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【ビザンツ帝国の歴史3】古代ローマの復興~ユスティニアヌス帝の時代~

こんにちは、ニコライです。今回は【ビザンツ帝国の歴史】の3回目です。

以前の記事で書いたように、ローマ帝国西方は5世紀前半にゲルマン人が相次いで侵入して荒廃し、476年以降は皇帝を擁立しなくなりました。それと対照的に、帝国東方は比較的政情が安定し、国力を充実させていきました。そして6世紀になると、「滅亡」した西の帝国の代わりに、東の都コンスタンティノープルこそが「新しいローマ」であるという意識が誕生し、帝国の中心は名実ともに東方に移っていきます。今回は、古代末期において最も精力的で、最も野心に溢れた皇帝ユスティニアヌスと、その古代ローマ復興事業について見ていきたいと思います。

1.ユスティニアヌスの登場

518年、皇帝アナスタシウス帝が跡継ぎ不在のまま亡くなると、後継者選びは紛糾し、最終的に老将ユスティヌスが即位します。ユスティヌスは農民から将軍へと登り詰めた有能な戦士でしたが、まともな教育を受けたことがなく、皇帝の承認が必要な勅令・文書を読むことも、それに署名することもできませんでした。

そこでユスティヌスが信頼できる人物として頼ったのが、宮殿守備隊の司令官となっていた甥のユスティニアヌスです。ユスティニアヌスも農民の子でしたが、20歳くらいの頃、伯父を頼ってコンスタンティノープルへ行き、そこでギリシャ語やラテン語などの高い教養を身に着け、法律や神学などの教育を受けていました。彼はユスティヌスに文書の内容を読んで説明するだけでなく、自分自身の名前で文書を作成するようにさえなり、やがて、伯父の養子に迎えられて共同皇帝に任命されました。

ユスティニアヌス1世(483-565)
古代末期において最も精力的で、最も野心に溢れた皇帝。不眠不休で食事もとらずに活動し、「仕事中毒」気味だったと言われている。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画

527年、ユスティニアヌスは伯父の跡を継いで皇帝となり、その少し前に出会い、結婚していたテオドラとともに聖ソフィア聖堂で戴冠式を行いました。以後38年間続く彼の治世が始まります。

皇后テオドラ(500-548)
ユスティニアヌスの后。サーカスの熊使いの娘で、当時は踊り子や売春をしていたと伝えられている。ユスティニアヌスは彼女に一目惚れし、踊り子との結婚を禁止した法律を曲げて正式な妻とした。画像は同じくサン・ヴィターレ聖堂のモザイク画

2.ローマの伝統を我が物に

ユスティニアヌスは、古代ローマを復活させるという壮大な野望を抱いていました。そうした帝の意志が感じられるのが、初期の大事業となったローマ法典の編纂事業です。

438年の『テオドシウス法典』以降100年余りの間、法令は収集されていなかったため、ユスティニアヌスは即位から半年後に、法学者トリボリアヌスを長とする委員会を設置して新法典の編纂事業に着手しました。そして、わずか1年という驚異的なスピードで新法典『勅法彙纂』が完成させます。それだけでなく、533年には、法学者たちの注釈・学説を整理した『学説彙纂』とローマ法の初学者用教科書として『法学提要』を作成しました。これら3冊に、ユスティニアヌス死後に編纂された『新勅法彙纂』を加えた4冊を総称して『ローマ法大全』と呼びます。

『ローマ法大全』の写本(1583年)
『ローマ法大全』はビザンツ帝国の基本法となっただけでなく、西欧諸国の法律にも大きな影響を与えた
By IusRomanum - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=78807015

長い伝統を持つローマ法典の整理自体、ローマの伝統を継承する事業でしたが、その中の文面からもローマの伝統を我が物にしようとするユスティニアヌスの強い意志が感じられます。例えば、法典の中では首都コンスタンティノープルは当たり前のように「ローマ」と呼ばれ、また、『新勅法彙纂』を除いた3冊は、勅法で使用されることが多くになっていたギリシャ語ではなく、あえてラテン語が採用されています。

