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【ロシア連邦の歴史3】「大国」の復活

こんにちは、ニコライです。今回は【ロシア連邦の歴史】第3回目です。

前回の記事では、大統領となったウラジーミル・プーチンが権力基盤を固めていく過程についてまとめました。動乱時代とも呼ばれる混迷した90年代と対照的に、プーチンが政権を獲得して以降のロシアは急速に立て直しを図り、国際政治の場において再び影響力を持つようになっていきました。今回はプーチンの掲げた「大国」ロシアの復活がどのようにして図られたのかを見ていきたいと思います。

1.エネルギー産業の再国有化

1997年6月、プーチンはレニングラード鉱山大学に準博士論文を提出し、「カンディダート(準博士)」の称号を得ています。この論文の中で彼は、ロシアの豊富な天然資源を利用することは国益追及にとって必要不可欠であり、かつそれは民間企業ではなく国家の管理下に置かれるべきである、と主張していました。大統領となったプーチンは有言実行、エネルギー産業の再国有化に着手します。

90年代に推進された民営化の結果、ロシアの石油産業は複数の企業に分割されていました。その中でも最大の規模を誇っていたのがユコス社です。ユコス社は、米国や中国など外国企業との提携を模索し、さらに国内石油企業の吸収・合併を進めてさらなる巨大化を図ろうとするなど、プーチンにとって大変目障りな存在となっていました。

ミハイル・ホドルコフスキー(1963-)
ロシア最初の民間銀行「メナテップ」頭取、燃料エネルギー省次官を経て、ユコス社社長に就任。有力鉱床を二束三文で買い叩いた際、彼がどれだけ順法していたのかは不明。
By PressCenter of Mikhail Khodorkovsky and Platon Lebedev / Пресс-центр Михаила Ходорковского и Платона Лебедева - http://khodorkovsky.ru/pages/licenses/ (archived), CC BY 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9361226

2004年12月、検察当局は社長のミハイル・ホドルコフスキー脱税の疑いで逮捕し、さらにユコス社に法外な納税を課して破産に追い込みます。そして、破産したユコス社は国営石油企業ロスネフチの手に渡ります。それまで国内第8位でしかなかったロスネフチは、ユコス社を買収したことでいっきにロシア第1位の石油企業へと上昇しました。

天然ガスに関してはソ連崩壊後も政府系コンツェルン・ガスプロムが一元的に管理していましたが、有力なガス鉱床は90年代に外国企業に売却されてしいました。その象徴的な存在が、ロイヤル・ダッチ・シェル、三井物産、三菱商事の100パーセント外資による「サハリン2」プロジェクトです。プーチンはこのプロジェクトの乗っ取りを画策し、2006年にガスプロムが50パーセント+1株を獲得し、多数株主となりました。以降、石油・ガスのみならず、ウラン、ダイヤモンド、ニッケルなどの地下資源開発においては、ロシア政府が株式の50パーセント以上を保有するというルールが法制化されます。

サハリン1(黄)およびサハリン2(赤)の鉱区
サハリン・プロジェクトは、サハリン北東部に広がる大陸棚の豊富な石油・天然ガスを採掘し、日本、韓国、米国などの諸国へ輸出する巨大プロジェクト。
CC 表示-継承 3.0, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?curid=689931

2.原油価格高騰の追い風

プーチンにとって幸運だったのは、彼が大統領に就任した頃から原油価格が右肩上がりで高騰し始めたことでした。2000年秋の原油価格はわずか1バレル33ドルでしたが、2008年7月には5倍近い147ドルにまで高騰しました。単純計算で、ロシアの石油・ガス産業は6500億ドルも稼いだことになります。石油産業はロシアにとってまさに金のなる木となったのです。


原油価格の推移
00年代の原油価格高騰の原因としては、イラク戦争による中東情勢悪化、中国やインドなどの新興国における需要増加があげられる。
By TomTheHand - Own work, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4093492

政府の収入は増加し、2005年1月にはIMFなどからの対外債務を3年半も前倒しで完済しました。さらに、外貨準備高は125億ドルから4000億ドルにまで増加しました。90年代にすっかり落ち込んでしまったGDP(国内総生産)も上向きになり始め、年間成長率7パーセントに達しました。さらに、平均可処分所得は100ドルから600ドルまで急伸、人口の3割を占めていた貧困率も半分以下に減少しました。

