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【ロシア連邦の歴史6】プーチン2.0

こんにちは、ニコライです。しばらくお休みしていました。久々の投稿となる今回は【ロシア連邦の歴史】第6回目です。

前回の記事では、新大統領メドベージェフと首相となったプーチンの2人によるタンデム体制についてまとめました。4年間首相を務めたプーチンは2012年の大統領選挙に出馬し、当選を果たします。再び「プーチンのロシア」が復活したのです。しかし、原油価格高騰によって上り調子だった00年代とは、10年代は内外政とも環境が大きく変わっていました。今回は2012年から始まる2度目のプーチン大統領政権「プーチン2.0」について見てきたいと思います。

1.「プーチンなしのロシアを!」

2011年9月、プーチンは次期大統領選挙への出馬を表明し、当選した暁には現大統領であるメドベージェフを首相とすると宣言しました。この公職ポストの交換(スワップ)権力の私物化であると強い批判を浴びました。同年12月には下院選挙が実施されましたが、政権与党である統一ロシアは辛うじて過半数を獲得したものの、前回の選挙から大幅に議席を減らしました。さらに、この選挙では不正があったとして大規模な抗議活動が起こり、モスクワでは10万人を超える市民「プーチンなしのロシアを!」をスローガンにデモを行いました。

モスクワでの反プーチン・デモ
こうした反政府運動の高まりに対し、ロシア政府はロシア版「カラー革命」の到来を懸念した。
By Bogomolov.PL - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17787053

こうした中行われた2012年3月の大統領選挙で、プーチンは64パーセントの得票率を得て当選をはたします。以前のような7割を越えることはなく、モスクワでは5割を切ることとなりましたが、他の候補者と大きく差をつけ一次投票で当選を決めました。クレムリン近くのマネージ広場での勝利集会で、プーチンも感無量だったのか涙を流しました

5月7日にクレムリンに復帰したプーチンがまず着手したのが、集会やデモの規制強化でした。この法案は驚くべきスピード審議で議会を通過し、わずか1か月後の6月9日に発効されました。これにより、無許可でデモや集会を開催したり、開催時間の延長した場合は、最高100万ルーブルという高額な賠償金が課されることになりました。ロシア人の平均年収は60万ルーブル前後といわれているので、違反すればそれ以上の額を一気に失うことになったのです。

リュドミラ・ナルソワ(1951-)
ペテルブルグ市役所時代のプーチンの上司アナトリー・サプチャクの未亡人。2012年当時上院議員であったナルソワは、デモ規制強化改正法のスピード審議に対し、「なぜ、それほどまでに手続きを急ぐのだろうか」と批判し、議員職を解任された。
By Council.gov.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=67198923

2.外国エージェント法

反政府運動へのさらなる締め付けとして制定されたのが、「外国エージェント法」です。この法律により、ロシアのNGONPO外国政府や個人からの経済支援を受ける際は、司法省に登録し、自らが「外国のエージェント」であることをウェブサイトや出版物上で明記したうえで、年2回の資金活動報告を提出することが義務化されました。

ここでいう「外国のエージェント」には、外国に雇われ、外国の利益のために行動する人間、すなわち「外国のスパイ」というニュアンスがこめられています。「外国のエージェント」と名乗ることはスパイのレッテルを貼られ、支持者からの信用を失いかねないことでした。さらに、違反した場合は最高100万ルーブルの罰金、または三年以下の懲役という重い罰が科せられました。

この法律はロシア独自のNGOだけでなく、「アムネスティ・インターナショナル」や「トランスペアレンシー・インターナショナル」などの国際NGOのロシア支部もその対象とされました。中には定められた義務を守らなかったために告訴され、活動停止に追い込まれた団体もありました。

3.プーチン流保守主義

2000~08年までの「プーチン1.0」と「プーチン2.0」の大きな違いは、プーチンが自身のイデオロギーを明確化したことです。というよりも、中央政界に進出してわずか4年で大統領となった「プーチン1.0」の段階では、まだ独自のイデオロギーを確立できていなかった、という方が正しいかもしれません。2013年の年次教書の中で、プーチンはロシアの伝統的な価値観を擁護する立場を表明し、その思想を「保守主義」と名付けました。

プーチンがいうところの「伝統的価値」とは何なのかは明確ではありませんが、物質主義や拝金主義、グローバリズムの影響でロシアの精神文化が汚染されていると感じている節があります。例えば、2013年6月に制定された「ゲイ・プロパガンダ禁止法」は、同性愛がロシア正教会の考えに基づく伝統的な家族関係を否定するものであり、その悪影響から未成年者を守ることを目的としていました。このように、ロシアは欧米とは異なる独自の文明であると見なし、ロシアの伝統に反する欧米的価値観、ポスト・モダン的価値観を排除しようとするのが、プーチン流保守主義の特色といえます。

