見出し画像

教職大学院で教員が研究に取り組む意味

私は2年ほど前に教職大学院を卒業しました。勤務する自治体の現職派遣研修の制度を利用して1年間学びの場に身を置き、「課題研究」にも取り組みました。教職大学院での1年間はとても充実したものになり、様々な経験や人とのつながりから学ぶことができました。

しかし、1年間の集大成として提出した課題研究については、正直なところ満足できませんでした。この程度しかできなかったという残念な気持ちが拭えず悔しい思いをしました。今思うと、1年やそこらで「研究」として満足のできるものが仕上げられるはずがないというのも理解できます。研究の世界の厳しさを知るよいきっかけになったとも思います。

卒業から2年が経ち、課題研究で学んだことは今の自分に大きく影響していると感じるようになりました。研究としては、とても未熟なものだったけれど、そこで、学んだことはとても大きかったように思います。

そこで、今日は教職大学院での課題研究への取り組みについて改めて振り返ってみたいと思います。そして、2年経った今の自分が感じている「課題研究から学んだこと」について書いてみたいと思います。

課題研究に取り組んだ院生時代

私が通っていた教職大学院の課題研究は、修士論文などのような厳密な審査はありませんでしたが、それは教職大学院での学びの集大成であり、どの院生も熱を込めて取り組んでいました。

4月~7月

私の研究テーマは、「校内研究」でした。教職大学院に入学したときに「よい校内研究とはどんなものかを研究により明らかにし、提案する」という責務を自分に課して、意気揚々と大学院生活をスタートさせました。でも本当は「自分の経験から導き出したよい校内研究を広めたい」という気持ちでいっぱいでした。

具体的に研究が始まると、私は自分の言いたいことを主張するのに都合のよい文献を探していました。そして、都合よく自分の提案の根拠にしようとしました。大学院の先生に、「あなたがよいと思っているものは本当によいものなの?」というような問いを様々な形で投げかけてもらっていたのだと今振り返れば思うのですが、入学の動機(教育委員会の面接でも語った決意)がそもそも「よい校内研究を提案し、広めたい!」というものだったので、「分からないことを研究で明らかにする」という感覚が全くイメージできなかったのです。

自分の主張したいことは決まっていたにもかかわらず、それが分かっていないということにして、それを研究で明らかにするというストーリーを無意識に描いていました。

「自分がよいと思っている校内研究が、本当に良いものなのか」ということに疑問をもち始めたきっかけは、予定外の校内研究訪問でした。私は、今までにあまり例のない新しい形の校内研究をしている学校を見に行きたいと思っていたのですが、「せっかくだから、一般的な普通の学校の校内研究も見に行っておこうかな」という軽い気持ちで、大学院の先生が講師で入っている学校の研究授業と協議会を見せてもらうことにしました。

すると、一般的な普通の学校の校内研究にも様々な違いがあることが見て取れました。昔からよくある形式化された校内研究でも、とてもアットホームで意見交換が盛んな校内研究が存在し、「自分の研究テーマは本当にこれでいいのかな?」と揺さぶられ始めました。また、「新しい形の校内研究を提案したところで、それが多数派になるのだろうか」との懸念も広がり始めました。昔からある形式化された校内研究の文化の根深さを目の当たりにしたからです。

さらに、自分が提案しようと思っていた校内研究を活性化させる要素のようなものは、既にたくさんの先行研究の中で扱われてきており、自分が提案しようとしていたものなんて大して価値が無いように思えてきました。新しいと思っていたものは、特段新しいものではなかったことに気付き始めました。同じような研究があるのに自分がやる意味は何なのだろうと思いました。

自分が都合よく文献を引用しようとしてきたことも自覚するようになり、研究テーマが白紙に戻りました。文献は山の様にあり、どれが自分の研究に関係する重要なものなのか見当もつきません。文献の海で溺れかけている人みたいな状態になっていました。これが、夏休みの頃です。

8月~11月

しかし、無情にも時は過ぎていきます。まだまだあると思っていた大学院生活はいつの間にか折り返し地点に近づき、課題研究のテーマ設定で迷っている場合ではない時期に来ていました。

4月からの学びの中で、研究には量的研究と質的研究というのがあることを知り、自分がやるのは質的研究だということはなんとなく決めていました。特に、校内研究に関するインタビューを通して、教員の本音を探りたいという思いはずっともっていたので、4月に考えていた自分の主張は一度脇に置いて、校内研究に関するインタビューを行うことにしました。