2008年の『フォーブス』誌の世界長者番付では、1125人の10億ドル長者のうち87人がロシア人でした。彼らはプーチンとの個人的つながりによって地位を得た「プーチンのお友達」と呼ばれる側近やオリガルヒたちでした。こうしたスーパーリッチが出現する一方、国民全体の生活水準も向上し、都市部では「中流階級」という自己意識も持った人々も現れ始めました。

ロマン・アブラモヴィチ(1966-)
エリツィン・プーチン時代を通して成り上がったオリガルヒの代表例。シブネフチやロシア・アルミニウムなどのエネルギー企業の経営者であり、ロシア第一位の億万長者。2003年にはイギリスのサッカークラブ「チェルシー」のオーナーにもなる。
By Marina Lystseva - https://m.vk.com/album447796709_0?rev=1&from=profile&z=photo447796709_456239017%2Falbum447796709_0%2Frev/%7C2=vk.com, GFDL 1.2, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=116348071

3.欧米への対決姿勢

大統領となったプーチンは、エリツィン時代に冷え切ってしまった欧米との関係を改善するため、当初は親欧米路線を採用していました。2001年9月11日に米国で同時多発テロ事件が発生した際、プーチンはブッシュ大統領の「テロとの戦い」を支持し、対米支援を発表しました。また、キルギス、ウズベキスタンなどの旧ソ連構成国に米軍基地を建設することを認め、さらに2002年には「NATO・ロシア理事会」が設立され、ロシアとNATOとの関係の緊密化も図られました。

プーチンと各国首脳(2005年)
左から小泉首相(日)、シラク大統領(仏)、シュレーダー首相(独)、プーチン、ブッシュ大統領(米)。ブッシュは反露・反KGBで有名であったが、一度プーチンと会談するとたちまち彼に惚れこんでしまい、ファーストネームで呼び合う仲にまでなった。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4921836

しかし、両者の関係は次第に批判的なものへと転換していきました。米国との間はイラク戦争以降すきま風が吹くようになり、英国との関係も亡命している反体制派のボリス・ベレゾフスキーやアレクサンドル・リトビネンコをめぐって悪化の一途をたどりました。また、強権的なプーチンの振る舞いは民主主義の後退と見なされ、チェチェン戦争への対応で人権問題があったことも、ロシアへの批判を強めました。

アレクサンドル・リトビネンコの墓
リトビネンコは元FSB(ロシア連邦保安局)の局員で英国に亡命していたが、2006年に毒物を飲まされ暗殺される。使用された毒物が通常では入手困難な放射性物質「ポロニウム210」であったことから、ロシア政府の関与が疑われている。

一方のロシアは、旧東欧社会主義諸国のNATO加盟(いわゆる「NATOの東方拡大」)や旧ソ連諸国で起こった政変である「カラー革命」によって欧米への警戒感を強めました。ロシアの国境付近にNATO軍が駐留する国や親欧米政権が樹立することは、ロシアの安全保障を脅かすものと見なされたのです。2007年のミュンヘン安全保障国際会議において、プーチンは米国一極支配とNATO東方拡大を批判する演説を行いました。この「ミュンヘン演説」はプーチン外交の転換点と見なされ、以降、欧米への対決姿勢を強めていきます。

NATOの拡大
旧社会主義圏の加盟としては、1999年にポーランド、チェコ、ハンガリーが、2004年には旧ソ連構成国だったバルト三国を含む7ヵ国が加盟した。
By Patrickneil, - Own work based on: EU1976-1995.svg by glentamara, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4794601

4.多極主義の追求

米国の一極主義を批判する一方で、プーチンが目指したのは複数の国が影響力を持つようになる多極主義的な国際秩序です。2000年に大統領に就任したプーチンは文字通り世界中を飛び回り、その年だけでも25ヶ国を訪問しました。その中には非欧米諸国も多く、プーチンは00年代を通して多国間との関係強化を追求していきます。

プーチンが特に重視したのが、中国インドです。両国とも00年代に急速な経済成長を遂げ、ロシアと共にBRICsと呼ばれるようになった有力新興国です。中国とロシアは国境問題を抱えていましたが、2004年に最終的に解決します。経済的な結びつきも強まり、2000年に80億ドルだった貿易額は8年間で5000億ドルに達しました。一方、インドとは武器貿易原子力産業において関係を強化していきました。

プーチンと胡錦濤国家主席(2007年)
プーチンは中国の最高指導者と最も頻繁に会談を行っている。両国はそれだけ緊密な関係にあるわけであるが、4000キロ以上の国境を接することや人口ギャップ、貿易のアンバランスさなどから、必ずしも両者が親密な関係にあるわけではない。
By Kremlin.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5160359

