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「鳥かごのハイディ」第十四話

Smoke
(5)

 秒針の音は心地好く、あの頃の記憶を呼び起こしていく。
「チャーリー! 今度教会に行くときは、わたしたちの大切な宝物を、神様に預かってもらいましょ!」
 窓から射す月明りの中、向かいのベッドに眠るエレノアがわたしに囁いた。
「宝物? オルゴールボックスに入れたわたしたちの思い出のこと?」
「そうよ! 他になにかあるの!?」

 そのオルゴールボックスには、たくさんの思い出が詰まっている。二人で拾った王冠のマークの入ったビールのキャップや、グランド・ブラフで拾った四つ葉のクローバーの押し花。何かの記念切手やコイン。すべて同じ物が二つずつ、それぞれわたしとエレノアの分とで入っていた。
 ペアではなかったのは、わたしとエレノアが並んで写った写真に、ママが作ってくれた魔法のシャボン液だけ。
 わたしたちはそれを思い出の宝物と呼び合い、オルゴールボックスの中に入れて大切に保管していた。この夜エレノアとそんな約束をしたわたしは、それを雨の週末の教会に持っていき、秘密の花園の切り株の下に埋めたの。

「じゃあ、その宝箱は今でも君たちの言う秘密の花園にあるのかい?」
「えぇ。そのはずよ」
 わたしが答えると、珍しく先生はその宝物に関して、興味を持ったようだった。
「その宝箱には、君がさっき言った物以外には、何も入ってないのかな? 例えば、誰かに宛てた手紙のような物だったり……」

 例えば……手紙?

 先生が訊ねた後、なぜ宝箱に手紙を入れる必要なんてあるのかとわたしは不思議に思った。
 あの宝箱は、わたしたち双子の大切な記憶の保管庫。だからママとの思い出の品は入れても手紙は入れない。それがママに宛てたものでも、ママから送られたものでも手元に置いておくと思うから……。
「一度、パパからもらったクイーンとナイトの駒を埋めようかって二人で話し合ったことはあるわ。とても気に入っていたし。でも埋めるには大き過ぎたし、毎年クリスマスオーナメントで使っていたから、諦めたわ……」
 この会話の中で、先生が何を引き出したいのかわからない。これ以上話を続けたいとは思えずわたしが押し黙っていると、先生が言った。
「話したくないなら、今は無理に話さなくても良いよ。じゃあ話題を変えようか?」
 そんな言葉に、正直救われたと感じる。なぜそう思ったのか? 説明できない気持ち悪さを抱えながらも、わたしはたしかに救われたと感じていた。

「では、仲の良かった双子の君たちが、どうして別々に暮らさなくてはならなかったんだい?」

 わたしは再び目を閉じ、足を放り出してソファーに横たわる。それまでずっと一緒だったわたしたちが離れて暮らさなくてはならなくなったきっかけ。それは、お母さんの病死だった。
 あの瞬間まで、わたしたちの毎日はグランド・ブラフの紅葉と青空の中で飛ばしたシャボン玉のようにキラキラと輝いていた。まさかそこに生と死を分ける境界線なんてものがあるとも知らずに。
 脳梗塞で倒れていたママを見つけたのは学校から帰ったわたしたち。あの日のことは今でも忘れない。
「ハイディー! ママ!!」
 いつものように玄関で叫ぶと答える声はなかった。家の中は静まり返り、まるで始めから誰も住んでなかったかのようにガランとした空気で満たされている。恐る恐る奥へと進んでいくと、キッチンの床に横たわるママの姿があった。
「ママ! ママ!?」
 いつから倒れてるのかもわからないママの体は、部屋を通り抜けていく風よりも冷たかった。
 死ぬってことが一体どんなことなのか、わたしもエレノアも、そのときまで知らなかったわ。でも、キッチンの床で冷たくなっているママの体を抱き寄せたとき、それがなんなのか知った気がしたの。最も知りたくない人を通して……。
 あの日のことを思うと、今でも涙が溢れてくる。誰かに首を絞められたように息苦しくて、自分の足で立つことさえできない気分に襲われるんだ。
 ガタガタと震えて座り込むわたしに、エレノアが言った。
「チャーリー! しっかりして! とにかく毛布をありったけ持ってきて、ママの体を温めるのよ!」
 エレノアの叫び声に一瞬我に返るけれど、震えが止まらない。立ち上がることもできず、泣き喚くので精一杯なわたしの目の前で、エレノアは家中の毛布をかき集めママを包むと、すぐさまパパの働く自動車工場と救急に電話をした。
 わたしはそのすべてを、ずっと泣きじゃくりながら、真っ白になった頭で眺めているだけだった。
 病院のベッドの上に横たわる綺麗なママに三人で再び会ったときも、わたしはずっと泣き止まず、ただ絶望の中でエレノアの手を握り締めていたわ。そして、いつも無口であまり感情を表に出さないパパも、このときばかりは大声をあげて呻くように泣き続けていたんだ。
 ラクロスのダウンタウンの騒音のようにわんわんと。

