見出し画像

不良は過酷 後編(11)

この上下関係の影響で私は当分の間感覚が狂っていて調整するのに苦労をしました。年上がご飯をご馳走してくれたり、一緒の同じ立ち位置で何かを楽しんだり、殴られるどころか気を遣われたり、

こんなことしてもらってええんやろうか


その葛藤と混乱がぐるぐると頭の中を回っておりました。今でも多少その感覚は残っています。ただ、得たものもあるので、その事は前向きに考えています。特にその時の友人達と出会えたことは一番大きな得たものになりました。

この後私たちがどうしたかと言いますと、数年間先輩たちから逃げ続けます。全員で話し合ってそう決めました。先輩からの電話などはそう決めた日から全て無視しました。街中で先輩を見かけたら全員すぐに連絡して情報を共有し、先輩に見つかった時は他の友人は巻き込まず絶対チクらない。これを徹底してやりました。私も何度も1人の時に捕まってしまいました。

「お前ら最近全然電話出えへんやんけ。◯◯の連絡先知ってるやろ。教えろや」


何度もしつこく聞かれ殴られることも長時間連れ回されることもありましたが、絶対にチクリませんでした。他の友人達もそうでした。先輩に捕まっていてその場で電話させられて、友人を誘き寄せるような誘拐犯のような作戦も何度もされました。でも事前にバレないようにワンコールなどを友人にしていて徹底的に対策を取っていました。携帯もチェックされるので、こちらも対策を強化し、友人の名前は携帯の電話帳で違う名前で登録をしました。全員でそれも徹底していました。

そんな生活を数年続けるとやっと先輩たちと疎遠になることが出来、それと同時に非行の世界からも全員で完全に足を洗うことが出来ました。

私が子どもたちを支援する仕事をしたいと言った時、色んな人に絶対無理だと散々言われましたが、仲間は誰一人私を否定せず全員が背中を押してくれました。

母子家庭だったので予備校も行けず、大検を独学で受けた時。みんなが協力してくれて友だちの友だちなどにも声をかけ使い古した教科書を30冊集めてくれました。その教科書を使って1日10時間勉強して1か月で大検に合格できました。

大学で関東に行く時は送別会を開いてくれ全員で応援してくれました。今でも大阪に帰るとすぐにみんな集まってくれます。

のちに東京で結婚式を挙げる時にはみんなかけつけてくれました。私の方は教育委員会の方が挨拶をして下さり、出席者は学校の先生方が大勢いらっしゃって下さりましたが、私は紹介のムービーで仲間との写真を沢山出しました。色が付いて刺繍が入った卒業式の学ランの写真なども出しました。仲間と出会えたことに関しては何も恥ることがない胸を張れることでした。

結婚式の最中に号泣してくれている仲間も居ました。男同士の仲間の結婚式で男が号泣してくれるなんて中々ないと思います。

私は最後のスピーチの一部でこう言いました。

「私の親族席は4人しか埋まってなくて妻の方は何十人の親族の方が来て下さっています。しかし、席は同じだけ埋まっています。私は親族は少ないですが、ここに来て下さっている方々に育ててもらい助けてもらいました。私は血の繋がりだけではなく人と人との繋がりの大切さを教えて頂きました。」


こんなセリフを結婚式で胸を張って言える仲間と出会えたのは私にとって一生の財産です。


この記事が参加している募集

#スキしてみて

526,651件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?