さらに、韓国や北朝鮮などの中印以外のアジア諸国、南米、アフリカとの関係にも積極的なアプローチが試みられました。こうして00年代のロシアは国際政治の場においても、再び存在感のある国となっていきました。

5.影響圏としての近隣諸国

旧ソ連諸国は、ロシアにとって「近い外国」ということで「近隣諸国」と呼ばれます。アルメニアやベラルーシなどを除き、ロシアに接近しようとする国は少数派でした。特にバラ革命(2003年・ジョージア)、オレンジ革命(2004年・ウクライナ)、チューリップ革命(2005年・キルギス)など「カラー革命」を経験した国々では、革命後に親欧米派政権が樹立したため、ロシアとの関係は疎遠な方向へ向かおうとしていました。しかし、ロシアはこれらの国々を「影響圏」と見なし、様々な外交カードを駆使して自国の下につなぎとめておこうとします。

ロシアがとる代表的な手段は「国内紛争」の利用です。アゼルバイジャン、ジョージア、モルドバは国内に独立志向の強いマイノリティを抱えていました。ロシアはこれらのマイノリティを経済的・軍事的に支援し、交渉の場をお膳立てして、ロシアに有利な条件での停戦協定を本国に飲ませます。そして、これらのマイノリティはロシアの支援のもと本国の主権が及ばない「未承認国家」として残り続け、これを通してロシアは影響力を行使し続けるのです。

旧ソ連諸国の未承認国家
左から沿ドニエストル共和国(本国はモルドバ)、アブハジア共和国、南オセチア共和国(双方ともジョージア)、ナゴルノ・カラバフ共和国(アゼルバイジャン)。
By Syanarion62 - File:Russian recognition of european post-sovietic territories early 2014.svg, CC BY-SA 3.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=38565826

もうひとつの手段が「エネルギー問題」です。旧ソ連諸国でエネルギーを自給できる国は少なく、これらの国々はエネルギー供給をロシアに依存せざるを得ないのです。ロシアは反抗する国々に対し、価格や供給を操作する「エネルギー制裁」を加えることで、政治的圧力をかけました。例えば、親露的なベラルーシに対しては、天然ガスをヨーロッパ・旧ソ連諸国の中で最低価格で供給する一方、親欧米的なウクライナに対しては、ガス供給の遮断に踏み切っています。

プーチンとユリヤ・ティモシェンコ(2009年)
ティモシェンコはウクライナの首相も務めた政治家にして、エネルギー企業の経営者。両国はその後もガスをめぐる対立を繰り返したため、「ガス紛争」などとも呼ばれた。
By premier.gov.ru, CC BY 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=17787196

6.まとめ

以上のように、00年代のロシアは政治的にも経済的にも国際的に影響力のある国になっていきました。この頃の多くの書籍・雑誌では、ロシアを指して「大国の復活」というキーワードが飛び交っていました。

しかし、ロシアは本当に大国なのでしょうか。僕の考える「大国」ロシアの問題を2点あげたいと思います。

①エネルギー依存経済
エネルギー産業の発展はロシアの経済回復に大きく貢献しました。しかし、逆に言うとエネルギー以外の産業はほとんど成長がなく、ロシア経済は過度にエネルギーに依存したものとなってしまいました。このことは、2008年以降の原油価格下落とロシア経済の落ち込みが全く連動していることからも伺われます。つまり、ロシアは経済の多角化に失敗し、モノカルチャー経済となってしまったのです。

②ソフトパワーの弱さ
①とも関連することですが、ロシアは他国を魅了するようなソフトパワーが欠けていると思います。米国が大国の地位にあるのは、軍事力・経済力だけでなく、民主主義・自由・多様性などを尊重する価値観があり、多くの人々がその魅力にひかれて集まるからです。一方、ロシアは周辺国を圧力をかけて従わせようとしているだけで、自発的に近寄ってくるのはベラルーシやシリア、イラン、北朝鮮などの独裁仲間だけではないでしょうか。

僕には、ロシアは軍事力やエネルギー産業などの一部の分野ばかり増強させ、それ以外はとても貧弱なままの歪な国に見えます。これでは米国はおろか、中国と比較しても「大国」などといえないのではないでしょうか。プーチンが00年代に構築したこの歪な体制は、ほとんどそのまま現代にいたるまで続いています。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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