プーチンの保守主義思想の形成に最も大きな影響を与えたとされているのが、イワン・イリインです。イリインは19世紀末から20世紀前半に活躍した哲学者で、強い指導者の必要性を説き、宗教と国家主義を称賛する極めて保守的な思想を有していました。そして、イリインはロシアは西欧をモデルとするのではなく、独自の道を歩むべきであるという主張を打ち出しており、プーチンは、この国際的な自主独立の立場を提唱したイリインの思想が最良のガイドラインを与えると明言しました。

イワン・イリイン(1883-1954)
プーチンお気に入りの哲学者。ロシア革命後の1922年に国外追放となり、ドイツへと移り住む。その著作はロシアの民族主義者に大きな影響を与えた。

4.愛国心とナショナリズム

保守主義というイデオロギーを掲げたプーチンは、ロシアの未来を建設する基礎となるものは、ロシアの歴史や伝統、精神的価値観などの尊敬しようとする心、すなわち「愛国心」であると主張しました。プーチンはロシア人の愛国心を鼓舞するために、ナショナリズムにアピールする政策を打ち出します。

ロシアの愛国心を高揚させる絶好の機会となったのが、2014年のソチ五輪です。プーチンがIOC総会で自ら英仏両語でプレゼンテーションをしてまで誘致したソチ五輪には、510億ドルという五輪史上最大規模の費用が投じられました。ロシアはソ連時代を含め金メダル及びメダル獲得数最高記録を達成し、プーチンは五輪が成功裏に終わったことを国内外にアピールしました。

ソチ・オリンピックパーク
五輪開催地にソチが選ばれた理由は、温暖なリゾート地であることもさることながら、北コーカサスに残るチェチェン紛争の暗いイメージを払しょくするため、ということがあげられる。
By Arne Müseler / www.arne-mueseler.com, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=84108675

そして、極めつけとなったのは五輪閉会の直後に行われたクリミア併合です。隣国ウクライナでは、2013年末から親露派のヤヌコヴィッチ大統領政権とEUとの関係強化を望む野党勢力との対立が激化していました。ロシアはこの混乱に乗じ、ウクライナ領クリミア秘密裏に軍隊を派遣し制圧、軍事的威圧のもとに住民投票を行い、ロシアへの編入してしまいました。

クレムリンでのクリミア編入条約の調印式
左からクリミア首相アクショーノフ、クリミア国家評議会議長コンスタンティノフ、プーチン、セヴァストポリ特別市評議会議長チャリ。同条約は3月16日の住民投票からわずか2日後にスピード締結された。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=31679370

五輪開催とクリミア併合によって、大統領選のときに高まっていた国民のプーチン疲れを解消することに成功し、支持率は就任直後の65パーセントから85パーセントへと急上昇しました。

5.三重苦

プーチン体制はますます強固になっていった一方で、経済的にはロシアは苦境に立たされることになります。

まずロシア経済の生命線といってもいい原油価格の下落です。2014年6月の1バレル=115ドルをピークに下落し始め、半年間で半値の50ドル代まで落ち込み、2016年1月には1バレル=26ドルという最安値を記録しました。これに並行してルーブル安が発生し、2014年初頭に1ドル=36ルーブルだったレートは、2015年1月には65ルーブル、2016年初頭には73ルーブルまで下落しました。

シェール・ガス掘削タワー
2014年からの原油価格下落には、アメリカやカナダにおいてシェール層から石油や天然ガスを掘削できる技術が開発された「シェール革命」が影響を与えた。
By Ruhrfisch, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8363392

これに加え、クリミア併合をはじめとする一連のウクライナ政策に対する懲罰として、欧米諸国からの経済制裁が科されました。今回の制裁では、プーチン政権の中枢に位置する政府高官やオルガリヒなどの個人を対象に、欧米諸国への渡航が禁止され、海外資産が凍結されました。

原油価格の下落、ルーブル安、そして経済制裁という三重苦により、ロシア経済は大打撃を被りました失業者数は500万人以上、全就労可能人口の6パーセント近くにまで増加し、さらに13パーセントという深刻なインフレが発生しました。プーチン1.0の際に10パーセントまで減少した貧困率は再び増加し始め、2015年には15パーセントにまで達しました。ロシアはリーマン・ショックのときよりも深刻な経済危機に見舞われたのです。

6.まとめ

「プーチン2.0」においてロシアがどのように変化したかを一言で表すとすると、それは「ナショナリスティック」な方向へ舵を切った、といえるでしょう。プーチン自身は、2000年の大統領就任当初から「愛国主義」や「反欧米」といった色を見せてはいましたが、2012年以降はそれを露骨に表明するようになりました。それだけ欧米の支援なしに、ロシアは単独でやっていけるという自信が持てたからでしょう。その代償として経済制裁や国際的孤立感を招きはしましたが、現在のロシアを見るに、それもプーチンの自身を砕くほどのものではなかったようです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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