医者が病院を辞めた日⑤

金融ポートフォリオの場合と同じで、分散投資は科学にも必要である。

アヴィ・ローブ オウムアムアは地球人を見たか?

今の僕の生活は、週に数時間非常勤(いわゆるバイト)の医者の仕事があるだけで、ほとんど自由時間です。
大半の時間は、物思いに耽ったり、運動と読書と勉強と散歩しながら、人生のパートナーである鳥と過ごしています。
この生活になってから2年になります。

その準備として、今でもうまく機能しているポートフォリオを設計しました。

再現性はないので、詳細は割愛しますが、少し紹介しましょう。医療業界でない人にも当てはまるかもしませんし、当てはまらないかもしれません。

病院にいる単調で人工的な生活から、吐き気がするほど残酷で複雑な世界へ漕ぎ出す前に、ポートフォリオの話をしておきます。

外は、ある日突然巨大ハリケーンが到来するかもしれません。

生身のままでふらふらしていると、嵐が来たら、また建物に隠れたくなってしまうでしょう。

ここでいうポートフォリオは、人の金に一ミリも責任を負わないファイナンシャルプランナーがいうような、
収入を計算して、貯金の一部を証券と国債とオルカン(投資信託の一種)を組み合わせて、リスクを分散し資産形成しましょう、というペラペラなお話ではありません。

人生において吹っ飛ばないための、システムのようなものです。考え方や判断も含めて。

僕のポートフォリオは、疲れやすい体、学生時代人前でかいた恥、みんながしない失敗の数々が反映されていて、複雑な構造をしています。

従って、再現性はないと思われるので、その詳細には立ち入りませんが、少し紹介しましょう。

自分が吹っ飛ぶような衝撃があっても、致命的な影響を受けないロバストネス(頑健性、壊れにくい性質)が欲しいところですが、それだけでは不十分です。

僕はポートフォリオに、自然の摂理に従ってランダム性をちょっと加えました。

何をいっているかわからないと思います。
ランダムなことが起きるから、不安や危険があるんじゃないか、みんなそう思うと思います。

逆です、ランダムなことが起きる前提にシステムを組んでおく、とシステムは環境にうまくフィッティングしていきます。
人生においては、生々しくみずみずしく、鮮やかな色合いを帯びてきます。
偶然によって起こる出来事が、どのようにして僕たちの人生や考え方、行動を形作っていくか、体験することになります。

もっというと、ランダム性の実装です。

簡単な例で言うと、
僕の経営している会社には、方針が割れたときはコイントスで決める決まりにしています。
方針とは、未来への予測が含まれていることが多いです。
ただし、究極的に未来への予測なんてできません。
ある予測の結果が正しかったとしましょう、結果が起こった後から見て、ロジックの一貫性は正しく見えるでしょう。しかし、仮に、過程に少しでも別の要素が偶然つけくわわったら、全く同じ結果になるでしょうか。

東京から大阪のミーティングに出る時、時間に余裕を持って家を出るのはなぜでしょうか。

ある程度知識や判断能力のある人が集まって方針が割れたなら、どれが優れたモデル(想定みたいな意味)かではなくて、偶然起きた出来事による影響だとか、影響する出来事の係数(影響の度合い)の大きさの違いとかで結果が変わってきます、どうせそんなもんです。

何が言いたいかというと、これからどの予想が正しく未来を予想できているだろうかという議論に、本質的な意味はありません。

大事なのは、思いもよらなかったことで、未来が変わるかもしれないことを織り込み済みにするってことです。ランダム性への歓迎です。

偶然性が起こした、出来事の連鎖は、展開が早い、そんな特徴もあります。

こんな簡単なことは現実世界を生きている、パン屋、お笑い芸人、職人などはみんな知っていますが、東大とかを出ている戦略コンサルタントには理解できないようです。

彼らは、目的をたて、ひたすら最適化する行動しか取れない。いや、行動すらとっていない。
挙げ句の果てに、偶然がイノベーションに繋がった事例を引き合いに出し、ランダム性を用いて人為的に進歩を起こせると考えちゃっている痛いバカも出てくる始末です。
彼らは確率を勉強した高校生で頭の進歩が止まっています。学校や予備校教育の弊害でしょう。

ランダム性はランダム性です。確実に利益を生み出せるランダム性などありません。

話はそれましたが、
このエッセンスが後々いかに、僕の人生を豊かにしてくれたか、計り知れません。

つづく