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「否定」を否定してしまうこと

「論破」とかロジカルシンキングがもてはやされる時代だ。
人に話すときは論理的に!と、本屋のビジネス本コーナーには強めの言葉が並ぶ。
結論を先に!PREP方で話して!とかなんとか。

選挙では、野党に対して与党批判だけしててもしょうがないから対案を出せ、とよく言われる。
先日行われた立憲民主党の代表選で新たなリーダーとなった泉氏も、就任演説でしきりに「批判だけでなく対案を出せる政党に変化する」とアピールしていた。

確かに、頭ごなしに否定することは簡単だし、誰にでもできる。
そんな否定ばかりでは物事は前に進まない。
否定だけでなく提案を!というのは、わかる気もするし、理にかなっている。

でも、そんなに「否定」をただ否定してしまっていいのうだろうか、とも思う。

大学生時代に、ゼミで面白いことを言うやつがいた。
視点がすこし変わっているから、他の人が気づけ無いことを言える。
しかし、彼は考えをまとめるのに時間が必要なタイプだった。
なにか違和感を感じると口を挟んでくるのだが、すぐには考えをまとめて言うことができないので、一旦保留にして後で話してもらう。

そうすると、中々面白い意見が出てくる。
彼には意見をまとめる時間が必要だった。

もし彼の一言に対して「否定だけしないで、ちゃんと提案もして」と言って無視していたら、どうなっていただろうか。

彼独自の興味深い意見が出てくることは少なかっただろう。

何かを否定してしまうことを非生産的と切り捨てることは、
まだ「何かになる以前」の、思考の芽生えとも言える「違和感」さえも摘み取ってしまいはしないだろうか。

ドイツの哲学者、アドルノが「ヴォルテールのために」という小文のなかにこんな一節を残している。

「言語が弁護論調になるとき、言語はすでに腐敗している。 真理のための表現はたった一つしかない。 すなわち、不正を否定する思想である。」

アドルノ「ヴォルテールのために」(『啓蒙の弁証法』手記と草案より)

何かを肯定し、これが良しとする論調は、その時点ですでに腐敗が始まっている。
どんなに思考を重ねたとしても、何かを肯定しはじめてしまうとき、そこには既に暴力的構造への加担がある。
真理を追求するためには、「〇〇がよい」ではなく「〇〇はダメだ!」であるべきだ、と。

平たく言えば、違和感を感じることにに対して「NO」を言うことが、即ち真理への道なり。

誰かを説き伏せようとか、貶めようとして発せられる単なる否定は排除されるべきかもしれない。
しかし、違和感の表明に対して「否定だけじゃなくて対案を出せ」というのは、それ自体かなり抑圧的で、
しかも新たな可能性を潰すことにはならないだろうか。

何かに違和感を感じ、それを発する人を大切にする、
そんな社会であってほしいと思う。


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