような思想だと言われた。

 1Q84年を、どうして青豆は異なる世界だと信じきることができたのだろう。論理が通らないとか、リーダーの言葉とか、月が二つ存在するとか、それらの要素だけでどうして1Q84年を抜け出すことができるなどと思えたのだろう。私はいまだにこの世を虚構だと思うことがあるが、この世を抜け出すことができるとは思えない。私は一人きりの世界で一人きりで死んでいくのだ。


 月という存在がある。
 月が二つであるか、一つであるかによって、語り手たちはここがどちら側の世界であるかを判断する。月という要素は世界を区別するためのあくまでシンボルに過ぎない。
 もし月が二つあれば、私も世界に対する疑念を強め、ここから抜け出せるという確信を持てるのか。いや、持てない。二つの月を受け入れ、再び世界に順応していく。結局私はどこへも行けない。

 普段から月を見上げることがあまりに多いので、この象徴としての月には少なからず思いを寄せた。月の引力。天文学や物理には小指の先ほども精通していないが、潮の満ち引きが引き起こされるように、自分もまたなんらかの形で引き寄せられているのを感じる。おそろしくでかい月が浮かんでいる夜、私は空から一ミリも目が離せなくなる。寝室の窓からちょうど見える月を、ベッドの上からいつまででも見続けている。

 月は世界を区別するための判断材料にはならず、私はどこにも行けないが、その小さく不確かな光は、世界で一人きりの孤独を癒す存在くらいにはなり得るかもしれない。


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