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恋人ではない、けれど

私は人を愛したいと思うし、愛されたいとも思う。

けれど愛を与え合う関係は、性愛を抜きにしても大抵の場合「恋人」に置き換えられてしまう。

それがなんだか、私にはもどかしい。

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大切な異性の友人が結婚して家庭を持つことになった。

喜ばしいはずなのに、なぜだか寂しい。

また会うことはできたとしても、きっと以前のような関係には戻れないから。

誰かと真の繋がりが生まれても、恋人という関係性を望まない限りそれ以上深くはなれない。

恋人になれなかった関係は、どんなに親しくてもこぼれ落ちて「友人」という枠に留まる。

そして相手に新しく恋人や配偶者ができた時、私と彼らとの関係性の違いは如実に示される。

恋人と友人が天秤にのせられた時、友人が選ばれることは稀だろうから。

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全部頭ではわかってること。

わかってることだけど、でもね

恋愛至上主義における「恋人」とか

法律や血縁に縛られた「家族」とか

そういうのが煩わしく思ってしまうことが、私にはある。

関係性に「名前」が付くことで、そこには責任と保証が生まれ、優先順位が付けられる。

それゆえ関係性は形式的に強くなるかもしれないけれど、それと心の繋がりとは必ずしも比例するものではないから。

それなら私は、関係性に特別な名前なんていらない。

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私が欲しいのは、

閉店時間を忘れてしまうくらいダイナーで語り合ったり

ベッドの上でピザを食べながらNetflixを観たり

歌いながらハイウェイをドライブしたり

窓から夜遊びに誘ったり

ラグに寝っ転がって秘密を教え合ったり

腫れた目で帰ったとき何も言わずに抱きしめたり

疲れて眠ってしまった身体にブランケットをそっと掛けたり

なんでもない話をしながら餃子を包んだり

道端の可愛らしい写真を送りあったり

2人にしかわからない言葉を作ったり

美味しいものを1人で食べた時「あの人にも食べさせたい」と顔が浮かんだり

踊ったり笑ったり、泣いたりできる

そんな関係。


その相手は恋人ではないかもしれない、けれど

私には等しく「特別」なんだ。






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