インタビューをやってみて、見えてきたことはたくさんありました。自分の主張を一旦白紙にすることができたのは大きかったと今振り返ると思います。自分の予想通りの部分もありましたが、思っていたこととは異なる発見もあり、この調査活動や自分の研究しようとしていることにも価値があると思えてきました。忙しい中、私のインタビューに協力してくださった方々には本当に感謝しています。

10月の中間報告会は、インタビュー結果を整理したものをパワーポイントにまとめて、発表しました。インタビュー直後だったこともありますが、まとめ方に客観性が無く、結果としてやはり自分にとって都合のよいものになっていたと思います。

12月~2月

インタビュー結果を分析することになりました。全てのインタビューを文字起こしし、M-GTAという手法を真似して行いました。分析も、本当に手探り状態の真似事でしたが、こういう分析の方法があるんだというのを知ったことは純粋におもしろかったです。

結果のまとめには最後まで自信がもてませんでした。「ああ、これで大学院での研究は終わるのだな」と思いました。「もっとやれたんじゃないか」そんな気持ちも湧きました。

こういった感想は、多くの現職院生から聞かれました。満足して終わった人はいないのではないかなと思います。たった1年体験しただけで「研究」を形にできるほど簡単ではありません。「研究」というのは奥が深く簡単なものではないという事実を知ったことこそが大学院での学びだったとも言えます。

卒業後も続く課題研究

卒業して学校現場に戻ると、自分の課題研究を現実の場面でもう一度なぞるような思考が働きました。様々な人と校内研究について話をする度に、課題研究で取り組んだことが思い出されます。

それは単に思い出として頭の中に出てくるのではなく、自分が課題研究で整理した概念を補ったり、概念図を拡張させたりするするような形で、頭に残っていきました。研究の世界では通用しない真似事の研究だったけれど、自分の関心事はやはりこれなのだという自覚のようなものが強まりました。

そうやって自分の中で続いていく探究は、大学院で得たつながりをきっかけに広がっていきました。校内研究について人前で話したり、雑誌に短い文章を執筆したりする機会をいただいたことで、現在の取り組みと大学院での学びがつながり、頭の中で再編成されていったように思います。他の人の前で話したり、文章として示したりするには、きちんと吟味しなくてはなりません。その吟味が理論と実践の往還につながっていきました。

課題研究を経験したことによる自分の変化

課題研究を経験したことで、様々な自分の中での変化を感じています。例えば以下のようなものです。

①客観的なものの見方

起きている出来事を以前より客観的に捉え、おもしろさを発見できるようになったように感じます。以前は、すぐに「これはいい」「これは良くない」というように価値づける傾向がありました。その価値づけの多くは、自分のこれまでの経験や好きな実践家の考え方をベースにしたものです。

でも、課題研究での失敗経験(自分がいいと思うものが本当によいのかどうかはわからないと考える体験)があってからは、「本当にそれがよいものなのか」という問いが浮かんできました。「良くない」と思ったものについても同様です。まずは、起きている出来事を一歩外から捉えて、判断はその後にしようと考えるようになりました。

②歴史にあたる・文献にあたる

教育関係のニュースを見たり、学校現場における改革について目にすることはたくさんあります。そこでは、それがとても新しいことのように語られる場合がありますが、実際はかなり昔に同じような動きが合ったりします。最近は様々な言葉が創り出され、新しいものとして語られることも多いですが、歴史的に見たら別に新しくもなんともない場合もあるので、注意が必要です。(もちろん時代が変わっているので、当然全て同じように捉えられるわけではありませんが。)

これは、課題研究で「自分の主張しようとしていることは、大抵既に誰かが取り組んでいる」ということを学んだのが大きいです。当然「新しいことを考えました!」と主張することには慎重になりますし、新しいワードにも振り回されずに済みます。

本当は、歴史的な背景を理解するための本をもっと読めればよいのですが、なかなか時間が取れないのが残念です。

③「引用」の重要性

課題研究で一番苦労したのが「引用」です。これは今も上手にできるようになったとは言えませんが、その重要性は身に染みています。

コロナ禍でGIGAの端末が導入されたころに私は大学院にいました。卒業後、学校現場に戻ると一人一台端末が支給され、子どもたちがパソコンに向かう授業が普通になりました。何かを調べるというとすぐに「パソコンで調べていいですか?」と言う子どもたち。パソコンを使うとなんだか調べた気になるようです。