こうしたローマの伝統へのこだわりは、行政改革にも見受けられました。ユスティニアヌスは官職の名称をローマの伝統的な官職名に「戻し」、往年の威信を復活させようとしたのです。例えば、属州の民政・軍政を担う属州総督には「プラエトル」、新設されたドナウ前線諸州を統合する行政単位の長には「クアエストル」という古代ローマの官職名が与えられました。

3.西方の再征服

ユスティニアヌスはこうした内政と並行して、ゲルマン人に支配下されていたかつての西方の領土を取り戻そうと積極的な対外戦争を繰り返しました。

533年、ユスティニアヌスは、王位継承をめぐってお家騒動が起きていた北アフリカのヴァンダル王国に軍事介入します。これを指揮したのが、東方のペルシャとの戦いで頭角を現していた将軍ベリサリウスです。ベリサリウス率いる1万8000人の遠征軍は、直ちに首都カルタゴを征圧し、翌年春には王国全体を征服しました。

ベリサリウス(500頃-565)
ベリサリウスの武勲はユスティニアヌスの嫉妬と猜疑心を招き、あるときは疎まれ、あるときは頼りにされるなど翻弄される人生を送ったが、彼自身は皇帝に忠実であり続けた

535年、ベリサリウスは、今度はイタリアを支配下に置いていた東ゴート王国の遠征に派遣されます。シチリア島を征服した遠征軍は、南イタリアに上陸後、ローマやナポリで大規模な包囲戦を展開し、540年には王都ラヴェンナを占領します。しかし、東ゴート人は新たな王を立てて執拗に抵抗を続けました。最終的に遠征軍がローマを占領するのは552年、イタリアを完全征服するのは555年であり、20年以上にもわたる長期戦となりました。

さらに、552年には、王族間の内紛に乗じてイベリア半島の西ゴート王国にも軍事介入し、カルタヘナやマラガを中心とする地中海沿岸地域を征服します。この一大征服事業により、ユスティニアヌスは地中海帝国たるローマを再現することに成功しました。

ユスティニアヌス末期のローマ帝国領
トラヤヌス帝時代の古代ローマ最大領域には遠く及ばないものの、地中海地域一帯、そして何よりも母たるローマ、イタリア全域を支配下に置くようになった
By NeimWiki - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=93471841

4.壮大な建築事業

こうした西方征服活動には莫大な戦費が必要でした。戦争を開始する前、ユスティニアヌスは市民向けの出費を削減する一方で、何かにつけて新たな課税を行う「財政改革」を行い、戦費を調達しようとしました。しかし、度重なる課税に市民たちの不満が爆発し、532年1月、競馬場から暴動を起こりました。これは「ニカ(勝利せよ)!」という掛け声とともに始まったことから、「ニカの乱」と呼ばれます。

コンスタンティノープルの街並みの再現イメージ
中央が皇帝の大宮殿、左に位置している巨大な長細い建物が競馬場(ヒッポドローム)。ニカの乱は帝都の一大娯楽会場であり、皇帝と市民が日常的に接する政治の場でもあったこの競馬場から始まった
By Hbomber - Own work, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=123641974

市民たちは対立皇帝を擁立し、ユスティニアヌスは廃位寸前にまで追い込まれますが、皇后テオドラからの激励を受けて踏みとどまる決意をします。帝は将軍ベリサリウスに命じて競馬場に結集していた3万人の市民たちを虐殺し、暴動を鎮圧しました。

それから1か月も経たないうちに、ユスティニアヌスは暴動で焼け落ちた町の再建にとりかかりました。特に教会の建設に力が入れられ、聖エイレーネ―教会や聖使徒教会など実に33もの教会が新設あるいは再建されました。その目玉となったのが、皇帝の教会儀礼の中心であったハギア・ソフィア大聖堂の再建です。537年に献堂式典が行われた大聖堂は、それまでの味気ない長方形のバシリカ様式から正方形の建物に巨大なドームを載せるという革新的なデザインに生まれ変わり、以後、コンスタンティノープルの象徴的な建築物となりました。当時の詩人シレンティアリウスのパウルスは、この壮大な教会の完成によりコンスタンティノープルはローマを凌駕したという詩を歌い上げました。

