【近現代ギリシャの歴史12】民主化と二大政党制
こんにちは、ニコライです。今回は【近現代ギリシャの歴史】第12回目です。
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軍事政権崩壊後のギリシャでは民主主義の再建され、二大政党制による政治体制が実現します。それをけん引したのが、二人の指導者、コンスタンディノス・カラマリンスとアンドレアス・パパンドレウです。今回は二大カリスマによって導かれた民主化後のギリシャについて見ていきたいと思います。
1.民主化と共和制への移行
1974年7月24日、軍事政権崩壊とともに帰国したコンスタンディノス・カラマリンスは首相へと就任し、ただちにギリシャの民主化に着手します。同年11月には、10年ぶりとなる国政選挙が実施され、カラマンリスは新政党「新民主主義党」(ND)を結成して選挙に臨みました。NDは300議席中220議席を獲得し、以降6年間続く、カラマンリス政権が発足しました。
この1か月後、今度は君主政の存続に関する国民投票が行われました。ギリシャの君主制は1973年に軍事政権によって廃止されていましたが、今一度その是非を民意に問うことになったのです。結果、賛成票わずか3割で、7割近い国民は反対票に投じました。こうして建国以来、列強によって押し付けられてきた君主制はようやく廃止されることが決定しました。
カラマンリスは軍事政権によって制定された憲法を改正し、1975年に新憲法を発布します。さらに、共産党の合法化といった民主化を推進するとともに、軍事政権関係者に対する裁判を実施し、軍政期に行われた抑圧・弾圧を清算させました。また、軍政期に使用が強制されたカサレヴサ(純正語)を廃止し、ディモティキ(民衆語)を公用語として認め、長年にわたる言語論争にも決着をつけました。
2.カラマンリスとEC加盟
カラマンリスは第二次世界大戦以来の米国依存体質と決別し、ヨーロッパへの仲間入りを果たすことが、国家の発展を保障すると考えました。それは具体的には、ギリシャがヨーロッパ共同体(EC)へ加盟することを指しました。1961年の提携条約により、ギリシャは1984年にはECへ加盟できることになっていましたが、カラマンリスはこの動きを加速させ、早期加盟を目指すようになります。
EC側が懸念したのは、共通市場に参加した際にギリシャ経済がその競争の激しさに耐えられるのかということでした。そのため、カラマンリスは軍政末期から停滞していたギリシャ経済の再建に取り組むことになります。その経済政策は国家統制型資本主義ともいうべきもので、物価や給与水準、労働法など様々な場面で国家が主導的な役割を果たしながら、自由市場システムを発展させていくというものでした。
国内政策と並行して、カラマンリスはEC各国を訪問し、加盟交渉を進めようとしました。この奮闘の甲斐もあり、1979年5月にはアテネで加盟条約が調印され、1981年1月1日、ギリシャはECの10番目の正式加盟国となります。また、前年の10月にはキプロス事件を契機に脱退していたNATOへも復帰し、ますますヨーロッパとの連携を強化していきました。
3.パパンドレウの「変革」
1980年、カラマンリスはND党首を辞し、大統領へと就任しますが、カリスマ指導者を失ったNDは翌81年の国政選挙で野党へと下野します。代って政権与党となったのが、アンドレアス・パパンドレウ率いる「全ギリシャ社会主義運動」(PASOK)です。PASOKは1974年時点ではわずか12議席の少数政党でしたが、その「変革」というスローガンに新しい政治を期待する人々から支持を集め、たった7年で国政を担うまでに急成長を遂げていました。
PASOKは反米、第三世界連帯、「ギリシャ人のためのギリシャ」を掲げ、パパンドレウはEC離脱、NATO脱退、米軍基地撤去などといった政策を主張していました。しかし、実際に政権を握ると、PASOKはこうした急進的な政策は放棄し、EC内への統合を進め、東欧社会主義圏、第三世界と連携しながらも、NATOの安全保障の枠組みの中にとどまり続けました。
