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イラスト名建築ぶらり旅 with 宮沢洋&ヘリテージビジネスラボ⑪

3つの奇跡が残した「大正セセッション」の息吹

今回の行き先
原爆ドーム

原爆ドームはもともと何の施設だったかご存じだろうか。選択肢をいろいろ挙げたくなるが、もったいぶらずに言うと、広島県の「物産陳列館」である。今風に名付ければ「広島メッセ」か「広島国際展示場」だ。今回はそれを知ってからお読みいただきたい。なぜなら、この連載は「イラスト名建築ぶらり旅」。「原爆ドーム」と呼ばれる前の歴史を知ることで、この施設がタイトル通りの「名建築」であることがわかっていただけるはずだ。

7月の猛暑日、「原爆ドームの前」でガイド役の西澤崇雄さん(日建設計エンジニアリング部門 サスティナブルデザイングループ ヘリテージビジネスラボ)と待ち合わせした。集合時間になっても西澤さんが現れない。あのまじめな西澤さんが遅れるはずがない。そう思い、あふれる汗をぬぐいながら電話をかけると、西澤さんは私から見えない川の方(西側)にいた。

私は路面電車の「原爆ドーム前」電停の南側にいたのだが、建設当初のことを考えれば、正面玄関は川側。西澤さんは正しい。詳しくは後で説明するが、これもこの施設が名建築たる理由の1つである。

構造補強の調査・設計を日建設計が担当

そもそもこの連載でなぜ原爆ドームなのか。日建設計と何かしらの関連がある施設を訪ねているので、もちろん関係はある。元の建物の設計者? いや、元の建物「広島県物産陳列館」(後の広島県産業奨励館)は、1915年(大正4年)の完成で、チェコの建築家、ヤン・レツルが設計したもの。日建設計は比較的最近、2016年度に行われた構造補強工事の設計の中心になったのだ。日建設計って、そんな仕事もやっているのか……。
けれども、保存工事の内容を知ると、なるほどこれは日建設計らしい仕事だなと思う。今回は、改修設計の担当者に話が聞けなかったので、同社のサイトから引用する。

「まずは、大地震が起こった時に、建物のどこに力がかかるのかを知るため、調査を開始しました。広島市が作っていたCAD化された図面や、今後起こりうる大地震の波形などの資料を使い、最先端のシミュレーション技術を駆使して構造解析し、2012年にこの建物のウィークポイントを捜し当てました」。
「さらに2013年には、実際に建物のレンガを抜き出し強度の調査を重ね、構造解析や強度調査の結果をもとに10以上の補強案を立案しました」。

日建設計HP:世界に平和を発信し続けるために

補足すると、「レンガを抜き出し」というのは、レンガの壁の一部を筒状に切り出し、レンガ自体や目地部分の強度を調査するもので、「コア抜き調査」とも呼ばれる。
 また、ガイド役の西澤さんによれば、日建設計が提案した「10以上の補強案」の中には、建物全体を免震する案もあったという。(免震については「名古屋テレビ塔」のレポートを参照

未来のために「可逆的」な技術を使う

説明はこう続く。

「2015年には『原爆で壊れたレンガ壁に補強鉄骨材を取り付ける』という補強鋼材追加案の採用が決まりました。この方法は、数ある耐震改修技術の中でも決して最先端と言われるものではありません。むしろ、シンプルで最小限のものですが、ユネスコが世界遺産などを補修する際のグローバルスタンダードである①視覚上の外観変更は原則として行わないこと、②必要最小限の対策であること、③極力可逆的であること、から導き出された結論だったのです」。

日建設計HP:世界に平和を発信し続けるために

「可逆的」というのは、「元に戻せる」という意味だ。つまり、弱点となる部位の把握には最先端のコンピューター解析を駆使したが、補強の方法としては、 “鉄骨の補強部材を最小限加える”というベーシックな手法を選択したわけだ。それが一番、元に戻しやすいということである。

原爆ドームの保存工事を担当する広島市都市整備局緑化推進部公園整備課の担当者は、「被ばく当時の姿を未来に残すには、現在の信頼性の高い技術を使い、将来新しい技術ができたときにそれを置き換えられるようにもしておかなければならない」と話す。
そう聞くと「それって技術的にすごいの?」と戸惑うかもしれないが、「震度6弱の地震があっても倒壊しない想定」(市担当者)と聞けば、その効果の高さがわかるだろう。一撃必中の補強なのだ。

