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ざっとわかる「西ローマ帝国」の滅亡

1.はじめに

「なぜローマ帝国は崩壊したのか」という問いは、西洋史において最も活発に議論されてきた問題のひとつです。長期的な経済衰退によるイタリア没落説、気候変動による人口減少説、教会が優秀な人材を吸収してしまったとするキリスト教原因説など、これまで提示されてきた学説は、実に210種類以上になると言われています。また、1970年代以降には、そもそもローマ帝国に起こったのは「滅亡」ではなく、「古代末期」という時代に適応するための「変貌」だったとする「古代末期論」が登場しました。

このように百花繚乱の「ローマ帝国崩壊」論争ですが、今回は最も一般的に知られていると思われる「ゲルマン人の侵入」説を取り上げます。「ゲルマン人」とは、ガリア(現フランス、ネーデルラント)やゲルマニア(現ドイツなどの中欧)に住む「蛮族」に対し、ローマ人が用いていた呼称のことです。「ゲルマン人」は時にローマ人と同化し、ローマ軍の兵士となって生活してきましたが、4世紀後半以降、帝国領内に大挙して押し寄せ、皇帝政府を脅かすようになります。今回は「ゲルマン人の大移動」とその後の帝国西方の状況を見ていきたいと思います。

2.ゲルマン人の大移動

370年代、東方からやってきた遊牧民フン人ヨーロッパへと侵入しました。フン人は黒海北部に居住するイラン系のアラニ人を攻めて支配下に置き、そのアラニ人も軍に加え、ゴート族の一集団グレウトゥンギを攻撃しました。当時のグレウトゥンギはエルマナリックという強大な王が支配していましたが、フン人との戦いの中で死亡しました。

フン人の移動ルート
フン人の起源がどこで、どのような民族系統に位置付けられ、どのような言語を話していたのかは現在でも不明である
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グレウトゥンギ国家の壊滅を受け、ゴート族は大混乱の陥りました。もう一つのゴート族の集団であるテルウィンギの王アラウィウスは、376年、東方のローマ皇帝ウァレンスに使者を送り、帝国領へ避難することを打診しました。ゴート族に新しいローマ軍の供給源を期待したウァレンス帝は、テルウィンギにドナウ川を越えることを許可します。これがいわゆる「ゲルマン人の大移動」の始まりです。

しかし、避難先でゴート族を待っていたのは、ローマ軍による酷い仕打ちでした。ドナウを渡った難民たちは、ローマ帝国領モエシアに移りました。ローマ軍司令官ルキピヌスは彼らに食糧を提供しないばかりか、高値で買い取るように強要しました。ルキピヌスはの仕打ちによって、難民たちは飢えに苦しみ、さらにローマに対する強い怒りを感じるようになりました。ルキピヌスは反乱を起こさせないように、アラウィウスらテルウィンギの指導者たちを歓迎すると見せかけて人質にしようと画策しますが、失敗します。

3.アドリアノープルの戦い

ローマの不誠実に怒り心頭に発したゴート族は南下を開始します。ルキピヌスはローマ軍を結集して迎え撃ちますが、ゴート族軍に敗北しました。ローマ軍敗北の報せを受け、それまでの帝国内での待遇に不満を抱いていた諸集団や、さらに東方のフン人やアラニ人もゴート軍に加わるようになりました。様々な部族集団が連帯して、ローマ軍に対抗するようになったのです。

この事態に対し、西方の皇帝グラティアヌスは、叔父であるウァレンス帝を支援するために、東方へと軍隊を派遣します。373年にアラマンニ族、レンティエンセス族がライン川を渡って帝国西方へと侵入すると、グラティアヌスは東方の軍隊を呼び戻してこの侵入者を撃退し、再び東方へ軍隊を向かわせました。しかし、このグラティアヌスの単独勝利と東方支援によって、ウァレンスは甥に負けぬようにと活躍しなければと思い詰めるようになります。

ウァレンス帝(328-378)
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功を焦るウァレンスは部下の助言を無視して、西方の軍隊との合流を待たずにゲルマン人を迎え撃とうとします。378年8月9日、アドリアノープル(現トルコ領エディルネ)でローマ軍はゲルマン人軍と激突しますが、一体性のないゲルマン人の動きは、ローマ軍に彼らの捕捉を難しくしました。ローマ軍は総崩れとなり惨敗を喫し、ウァレンスも避難した小屋の中に放火され、焼き殺されてしまいました。この戦いでのローマ軍の被害は、戦死者数1万5000人から3万人という甚大なものであり、帝国東方の軍隊はその3分の2を失い、壊滅状態となりました。

4.明暗が分かれた帝国の東西

しかし、ゴート族軍はそれ以上帝国東方の攻略を進めることはできませんでした。彼らは東の帝都コンスタンティノープルを目指しますが、自然の要害強固な城壁、さらにアラビア人弓兵に阻まれ、攻撃に失敗します。また、帝国東方領の大部分はギリシャと小アジアを分かつ海峡の向こう側にあり、海を渡る技術を持たなかった彼らは、こうした地理的条件によって東方への進撃を断念せざるを得ませんでした。