実際に「変革」がもたらされたのは、内政においてでした。特に正教的価値観や伝統的な家族制度に囚われていた女性の地位向上が推進され、民事婚の合法化、嫁資制度の廃止、離婚手続きの簡素化、姦通罪の廃止などが行われました。また、第二次世界大戦期に活動した抵抗組織であるEAM/ELASの再評価を国家として初めて行い、共産圏へ亡命したギリシャ人の帰還を認め、さらに、民主軍に対する勝利を記念した行事を廃止し、国民的和解を進めました。
4.増大する国の借金
PASOKは社会主義政党として「特権なき人々のための政治」を掲げ、国民に気前よく再分配を行うことを惜しみませんでした。物価変動に応じて賃金・給与が変動する物価スライド制が導入され、手厚い年金・健康保険制度が整備されました。さらに、ECからの補助金が農業分野に注ぎ込まれ、農民は個人消費や不動産投資で潤いました。また、倒産した企業は国が買い取り、国営として経営が続けられました。
パパンドレウ政権は、こうした政策のための財源を四方八方から借金をすることで確保しました。パパンドレウの社会主義とは、富める者から貧しい者への再分配ではなく、ひたすら借金で賄おうとするものだったのです。このため、1980年には8.1パーセントだった財政赤字は、5年間で17パーセントに増加しました。
こうした事態に対し、1985年に国民経済相となったコスタス・シミティスは通貨切り下げや金融引き締め、緊縮政策を行い、状況を改善しようとしました。シミティスの政策は効果を上げ、2年間で財政赤字は13パーセントに減少しましたが、同時に賃金低下などをもたらしたことで国民の間では大変不人気でした。これを察知したパパンドレウはシミティスを罷免したため、PASOKは借金まみれの政策へと回帰してしまいました。
5.二大カリスマ時代の終わり
パパンドレウは、大統領であるカラマンリスに敬意を払い、1985年の大統領選挙の際も、カラマンリスの再選を望むような発言をしていました。ところが、実際に選挙が近づくと、PASOKは最高判事であったフリストス・サルゼダキスを推薦候補として発表したのです。選挙の結果、三回目の投票でサルゼダキスが大統領に当選し、さらに、次期国会では憲法改正が行われ、大統領権限が弱められた一方、首相権限は強化されました。
80年代後半になると、パパンドレウの健康問題や女性スキャンダル、さらに閣僚による収賄、横領、電話盗聴の発覚といった一連の政治スキャンダルにより、PASOKは支持率低下させていきます。1989年の選挙では、PASOKは政権与党から転落し、同年11月の再選挙、翌年4月の再々選挙を経てNDが新政権を発足させます。さらに、同年5月には高齢にも関わらず、カラマンリスが再び大統領に就任しました。
カラマンリスの賛同のもと、NDは財政赤字を解消するため緊縮政策を実施しますが、これが国民の不評を買い、1993年の選挙ではPASOKが再び政権の座に就きます。しかし、パパンドレウの体は限界に達しており、1日2,3時間しか執務ができず、人工呼吸器がなければ呼吸が困難な状態になっていました。1996年1月、パパンドレウは首相を辞任し、その数か月後に亡くなりました。葬儀の様子はテレビ中継され、国民は大きな悲しみに包まれたといいます。その2年後、大統領の任期を終えていたカラマンリスも91歳で生涯を終え、二大カリスマが率いる時代は終焉しました。
6.まとめ
カラマンリスとパパンドレウは、それぞれ大きな遺産をギリシャに残しました。カラマンリスは民主政治の立て直しに加え、EC(後のEU)という枠組みの中で、ギリシャが発展していくための基礎を築き上げました。パパンドレウは、極めて保守的だったギリシャ社会に風穴を開ける斬新な政策によって、文字通り「変革」をもたらしたといえます。しかし、パパンドレウは慢性的な財政赤字と対外債務という負の遺産も残しました。これはその後のギリシャだけでなく、欧州全体をも揺るがす爆弾と作用することになります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
主な参考
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