写真1 振動応答解析の図

本場の「セセッション」に影響を受けた建築家

話はいったん明治にさかのぼる。物産陳列館の設計者であるヤン・レツル(1880~1925年)は、明治末期に来日した外国人建築家だ。「チェコ近代建築の父」といわれるヤン・コチェラに師事して建築を学んだ後、1907年(明治40年)、ドイツ人建築家デ・ラランデの招きで来日した。このとき27歳。
この頃の日本の建築界は、教科書でもおなじみのジョサイア・コンドルが英国式建築教育で育てた第一世代の日本人建築家(辰野金吾や曽禰達蔵)がリードしており、ドイツ系は主流ではなかった。レツルは傍流のドイツ系建築家グループの最終組であったことから、むしろ自由に活動し、古典様式に「セセッション」を加味した“新しい建築”に挑んでいく。

「セセッション(Sezession)」は、「分離」を意味するドイツ語で、19世紀末、ドイツやオーストリアに興った絵画・建築・工芸の革新運動を指す。 建築分野では、お決まりの柱頭装飾が付いた古典様式から脱却し、曲線や幾何学に基づいたデザインが志向された。これは、「モダニズム建築」に向けての大きなステップとなる。
日本の建築界でも大正期にセセッションは大きなムーブメントとなった。レツルは母国で“本場のセセッション”の影響を受けた建築家であり、その代表作である物産陳列館が残っている意味は大きい。

原爆ドームも随所にセセッションの幾何学装飾

なぜレツルが広島の物産陳列館を設計したのか。レツルは来日するとすぐに神戸の「オリエンタルホテル」(デ・ラランデとの共同設計、現存せず)を手掛け、「聖心女子学院校舎」(1909年完成、正門のみ現存)、「雙葉高等女学校校舎(1910年完成、現存せず)などの学校を立て続けに実現する。そして、1913年に「宮城県営松島パークホテル」を完成させる。
この発注者であった宮城県知事の寺田祐之にレツルは気に入られた。寺田が宮城県知事から広島県知事に転任し、それが縁で広島県物産陳列館の設計を担当することになった。

現在に残る原爆ドームの細部を見ると、レツルがセセッションのデザインにチャレンジしていたことがよくわかる。あちこちに市松模様などの幾何学系が見られるので、じっくり見てほしい。
その一方で、ドーム内をのぞくと、明らかに「イオニア式」とわかる古典様式の柱が立つ。これは、「いかにも洋風なもの」を求めるクライアントをなだめるレツル流の処世術だろうか。

写真2 ドーム下のイオニア式柱

建物の中心が5層吹き抜けの楕円形の階段室というのもかなり大胆だ。これだけ高さのある吹き抜けで、かつ頂部にドーム屋根が架かる空間は、当時、さぞや話題になっただろう。

建物は一部に鉄骨を使用したレンガ造。内壁の大半はしっくい塗りの壁であったと考えられている。当時の図面を見ると、2階には柱のない「陳列室」がコの字形に広がっている。無柱の大空間は、現在の展示ホールの考え方だ。
それらに加えて先進的なのは、正面玄関が川を向いていること。利便性を考えれば別の位置に玄関があってもおかしくはないが、今で言う「親水性」を重視して全体を配置したのだろう。そのおかげで、今も川越しの全景が実に絵になる。

写真3 川越しに見た全景

奇跡1:爆風が真上から吹いた

そんなことが想像できるのも、一部とはいえ建物が残っているからだ。そこにはいくつかの奇跡が重なっている。
1つは、爆心から近かったこと。原子爆弾は産業奨励館の南東約160m、高度約600mの位置で炸裂した。以下、広島市のサイトより。

「建物内にいた人は全て即死し、建物は爆風と熱線により、大破し全焼しました。近距離で爆発した原子爆弾の威力は凄まじいものでしたが、建物の屋根やドーム部分は鉄骨部分を除き、多くは木材で作られていたため、真上からの爆風に対して耐力の弱い屋根を中心につぶされ、厚く作られていた側面の壁は完全には押しつぶされず、倒壊を免れました」。

広島市HP:原爆ドームは爆心地にとても近いのに、どうして崩れずに残ったのですか(FAQID-5817)

想像するとわかると思うが、レンガ積みの壁は横方向の力に弱い。もし爆心がもっと遠かったら、横風を受けて跡形もなかったかもしれない。爆風がほぼ真上からであったため、レンガは崩れずに残った。一説には、ドームの下が吹き抜けであったため、窓から爆風が抜けやすかったともいわれる。

