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果物

柿、リンゴ、梨、栗にイチジク。ザクロは近所の大きな木にたわわに実っています。

美味しい旬の果物はたくさんあります。日本全国、季節になると果物屋さんに並べられてそこからも季節の到来を知ることが出来ます。

今は年中、いつでも食べられるようになりましたが、子供のころは、スイカは夏。ミカンは冬。はっきりしていました。

連想するのはスイカなら縁側、風鈴、塩の瓶。小さな蟻の行列がせわしなく、巣のあるあたりに向かって動いていました。今は虫が苦手な人も多く、すぐに薬で駆除してしまうようですが、当時は気にもしない家族ばかりでした。のんびりしていたのでしょうか⁈

ミカンはなんといっても炬燵。いつも炬燵のテーブルには田舎から送られてきたミカンが籠に入れられて「お帰り」とでも言ってくれているようでした。

 沢山食べ過ぎると「体が黄色くなるよ!」と言われてましたがその時は黄色くなってもいいやといくつも食べて何度か鏡をのぞき込みました。

バナナは港に上げられた時は緑色だと父に教えられました。食べごろのをひと房おみやげにいただきましたが、あまりおいしそうだとは思いませんでしたが、黄色いそれはなんと幸せな甘さなんだろうと感激しました。

高級品だったというと笑われますが、輸入品自体なんでも高級で、バナナも同じ。バナナ専門店があったくらいです。元町のパルモア病院にお見舞いに行った時は、父が房のバナナとほかの果物の詰め合わせを持っていきました。栄養価が高いということもその時知りました。

それから、バナナは付かず離れず私の身近にあります。

子供の離乳食、たまにはケーキに。夏は冷凍してシャーベット。今では毎朝1本のバナナは必ず。

阪神淡路大震災の時、知り合いが家の倒壊で我が家に助けを求めてきました。古いおうちがことごとくなぎ倒されて、その中にぽつんと平成4年に建て替えた我が家だけが立っている状態でした。牛乳、パンとバナナしかなく子供たちは自転車で食料を探しに、近くの川にトイレ用の水を汲みに行くのが一日の仕事になっていました。しばらくすると近隣からたくさんの食料品や、日用品、水が送られてきました。

 インスタントラーメンに水、お菓子、日用品とそしてバナナ。私が好きなことを知っている叔母からでした。配達は従兄が。

主人が亡くなってたいへんなときにこの地震。「家が残ったことだけでも良かった。」とメモに書いてありました。

あの時の甘い味は今でも覚えています。最近その話を従兄にしましたが全く覚えておらず、車を走らせるのに道路が陥没していたり土砂が崩れていて果たして届けることが出来るかどうか、自分はちゃんと帰れるのかとそればかり気になっていたと話していました。アルも一緒にみんなでうちに来たらと言ってくれたのですが…。

寒い朝になりました。ニケは早く出たいのでしょう。玄関とリビングを何度も往復して誘います。

今日もいい日にしましょう!


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