「辛い思い出だね。続きは今度にするかい?」

 薄暗がりに響く秒針と、啜り泣く声が響く部屋の中で、スタイルズ先生が気遣い声を掛けるけれど、わたしはそれを拒否した。

「……いいえ」

 アガサやクレアが言うように、今度こそ立ち上がらなくちゃ、二度と自分を取り戻すことなんてできない。思い出を辿れば辿るほど、家族の元に帰らなきゃならないって思う。パパの、そしてエレノアの傍にいたいって心から願うんだ。
 ……ママが亡くなったあの日から、すべてが変わってしまった。パパは輪をかけて無口になり、そしてお酒に逃げるようになってしまい、わたしは毎日ママの寝室に篭って思い出に浸っては、やがて学校にも行けなくなってしまった。
「エレノアはどうだったんだい? 彼女もやっぱり君と同じように篭ってしまったかい?」
 わたしは目に溜まった涙を拭い去ると、強い口調で話した。
「いいえ、彼女も変わってしまったけれど、わたしやパパとは違って、ただ悲しみに明け暮れるだけではなかったわ」
 エレノアは自分が姉だということを常に意識していた。だから、何をするにも率先して進み出たし、いつだってわたしを守ろうとわたしの前を歩いた。
 ママを失うという大きな壁にぶつかって、彼女だって言葉にできないほどの深い悲しみに打ちひしがれていたはず。それは、わたしやパパだって同じ。でも、エレノアはその責任感の強さから、残った家族を自分が守らなくてはという使命感に駆られていった。きっと急ぎ過ぎたのね。深い傷を癒すには、それなりに時間が必要だってことをすっかり忘れてしまったみたいに必死だった。
 8年生が終わる頃、すっかり不登校に陥っていたわたしを無理矢理立ち直らせるため、エレノアはパパと結託して、何の相談もなくミルウォーキーの学生寮のある学校へとわたしを追いやったわ! 
 泣きながら懇願するわたしに、パパもエレノアも「お前のためだ」というばかりで、結局最後まで願いは聞き入れてもらえなかった。――ラクロスにはママとの思い出が溢れ過ぎている。ここに留まったままでは、お前は立ち直ることができない。だから、とりあえず一年間だけでも、ラクロスを離れた方が良いって!
 だからわたしは一年間、ずっと苦しみながら耐えたのよ? こういうときこそ、家族で手を取り合わなきゃいけないはずなのに、独りきりで見知らぬ街に放り出されてまで!
 そして耐え抜いて、ようやくミルウォーキーでの一年を終えて夏休みに戻ったわたしに、エレノアは言った。
「チャーリー。悪いけれど、あなたはまだここに帰ってこない方が良いわ」って!

 すべてに絶望を感じ、追い込まれたわたしは!? 