奇跡2:丹下健三氏による公園計画

2つ目は終戦後の奇跡。それは日本を代表する建築家・丹下健三(1913~2005年)が大きな役割を果たした奇跡だ。
広島の平和記念資料館を含む広島平和記念公園は1949年、設計コンペによって設計者が決定された。他の応募案は、公園内に閉じたデザインだったが、唯一、丹下氏の案は、公園の外にある原爆ドームにビシッと軸線を向けたものだった。「原爆ドームこそが、これからの平和のシンボルである」ということを、言わずもがなで語っていた。

コンペ当時、原爆ドームは戦争の「残骸」にすぎなかった。市民から原爆ドームと呼ばれるようになったのは1950年代に入ってから。保存運動は、一人の被爆少女の声をきっかけに高まったといわれている。1953年に建物の所有権が広島県から広島市に移転。そして、1954年4月に平和記念公園が開園する。
広島市議会で永久保存が採択されたのは1966年だ。終戦から実に20年以上かかった。その間、原爆ドームを平和のシンボルとして浮き立たせた丹下氏の軸線が、保存運動の大きな原動力となったことは間違いないだろう。

写真4 おりづるタワーから平和記念公園を見る

奇跡3:大震災の前に本格的な補強工事

3つ目の奇跡は阪神淡路大震災(1995年)や芸予地震(2001年)でもほぼ無傷だったことだ。冒頭で書いた日建設計による構造補強は、実は4回目の保存工事で、大小の差はあるがこれまでに計5回の保存工事が行われている。
1967年(昭和42年) :第1回保存工事
1989年(平成元年) :第2回保存工事(翌年完了)
2002年(平成14年) :第3回保存工事(翌年完了)
2015年(平成27年) :第4回保存工事(翌年完了)
2020年(令和2年) :第5回保存工事(翌年完了)
 
1989年に行われた第2回保存工事は、長期保存を見据えた大掛かりな補強工事だった(工事費は約2億円で、うち1億円を募金で充当)。これを阪神淡路大震災の前に終えていたのは、不幸中の幸いだったといえる。第2回保存工事以降は概ね3年ごとに健全度調査を行い、新たな保存工事の必要性を判断している。

写真5 塗装されたドームの鉄骨:創建時からの鉄骨材が茶系色、補強材は黒系色で塗分けられている

昨年終了した第5回保存工事では、ドームの鉄骨を被爆直後に近い色に塗り直した。劣化を防ぐ意味もある。第5回の工事を終え、「今のところ大きな不安点はない」と広島市担当者は言う。今後は「奇跡」という言葉を使わずに、安心して未来に残していけそうだ。


■建築概要
広島県物産陳列館(現・原爆ドーム)
所在地:広島県広島市中区大手町1-10
設計:ヤン・レツル
竣工:1915年4月
構造:レンガ造(一部鉄骨造)、外装モルタルおよび石材仕上げ
階数:地上3階・一部5階
建築面積:1023㎡
史跡(1995年)、ユネスコ世界遺産(1996年)


取材・イラスト・文:宮沢洋(みやざわひろし)
画文家、編集者、BUNGA NET編集長
1967年東京生まれ。1990年早稲田大学政治経済学部卒業、日経BP社入社。建築専門誌「日経アーキテクチュア」編集部に配属。2016~19年、日経アーキテクチュア編集長。2020年4月から磯達雄とOffice Bungaを共同主宰。著書に「隈研吾建築図鑑」、「誰も知らない日建設計」、「昭和モダン建築巡礼」※、「プレモダン建築巡礼」※、「絶品・日本の歴史建築」※(※は磯達雄との共著)など

西澤 崇雄
日建設計エンジニアリング部門 サスティナブルデザイングループ ヘリテージビジネスラボ
アソシエイト ファシリティコンサルタント/博士(工学)
1992年、名古屋大学修士課程を経て、日建設計入社。専門は構造設計、耐震工学。
担当した構造設計建物に、愛知県庁本庁舎の免震レトロフィット、愛知県警本部の免震レトロフィットなどがあり、現在工事中の京都市本庁舎整備では、新築と免震レトロフィットが一体的に整備される複雑な建物の設計を担当している。歴史的価値の高い建物の免震レトロフィットに多く携わった経験を活かし、構造設計の実務を担当しながら、2016年よりヘリテージビジネスのチームを率いて活動を行っている。



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