医者が病院を辞めた後④

プリンストン高等研究所については、そこの愚か者たちが何を考えていようが、私にはどうでもいい。

ブラジルで孤立していた物理学者デヴィッド・ボームの手紙

僕は今、医業としてはわずかに仕事を趣味として行っているにすぎません。
ほとんどは、物思いに耽ったり、運動や読書や勉強や散歩をしながら、人生のパートナーである鳥と過ごしています。

今回お話しする病院を辞めた後に経験したこととは、

大多数の人が悩み、努力して乗り越えようとしてなかなかできないことが、だいたい解決済みになってくる、

ということです。

例えば、小学校の時に、九九を覚えたと思います。
今目の前に、九九を一生懸命暗記しようとしている子供がいて、「なかなか覚えられない」と苦労していたとします。
ただ、子供の気持ちは何となくわかるけど、深く同情して一緒に悲しんであげることはしないと思います。
遅かれ早かれ覚えられるようになるのと、自分はもう九九は覚えている状態だから、ピンとこなくなるでしょう。

僕が今の生活を始めて数ヵ月後くらいから、知り合いの話を聞いても、同じような印象を抱くようになりました。
医療職でない人たちも同様に感じますが、医療職では特に実感します。

いくつかのポイントがあります。

まず、悩み事がパターン化していて、だいたい原因がわかってきます。悪くいうと、おんなじようなことばっかりで悩んで、おんなじようなことをして、おんなじようにうまくいかなくて、おんなじような原因があります。
こんな知り合いがいました、
仕事ではバリバリ外来診療(患者が病院にきて診察を受ける、よくある場面)をこなし、夜遅くまで多くの患者を診たことで、
診療科や病院の売り上げに貢献したのに、上層部からは、そのことを一度もコメントされない、給料も上がっていない、適切に評価されていないのではないのだろうか。

※病院の売り上げは、1人当たりの時間を短くして、効率的に数を受けると、上がります。

こんな感じですね。皆さんの経験でも聞いたことはあるのではないでしょうか。

経営陣が給料上げるわけないですよね。
一定の給料で、時間あたり多くの売り上げを出してくれたら、その差額が病院に入るんだから、この状態こそ望んでいたことで、
とても嬉しい、褒めたいというインセンティブは発生しないんです。
もっというと、保険診療(健康保険制度によって、1診療に一定の売り上げ額として決まっている。メルカリにみたいに価格を釣り上げられない)では、患者1人当たりの単価にはある程度限界があるので、なおさらです。
知り合いのやっていることは、当たり前で、何の問題もないわけです。しかもそういう契約で労働しているんですよね。

医療現場では、売上額がパブリックに制限されているので、報酬に上限があり、
金銭的には、やればやるほど、ある意味損になっていくし、手を抜けば抜くほど割りがいいってことになるわけです。
このスキームは固定化されているので、おんなじようなことが起こって、おんなじように考えあぐねる人が多くなります。

次に、時間、金、人間関係が自由に選択できるようになると、ほとんど問題にならなくなります。

例えば、以前また聞きですけど、知り合いの知り合いのFacebookで救急医のコメントがありました。

コロナが蔓延している時に大学院生だったが、大学医局(各大学の医学部にある、教授を組長とした組織で、構成員はいうことを聞かないといけない。)からの要請で、コロナを広く受け入れている救急病院に無報酬で派遣された。勤務時間が終わっても、忙しくて帰れない。出産も控えているのにあんまりだ。

仮想の人を想像してみましょう。
経済的に独立していると、オファーを断っても別に困らないし、業界で生きられなくなっても、新しい人間関係を自分で開拓していくこともできる、時間は大量にあるので、新しい人と会ったり他の仕事を見つけに行ったり、さまざまな選択肢を試すことができる。
となると、
そもそも、やりたくないことを押し付けられて、渋々やり、自分にダウンサイドを押し付けられるという状況が発生しなってきます。

だから、このシチュエーションは全然理解できないです。
そもそも、合ってないのに進んで奴隷になったわけです。(現代の奴隷制度は強制ではなく、自分で出願してなる)

あと、個人としての行動と、全体としての行動は別の誘因で動いていくので、
経済的にあまりにもアンバランスな状態が続くと、何らかの形で是正する力が働きます。
(どうしても必要な仕事であれば、報酬をあげて雇用が生み出されたりするなど)

逆にいうと、不条理なのに我慢して続けてしまう人がいると、システムとして修正されなくなってしまい、ある日吹っ飛ぶリスクが上がります。
(全員が一斉に命令を拒否して、医療現場が崩壊するなど)

そして、やがて、なぜもっと自由な時間を作らなきゃいけないか、実績を上げないといけないか、収益を上げないといけないのか、とかの理由が見当たらなくなってくるのです。なりたい自分を探すとか、なりたい自分になれない悩みとか、なりたい自分になるためのキャリア設計とかも、意味がわからなくなってきます。

患者がたくさんきて忙しいから、自由な時間が欲しくなったり、
自分の実力を他の医者と比べて、もっといい地位に登りたいと思うから、実績を上げないといけなくなったり、
子供もいて、これからどんどんお金がかかるし、いいものを持ちたいから、収入を上げたくなったりしている人が多いようですが、

そもそもそれらが全てある状態だと、
時間の無駄を最小限に抑えたり、効果的な実績のあげ方を模索したり、収益性を上げたりといった行為自体に冷めてきます。

例えば、
この状況で、Twitterをやり始めたとして、
効率的にみんなにいいねがもらえるTweetをするために、AIに文面を書いてもらって、自動化したり、
フォロワーを増やすために、いろんな人にいいねを押したり、フォローしてフォローバックを稼いだり、
TwitterやYoutube,ブログを収益化する、なんてことを考えててもちっとも楽しくないんですよね。

最終的には、周り大多数はそういう方向性で進んでいるので、人の気持ちがわからなくなってきます。今でもそうです。
何が問題なのかが理解できないですね。
他人が問題だと思って取り組んでいることが、どうでもよくなってきます。

時間がもったいないから、タクシーを使いまくって時短したり、
やたらと学会発表して、自分のHPに業績として貼りまくったり
マンション投資に手を出したり、
みたいなことを話してきても、苦労に共感できなくなります。

共感できなくなってしまうのは、ちょっと問題ではあります。会話は確実に合わなくなってきますね。

あと、みんなが悩んでいる問題がなくなったからといって、問題が全部なくなるわけではありません。

複雑な世界では、自分の人生に新たな課題が生まれたりします。

でも、その課題は、もうスキームが決まっていて、努力しても乗り越えられないから愚痴を言うだけのものではなく、

おそらく多くの人が経験していないであろう問題で、エビデンスがまだなく、が最初に直面するような新鮮な色彩を帯びていて、
自分が生きていることを実感する楽しい挑戦である場合が多いです。

どんな課題が新たに生じてきたのか、また別の機会にお話ししましょう。

続く