 気がつけば、いつの間にかわたしは体を起こし、身を乗り出して先生を怒鳴りつけていた。真っ黒な衝動がこの頭を支配して、ドス黒い咆哮を撒き散らしている。なのに、涙が後から後から溢れてきて、この心は憂鬱の中に沈んでいくんだ。
「君は、今でもエレノアが許せないのかい?」
 淡々とした口調で話す先生の言葉に、わたしは雷にでも打たれた気持ちになった。わたしがエレノアを許せない? この、お腹の底から湧き上がる言葉にならないほどのドス黒い塊が、エレノアに対するわたしの怒り?
「違うわ! わたしを許せないのは、むしろエレノアの方よ! 未だに顔さえも見せてはくれないもの!」
 自分でさえ気づいていなかった怒りの矛先の正体を見透かされた気分で、わたしはそれを覆い隠すように叫ぶ。
「じゃあなぜ? エレノアは君に会おうとはしないんだろう? 母親の死というものを経験し、命の尊さを知ったはずの彼女は、なぜ直接会って君と話をしたがらないんだろう? 現に君はこうして生きているのに……」
 先生の言葉が重くのしかかる。そんなの知らない! 心はそう叫びながらも、わたしは願っている。
「わたしは……わたしは……」
 頭が割れるように痛い。自分が自分でわからなくなる。でもこんな感覚に陥ったのは、これが初めてじゃない。
 混乱する頭で必死に正解を掴み取ろうと考える。エレノアが会いに来ない理由、会おうとしない理由、それはなに? ――わたし自身が、エレノアを拒絶しているから? あんなにも、彼女の側にいたいと願い続けたわたし自身が、エレノアを遠ざけていたって先生は言いたいの? 
「……つまり、わたしがエレノアを許すことができたら、彼女もわたしに会いにきて、わたしたちは正常に戻れるの?」
 そう訊ねると、スタイルズ先生は、不思議と悲しそうな表情を浮かべて首を振った。
「違うよ。問題はね、もっと複雑なんだ。とにかく今は、君がしっかりと君自身に向き合わなくてはならない」

 先生は何を言ってるの? 
 一体何が言いたいの? 

 さっきまで、言葉でのコミュニケーションがとれてたはずの相手が、次の瞬間には、まったく知らない異国の言葉を唱えてるような感覚でさっぱりわからない。でも、ただ一つだけわかったのは、この部屋の空気が変わったってことだった。
 薄暗く、秒針だけが静かに規則正しく刻んでいるのに、まるでアスピリンを大量に飲み干して病院に担ぎ込まれたあのときのように、わたしを除いたすべての時間が、滝の流れのように早く感じるんだ。
「先生! どうしよう!? 自分で自分のことがわからなくなってしまったよ! 教えてよ! わたしはどうすれば治るのよ!? どうすれば元に戻るのよ!!」
 縋るように叫ぶ声も、極度の興奮状態で呂律も回らない。
「落ち着きなさい。そして思い出すんだ。君たちが秘密の花園に埋めた宝箱の中味を。そこには、手紙が入っていたはずだよ?」
 手紙? ……また手紙。どうして先生が、わたしたちの思い出の宝箱の中味を知ってるの? 
「君は覚えているはずだ。宝箱の中の手紙は、君が入れたのか? それとも君が読んだのか?」
 先生の言葉で、記憶の箱の蓋が少しだけ開いたような気がした。隙間から溢れてくるのは、この内から溢れ出すドス黒い塊のそれとまったく同じに見える。
 そして、わたしの本能は叫び声を上げる。

「そいつを開いちゃならない」って。
「お前に幸せになる資格なんてない」って。
 動かないはずの先生の眉毛が、ぴくりと動いたように見えた。

 ――まただ! まただ!!

「嫌ッ! ……嫌よ!」

 気がつけば、わたしはカウンセリングルームを飛び出し、誰もいないエレベーターホールへと逃げ出していた。

 頭の中は壁と同じに真っ白で、止まらない涙がすべてを押し流して消し去っていく気分だ。ただ、自分に隠されている真実というものが本当にあるなら、きっとわたしの本能はそれを認めようとはしていない。
 エレベーターの呼び出しスイッチを祈るような気持ちで何度も押すと無機質な壁に小さな明かりが灯り、チャイムが鳴り扉が開く。わたしの願いは神様に聞き入れられ、重たい扉の向こう側は光りで溢れている。
 わたしは光りの内側へと足を踏み入れると、ふたつめのスイッチを押した。
 ホールの先では、慌てて飛び出してきたスタイルズ先生が血相を変えて何かを叫んでいる。あんなにも取り乱した姿を見るのは初めてだった。

「もううんざりよ! わたしはここを出て、エレノアに会いに行くわ!」
 閉まる扉の向こうから先生の叫び声が聞こえる。

「待つんだ! エレノア!」
 跳ね上がっていく鼓動と、止められない涙。狭い箱のなか、激しい頭痛で平衡感覚さえ保てないわたしの耳に、なぜかスタイルズ先生が叫んだ言葉はそんな風に届いていた。

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