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翁草

これは病ではないらしい。
だろうな、と僕は思う。残念ながらどうにも彼の口から出るものと自分の世界が一致しなかった。魔法みたいなその病のことを思うと、これは呪いの装備のようなもの。何処が可笑しいわけでもない、ただ、そうやって生まれてしまっただけ。そうやって言うと、お前は何処も欠けていないのだろうときっと後ろ指をさされるのだろうけれど、どうやら見えない部分が欠けているらしかった。あーあ、と思う。
これが病であれば、いつか治るのかもしれないという思いでいられた。けれども今、もうそういう言葉では誤魔化せなくなってしまった。どっちが良かったのだろうな、と思う。どっちでも苦しかった、ならば同じなのかもしれない。
この道は一体何処へ続くのか、実のところ道なんてないのか。暖房を消した部屋で考える。猫は先に寝た。
カヌレを食べるきみのことを思い出す。踏切に消えていったきみのことを思い出す。この世界は美しい、ただ、僕にはそう見えないだけで。悲しむことも出来ない、こんなにも消えてしまいたいのに。善も偽善も同じもので、結局それは受け取る方が、見ている方が決めることになってしまう。自分主体の世界は崩れた、貴方が優しいことを僕は認めない。
この冬は指が悴むことはなかった。どうしようもない焦燥で胃が潰れたりもなかった。あいも変わらず食事は細いままだし、体重も増えないけれど。減るより良いのだろう。外を見るのにも勇気がいるけれど、きみが死んでも悲しめない僕だけど、それでもまだ少し、やりたいことがある。さよならを言うにはまだ早い、ような、気がする。
練習は、
しないでおくよ。
価値なんて何処にもないように思う。思うのに、持っている石を捨てられない。これは宝石でも何でもない、ただの石なのに。何処かへ行ってしまおう、そしてまた石を拾ってこよう。何の変哲もない石、顔みたいな石、きれいな石だって一つくらい、持っていても良いのかもしれない。
この手に持てるものは作ってはいけないのだと思っていた。
祝福される存在ではいけないのだと思っていた。
他人はそんなこと考えていないよ、だってこんなにも必死に生きなくては生きていけないことばかりなのに。毎日まいちに、路上のゴミの種類が変わっているみたいに。ああ、ゴディバにも春が来ている。お腹を下すのを覚悟で新宿駅を闊歩する。僕は世界にいなくても良いけれど、僕のやりたいことをやってくれる人はいない。だから仕方なく歩き出す。行き先もないまま、五里どころではない霧の中を、ずっと、歩いていく。

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