17世紀のハギア・ソフィア
再建されたハギア・ソフィアを目にしたユスティニアヌスは感極まって、イェルサレム神殿を建造したソロモン王を引き合いに出し、「ソロモンよ、我は汝に勝てり!」と叫んだと伝えられている。ただし、後世の記述にしか登場しないため、事実なのかは不明。

5.皇帝に屈服するローマ教会

地中海地域の領土的統一を成し遂げたユスティニアヌスは、同時にキリスト教会の再統合も目指しました。4世紀以降、教会では人間と神というキリストの2つの性質についての論争が繰り広げられていました。451年に開催されたカルケドン全地公会議では、キリストのうちに融合した人性と神性は「混ざらず、変わらず、分かれず、離れない」とするカルケドン信条が採択されました。しかし、これを拒否する反カルケドン派はその後も強い影響力を持ち続けていたのです。

カルケドン公会議を描いた作品(ヴァシリー・スリコフ,1876年)
カルケドン信条をめぐる教会分裂は現在でも続いており、シリアやエジプトのキリスト教徒の間では反カルケドン派が圧倒的多数を占めている

帝国がカルケドン派の多い西地中海地域を支配するようになると、教会の統一はますます重要な問題となりました。544年、ユスティニアヌスは、反カルケドン派が崇敬するアレクサンドリア主教キュリロスを批判したテオドロスイバスの3つの著作を弾劾する「三章勅令」を発布しました。これにより、カルケドン公会議の正統性を確保しながら、反カルケドン派との妥協を勝ち取ろうとしたのです。

この三章弾劾に対し、ローマ教会強い不満を表明しました。ローマ教皇ウィギリウスは皇帝とローマ教会との間で板挟みとなり、三章弾劾に賛同したかと思えば、カルケドン護持の姿勢を示すなど、態度を二転三転させました。しかし、最後はユスティニアヌスに追放処分の脅しをかけられ、帝が主催した第2回コンスタンティノープル全地公会議の決議を承認することとなりました。ユスティニアヌスはローマを軍事的に占領しただけでなく、その護り手であるローマ教会さえも屈服させました。

晩年のユスティニアヌス
ユスティニアヌスの治世には異教徒が宮廷から一掃され、アテネのアカデメイアが閉鎖・哲学教育が禁止されるなど、キリスト教化がますます推進された
By © José Luiz Bernardes Ribeiro, CC BY-SA 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=52649452

6.まとめ

ユスティニアヌスによる古代ローマ復興事業は、非常に大きな代償を伴いました。それは膨大な人命と資金を費やしてのことであり、度重なる戦争と建築事業により、ユスティニアヌスの晩年には国家財政は破綻状態であったといわれています。また、ササン朝ペルシャによる東方の大都市アンティオキア陥落、帝国東方での地震の頻発、腺ペストと思われる伝染病の流行など、その治世は決して輝かしい面ばかりではありませんでした。

しかし、ユスティニアヌスの時代に最も被害を被ったのは、なんといってもイタリアです。四半世紀におよんだ東ゴートとの戦争により、水道橋などのインフラは傷つき、ミラノなどの主要都市は何度も略奪されました。ローマ市の人口はたった500人にまで減少し、教皇グレゴリウス1世はその変わり果てた姿に「今元老院はどこにあるのか、市民はどこにいるのか」と嘆いたと伝えられています。さらに、コンスタンティノープルが「ローマ」を名乗り、ローマ教皇も皇帝に従わざるを得なくなるなど、その歴史と権威さえも奪われてしまい、本当の意味で古代都市ローマは滅び去ったのでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

参考

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ユスティニアヌスが再建したハギア・ソフィアの歴史については、こちら

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