自分の考えをまとめることや目的や意図をもって調べること、誰かの文章を引用するときにはきちんとそれを書くことなどを学校教育の中で取り扱っていかなければという気持ちが高まりました。

④文脈を読み取る・文化に目を向ける

教育という世界のできごとは数値では表しにくいと以前から思っていましたが、課題研究を通して、改めてそのことを実感しました。例えば、「Aさんのクラスでは9割の児童が漢字テストで毎回100点を取ります。」と聞いたときに、「Aさんは指導力があるのだな」と簡単に納得できますか?私はできません。そして、100点ではない1割の児童の気持ちや状況、教員と子どもたちとの関係性など様々なことが気になります。

教育について「効果があった」と示されているものの中には、子どもの実態を捉える手段のうちのごく一部を切り取っているものが多く含まれているように思います。教育の効果を測ることは容易ではありません。安易に、結果や数値だけに執着せず、できるだけ自分で見たことや聞いたことから考えたいと思っています。

自分の課題研究で「こうすれば校内研究はうまくいく」と提示しようとしたけれど、実際いろいろな学校を見に行くと「うまくいかないと思った方法でやっているのに結構うまくいっているんじゃない?」とか「うまくいくはずなのに、なんだか難しそう」とかいろんなことを肌で感じました。そうした肌感覚を大事にして、その状況が起きている文脈やそこにある文化に目を向けたいと考えるようになりました。

校内研究も「研究」と名の付くものだった

ここまで、読んでくださったあなたは、学校のことをよく知っている方でしょうか。「課題研究」と「校内研究」どちらも「研究」がついていて、少し分かりにくかったと思います。

「校内研究」は、各学校で行われる授業研究のことを指す総称のようなものです。だいたいどこの学校でも行っていて、「どういう授業をしたら子どもに○○力がつくか」とか「どうすれば子どもの意欲が高まるか」などについて研究しています。中には、「算数の授業を通して」とか「ICT活用を通して」などのように教科や手段を限定するものもあります。私はこの「校内研究」を「課題研究」のテーマにしていたというわけです。

ところで、校内研究も「研究」のはずなのに、研究者が行う「研究」とはかけ離れています。「○○をしたら◇◇になるのではないか」のような研究仮説を立て、アンケートをとって○○をする前と後の◇◇を比較する…というような校内研究があちこちで行われています。

「研究」という名がついていながら、その信頼性や妥当性はあまり検討されず、年度の終わりには「成果があった」という結論に至る。このような方法が、教員の行う研究の世界に蔓延っており、校内研究の取り組み方の唯一の正解であるような捉えられ方をしています。このことは残念でなりません

こうした校内研究が教員の学びの意欲を低下させてしまう例も多いです。それをなんとかしたくて「校内研究」を研究テーマとしました。

「学校で教員が行う研究(=校内研究)」の意義をもう一度考え、価値のあるものにしていきたい。これが私の願いです。それは研究者の行うような研究を目指すということではありません。研究者と同じような研究はどうやったって現場の教員が行うことは不可能です。でも、教員だからこそできる研究があるはずだと私は思っています。その例を少しずつ見つけ、提示していくのが、今の自分の目標です。

研究には、量的研究と質的研究がありました。研究の方法も質問紙調査ばかりでなく、エピソードを記述したりインタビューを分析したりといろいろでした。たくさんの文献に触れる中で、心に響く研究や新しい気付きを与えてくれる印象的な研究がありました。

校内研究ももっと様々な取り組み方がもっと認められるようになってほしい。そして、素敵な校内研究をしている学校に出会ったときに「それを広める」とか「学校を改革する」というのとは違うアプローチができたら、私たち教員はもう少し楽に学べるようになるんじゃないかと思います。

終わりに

大学院で取り組んだ課題研究では、自分の無力さを感じたり、難しさに直面して身動きが取れなくなったりしたこともありました。でも、その経験は確実に自分の力になったと思います。

「校内研究をより楽しく充実したものにしたい」という願いは大学院に入ったころから変わりません。でも、その実現に向けた視野の広がりや自分の行動は大きく変わりました。これからも様々な人とのつながりや経験を積み重ねながら、この探究は続いていきます。それを心から楽しんでいきたいです。

(かなりの長文になってしまいました。最後までお読みいただきありがとうございました。)