アドリアノープルの戦いの翌年、実地経験豊富で優秀な軍人であったテオドシウス1世が東方の皇帝に即位します。テオドシウスはゴート族、アラニ人、フン人の集団を個別に撃破し、さらに指導者間の対立を利用してゴート族の一部をローマ軍に取り込むことに成功しました。そして、382年10月3日、ローマ帝国とゴート族の間で条約(フォエドゥス)が結ばれ、ゴート族は同盟部族(フォエデラティ)として、ローマ軍に兵士を提供する代わりに、ドナウ川とバルカン山脈の間の属州における居住を認められました。


テオドシウス1世(347-395年)
グラティアヌスによって父を処刑され、自身も免官されていたにも関わらず、彼の呼びかけに応じ、東方を統治するようになる

これによって、ゴート族は帝国の構成員として兵役と農耕に従事して暮らすようになるはずでした。しかし、テオドシウスの死後、彼の2人の息子によって分割統治された東西のローマ帝国が鋭く対立するようになると、ゴート族は再び移動を開始してイタリアに侵入します。401年、指導者アラリックに率いられた軍団はミラノを包囲し、さらに、405年にはラガダイイスに率いられた大軍がフィレンツェを攻撃しました。

ローマ軍総司令官スティリコはブリテン島、ガリアなどから軍を集め、イタリアに侵入したゴート族軍を退けることに成功します。しかし、ローマ軍が不在となったことで帝国の国境地帯は無防備状態となり、406年末、ヴァンダル族、スエウィ族、アラニ人などの諸集団がライン川を渡って帝国領内に侵入しました。この「大侵入」により、マインツ、トリーア、アミアンなど数々のローマ風都市やウィッラ(農業屋敷)が略奪のうえ、破壊されました。さらに、ブリテン島、ガリア、イベリア半島、そしてアフリカで僭称皇帝が相次ぎ、帝国西方は内乱状態に陥りました。

100年から500年におけるゲルマン人の移動ルート
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5.ローマ陥落と「西ローマ帝国の滅亡」

ゴート族を退け、2度もイタリアを救ったスティリコでしたが、政敵の陰謀によって逮捕・処刑されてしまいます。スティリコが失脚すると、ローマ軍の一部が暴動を起こし、軍に加わっていたゲルマン人兵士の家族を虐殺するという大事件を起こしました。これに怒った3万人のゲルマン人兵士たちはローマ軍を離れ、アラリックの軍に合流します。思いもよらぬ増員を受けたアラリック軍は、ローマに向けて動き出しました。

スティリコ(右)とその妻子(左)のレリーフ
スティリコは父親がヴァンダル族という「蛮族」出身であったが、ローマ軍の総司令官となり、テオドシウスの姪を妻とするなど皇族とも親縁関係にあった。彼のような「蛮族」出身の軍人・政治家は、当時のローマ帝国では珍しくなかった。

アラリックのローマへの進撃に対し、西方の皇帝政府は何ら有効策を講じることができませんでした。攻囲が始まると、ローマは飢餓状態となり、さらに伝染病までも発生しました。そして、410年8月24日、ゴート族軍はついにローマを占領し、3日間にわたって略奪しました。永遠の都と呼ばれたローマは800年ぶりに外敵からの攻撃に合い、そして陥落したのです。

ゴート族軍は、418年には条約(フォエドゥス)を結んで南西ガリアに定住するようになります。また、ブルグンド族、アラニ族などのゲルマン人諸部族も同盟部族としてガリアに定住することが合意されました。しかし、彼らは独自の王を戴く事実上の独立勢力であり、帝国政府はその統治に何らかかわりを持ちませんでした。このときすでに、西方の帝国政府はイタリアの一地方政権に転落しており、国家を統治するはずのローマ皇帝はその存在意義を失っていました。476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって、皇帝ロムルス・アウグストゥルス廃位されます。これ以降、帝国西方に皇帝が擁立されることはなくなりました。

オドアケルに退位させられるロムルス・アウグストゥルス
西ローマ最後の皇帝は、奇しくもローマの建国者と初代ローマ皇帝の名を持つ少年であった

6.まとめ

教科書的な理解では、476年のロムルス・アウグストゥルス廃位を持って、「西ローマ帝国」が滅亡したとされています。しかし、前述のとおり、帝国各地にゲルマン人が定住化した5世紀前半には帝国はすでに解体状態にあり、476年に起きた出来事は「滅亡」というほど劇的なものではなく、むしろそれ以前に起きた「ゲルマン人の侵入」のほうがより重要な影響を与えていました。

「ゲルマン人の侵入」以降、かつての帝国西方は著しく衰退したことが、近年の考古学的研究によって明らかになっています。質の高かったローマ時代の陶器や屋根瓦は姿を消し、新しい貨幣も発行されなくなりました。人口もローマ時代の半分から4分の1にまで減少したと推定されています。西欧がこの衰退から回復するには、何百年もの時間を要することになりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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同時代の帝国東方の状況については、こちら


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