「わからない」を受容する
モダンアートが好きだ。
一見何を伝えたいのかわからない作品もあるけれど、解説を読んで「この作品にはこういう意味が込められているんだ」と理解したり、友人と一緒に鑑賞して「これってこういう意味なのかな」と考察し合うのが楽しい。
でも、時には一人で鑑賞していて解説すら記されていない作品に出逢うこともあったりする。
そんな時は、とりあえず見たままに作品を飲み込んでみる。自分なりに意味を想像することもあれば、何もわからないまま、ただ作品を受け止めることもある。
それでいいんだと思う。
私はアートに関する知識が乏しいので一概には言えないけど、一旦制作者の手を離れた作品をどのように受容するかは、鑑賞者に委ねられているから。きっと「わからない」を受容するのも正解なんだ。
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話は少し変わる。
友人と話している時、一緒にいて居心地が良くて大好きな人でも、共感できなかったり同意できない考えに打ち当たることがある。
もしかしたら誤解かもしれないし、自分や相手の考えに変化が生じる可能性もあるので議論を続けることもあるけど、議論するしないに関わらず、最近は自分とは異なる考えをあえて「そのまま」受け止めることが多くなった。
共感できないのは悲しいし、モヤモヤを放置せず何れかの結論へと導くことも大切なことかもしれない。だけど、相手の環境や立場を私自身が経験しているわけではないのに、それを容易に自分や社会の価値基準、理屈に当てはめて結論付けてしまって良いのだろうか?むしろなんでも物差しで測りいずれかの箱に納めなければいけないのか?それこそ傲慢なのではないか?という思考に行き着くのだ。
もちろん、前提としてそうした意見の相違を認め、お互いを理解しようと努め、歩み寄ることは大事なことだと思う。
でも、そうじゃないことがあってもいい。
人間は、未知なるもの、理解できないもの、分からないものに対して恐怖や不安を覚える。
心理学か何かの本で読んだことがある。
だから人間は物事に意味を付けたくなる。恐怖から逃れるために理解しようとするのだと。
ただ「わからない」も、それはそれでいいと私は思うのだ。全てのことに意義や正解、結論を見出す必要はない。時を経て気づくことや、生涯理解できないことだってある。
それでいいと思ってしまう私は、思慮浅い人間なのだろうか...
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話を戻そう。
美術館で「よくわからない」作品に出逢った時、私は一旦立ち止まる。たとえ理解できなくても、横目に見ながらただ通り過ぎるのはなんだか心がモヤつくから。
何度眺めたところで結局理解はできないのだけれど、私はその作品を目に焼き付ける。作品と向き合って、その「わからなさ」を受容するのだ。
「わからない」から無視するでもなく
「わからない」から拒絶するでもなく
私は「わからない」も受け入れたいから
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