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花守さん

その人は今年も大きなシクラメンの鉢を抱えてやって来た。
「花守(はなもり)さん。」と声をかけられ今年の冬がはじまった。

声の主は私が働く高齢者施設に入所している方の奥様のMさんだ。
数年前から師走の声が聞こえ始める季節になると「明るくなるかなと思って。」とシクラメンを持ってきてくれる。
思い返せば新型コロナウイルスがくすぶり始めた頃からMさんのシクラメンは施設玄関を彩り、感染対策に奮闘している私たちに一瞬の目の保養と一息をつくきっかけを与えていた。
巨大な施設の中を目が血走る職員が右往左往する環境の中で、シクラメンは可憐なピンクのスカートをハタハタと揺らして控えめにそんな職員達を見つめるのだ。

「今日も可愛く咲いてるね。」
「葉っぱが立派ね。」
「今年のシクラメンは花が大きめ。」
「シクラメンの季節になったんだ、今年も終わるんだね。」
洗濯物の交換で来る入所者の家族、散歩に出る入所者とそれに付き添う職員にとってシクラメンの話題は適度な小休止と穏やかな会話のやり取りを生みだす。
シクラメンの話題から対話が広がる事はよくある。シクラメンが元気よく咲いているとそれだけで皆の笑顔が咲いた。

私は勝手に自らをシクラメン番長と名乗り、せっせと世話をしてきたがMさんから「花守さん。」と声をかけられて気恥ずかしくも、日本語の美しさを思う。
番長より品があって良いではないか。
私の見たくれも番長と言う面構えとは言えず、まん丸顔のおかっぱ頭だ。むしろ「当番さん。」の方がしっくりくるかもとね密かに気づいていた。
それに比べ「花守さん。」は花を守る力強さを感じつつも字面にぬくもりを感じる。役割と言う事務的な雰囲気はなく、マイペースな使命感がありそうだ。
即決、今日から私はシクラメン番長改め花守さんだ。
今年の最後に最高の肩書きがついた。

思い返せばMさんが初めてシクラメンを持ってきてくれた時の「明るくなると思って。」と言う一言は、未だ終わりが見えぬ流行り病の世の中をやり過ごすためにMさんが見いだした作戦だったのかもしれない。それならば、花守さんのやりがいもあるというものだ。

来年も皆が健やかに明るくに師走の空を花守さんは疾走する。

今年も1年間読んでいただきありがとうございました。
文章はまるでパズルのように言葉の組み合わせ次第でスッキリと美しく分かりやすい文章に仕上がる時もあれば、言葉を紡ぐキーワードが見当たらず、穴ボコだらけ隙だらけの文章となります。しばらく放置です。
しかし、ある日突然放置していた文章の穴に、これしかないという言葉がピョンと思い浮かんで、スッキリまとまる。
文章を書く作業の魅力がそこにはあると思うのです。
来年もピョンと飛び出す言葉たちと戯れる。